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エピローグ 目を開けて
病院を出ると、春の到来を教えてくれる温かな風が吹いていた。
面会に来てくれた朝陽くんと、病院の敷地内にあるベンチに腰かける。頭上にあるだろう桜の木は、目を見張るほど鮮やかな薄紅色をしているのだろう。
「退院、いつ頃になりそうなんだ?」
「明々後日にはできるみたい」
私は初めに右目、三か月後に左目の角膜移植手術を受けた。全身麻酔で一時間、意識がないので起きたら手術が終わっていた。
三月、私も朝陽くんも学校は春休みに入っている。今日に至るまで、本当にいろんなことがあった。
まず、私は九月から盲学校に通っている。実際に行く前は、いよいよ自分が庇護されなきゃ生きていけない存在になってしまったのだと考えてしまい、喪失感があった。
でも、盲学校に通っている同級生たちは、目が見える人と変わらない生活を送っていた。テレビや映画は画面に映っている場所の情景や人物の動き、表情などを解説してくれる音声ガイドで楽しんでいるし、オシャレもカメラで服を撮影するとそれが何色なのかを音声で教えてくれるアプリを使ってする。
視覚が不自由であること以外、晴眼者(せいがんしゃ)──目が見える人と変わらない。なのに、私が自分に『普通とは違う』と偏見の目を向けていたんだと気づかされた。
点字ブロックのない場所が結構あって怖いなと思ったこと、物との間合いを確かめながら動くのが難しいと感じたことを『わかる』と理解してくれる。盲学校のみんなに出会えて、私は心が楽になった。
同じ立場の人たちが生き生きとしている姿を見ることで、私も活力をもらえるので、盲学校に行って本当によかったと思っている。
いろいろあったといえば、もうひとつはお父さんの無実が認められたことだ。聖也さんが出頭する前に、ご両親を連れてうちを訪ねてきたのだが──。
『三葉さんたちの大事な家族の時間を奪ってしまって、申し訳ありませんでした』
聖也さんとお父さんはそう言って頭を下げた。お母さんの話によれば、そばに控えていた朝陽くんと、朝陽くんのお義母さんも、それに続くように頭を垂れたそうだ。私にはその光景は見えなかったが、重苦しい空気だけは肌で感じていた。
そのあと家族で警察署に行き、聖也さんは自供したのだと、あとで朝陽くんから聞いた。裁判が行なわれ、無実となったお父さんは出所してうちにいる。
お母さんとした『全部解決して、お父さんが自由になったら、一緒に迎えに行こうね』という約束も果たすことができた。これからは離れていた時間を埋めていく。これから作る過去のほうが長くなるのだから。
「その……最初に手術を受けたほうの目は、もう見えてるのか?」
今までのことを振り返っていたら、朝陽くんが躊躇いがちに尋ねてきた。その理由はわかっている。私の目に頑丈に包帯が巻かれているせいだろう。
「……視力が充分に出るまでには、早い人でも一か月……遅い人だと半年以上かかるんだって。入院中によく見えるようになる人は稀らしいんだ」
私は両目の大げさに巻かれた包帯に触れる。
「右目は手術してから三か月も経ってる。本当なら、手術の翌朝には眼帯も取れるの。でも……」
──私は頑丈に包帯で、この目を塞いでいる。
「怖いのか?」
ベンチに置いていた私の手の甲が温かくなる。私の不安に寄り添うように、朝陽くんが手を重ねてきた。
「うん……すごく怖い。見えないことを受け入れたはずだったのに……やっぱり怖いものは怖いんだね。手術したのに世界が真っ暗なままだったらって、嫌な考えばかり浮かんじゃう」
「だから、見たくないのか? 世界を……」
「そう。目を開けるのが怖い」
正直に白状すれば、朝陽くんはしばらく黙考していた。やがて空気を変えるように、「実はさ」と切り出した。
「今日、聖也から手紙を預かってきたんだ」
「手紙?」
ガサガサとポケットから手紙を取り出すような音がしたあと、朝陽くんが私に持たせてくれる。
「兄さん、陽菜さんへ。本当は手紙を送ってもいいものか、迷ったけど……」
朝陽くんの手紙の朗読に耳を傾けていたら、自然と聖也さん自身の声に聴こえてきた。手紙から、聖也さんの心を感じたからかもしれない。
『本当は手紙を送ってもいいものか、迷ったけど……僕にできる罪滅ぼしってなんだろうって考えたとき、陽菜さんが毎年、事件の日に送ってくれたように手紙を書くことを思いついたんだ』
『僕が自分の罪を忘れていないこと。僕なりにどう罪に向き合っていくのかを伝えることから始めようと思った』
『それから……誰かを傷つけないために、自分の怪物のことをもっと知ってみよう。そう思っていたところに、少年院で精神科医の診察を受ける機会があったんだ。そこで自分が『境界性パーソナリティ障害』だってことがわかった』
そこまで聞いて、「え……」とつい、呟いてしまう。どういう病気かはわからないけれど、聖也さんの過剰なまでな自己否定が病気であったなら、ずっと苦しかっただろうと。
『境界性パーソナリティ障害の人は自分が見捨てられるんじゃないかっていう強い不安を持っていて、人からの完全な愛を求める。だから暴力や女の武器を使って、いろいろな方法で周囲の人を操ろうとするんだって。自分の味方を作るために嘘をついて、他人を仲違いさせることもあるらしいんだ』
聖也さんが朝陽くんに殴られたと嘘をついて家族から孤立させたのも、私を道路に突き飛ばしたのも、自分を傷つけてまでお父さんに罪を着せたのも、病気だったから?
『感情の起伏が激しくて爆発的な怒りを抑えることができないとか、極端なわがままを言うとか、自分に当てはまりすぎて胸が痛かった。でも、同時に自分がおかしいのが病気のせいだったんだって知れて、涙が止まらなかったよ』
なんでか聖也さんの涙が自分に移ってしまったかのように、私の目からも雫がこぼれた。手紙の上にぽたっと落ちるのが音でわかる。
『兄さんが言ったみたいに、それが人を傷つけていい言い訳にはならないって、ちゃんとわかってる。けど、名前のわからない化け物をずっと自分の中に飼ってる気分だったんだ。それに名前がついた。心の底から、ほっとしたんだ』
『兄さんたちが僕の化け物を見つけてくれた。母さんですら見ないふりをしていたのに、兄さんたちは真正面からぶつかってきてくれた』
『精神科の先生から僕と同じ病気の殺人犯がいたことを聞いたんだけど、診断を受けても善悪の判断はついただろうって有罪判決を受けたんだって。僕もそちら側に片足を突っ込んでる。兄さんたちが止めてくれなかったら、僕は誰かの命を奪ってしまっていたと思う』
『だから改めて、陽菜さんが生きていてくれたことに安堵したんだ。陽菜さん、謝って済む問題じゃないってわかってるけど、どうしても言わせてください』
『本当に申し訳ありませんでした』
聖也さんの謝罪に、いろんな感情が込み上げる。
許せるわけがない。お父さんに対する世間の目のように、聖也さんに一生償ってもらっても戻ってこないものがある。私たち家族はそれを抱えながら生きていかなければならない。それに、私の目だって一生見えないままかもしれない。私たちの光を奪っておいて、自分だけ謝って楽になろうとするなんて許せない。そんな気持ちも否定できない。
だけど、青砥聖也というひとりの人間がかわいそうで仕方なかった。同情は嫌いだって聖也さんは言っていたけれど、やっぱり私は彼が病気になったのは彼のせいだけじゃないと思う。彼を孤独にした周囲の人間にも責任があったと思うのだ。
『僕はこれからも自分の中にいる化け物と向き合って、時には戦って、共存していく。だから、見守っていてください』
「……青砥聖也より」
朝陽くんの声が途切れると、私は目元を手の甲で拭う。手紙の表面を撫でると、落ちた涙でふやけたのか、波打っていた。
「境界性パーソナリティ障害のこと、俺も自分なりに調べてみたんだけどさ。機嫌よく笑ってたかと思ったら、その数秒後には怒り出して暴れてる……ってことがよくあるらしい」
手紙を読んだ朝陽くんは、聖也さんのことを知ろうとしたのだと思った。それは弟に対する感情なのか、それとも名前の付けられない特別な感情からなのかはわからない。
でも、朝陽くんは自分の人生を狂わせた青砥聖也という人間に逃げずに向き合っていた。
「『感情のジェットコースター』って呼ばれることもあるらしいんだけど、他人から見ても、自分自身ですら……なんで自分が怒ってるのかついていけないんだって」
「そう……」
「今思えば、心当たりがなかったわけじゃないんだ。父親に誕生日に貰ったヘッドホンが壊された日……あいつ、俺のスマホについてたキーホルダー見て、顔色が変わってさ」
「それって……私のあげたキーホルダー?」
恐らく、手作りのポメラニアンのマスコットがついたキーホルダーのことだろう。
「そう。それだけじゃない、俺のスマホの画面を見て、眉寄せててさ……たぶん、あのとき陽菜のメッセージを見たんじゃないかと思う」
「私の……」
確かにあの頃、私と朝陽くんは毎日のようにメッセージのやりとりをしていた。
「あいつ、何度も『捨てられるかもしれない』って言ってただろ? 俺のスマホを見たときに、怖くなったんじゃないかな。自分よりも先に俺が孤独から抜け出して、居場所を見つけようとしてたから……」
自分だけが取り残されるかもしれないという焦燥感も、朝陽くんへの攻撃に繋がっていたのだろう。
「サインはあったんだ。でも、俺は気づけなかった……いや、俺も父さんも義母さんも聖也を見ようとしてなかった。俺にとっては理解できない癇癪持ちの弟で、父さんにとっては気を遣わなきゃならない連れ子で、義母さんにとっては可愛い息子だからこそ、悪い面には気づかないふりをした」
人は見たくないものに、都合よく蓋をする。一度でも自分を傷つけた人間のことは、理解できないと心を閉ざす。そのほうが、傷つかずに済むから。
「聖也が言ってただろ、同じ診断を受けた殺人犯が有罪判決になったって。あいつは年齢のおかげで少年院に入ったけど、陽菜や陽菜の家族にしたことを思えば、成人してれば刑務所行きだった。あいつを犯罪者にしたのは、俺たち家族だ」
「朝陽くん……」
やっぱり、この人は優しい。家族はいちばん身近な他人だ。すべてを理解することなんてできない。それを私も朝陽くんもこれでもかというほど思い知った。
だけど、朝陽くんは見限らない。見捨てない。痛くても、向き合うことを選択できる強さがある。
「だから、今度はあいつから逃げない。傷や化け物を抱えて、時には人と、時には自分と戦いながら生きていかなきゃいけないんだってことを伝えていく」
「家族の責任を背負わなきゃいけないって決まりはないけど、家族だから背負いたいんだよね。家族の人生も……」
矛盾しているけれど、割り切れないからこそ大切な人のそばにいることは難しい。だから大切な人のそばにいるために、私たちは戦うのだ。自分の中の化け物と。
「うまく回ってるように見える世界の裏側には……私たちみたいに、人を信じられなくなるほど傷ついて……日陰の中でしか生きられなくなった人がいるんだよね」
「俺も陽菜も聖也も父さんも義母さんもみんな、世界のどこかで戦ってる。生きるために、自分の価値を守るために戦ってるんだよな」
「うん……自分を守ることで、逆に誰かを傷つけてしまったり、誰かの心をズタズタに切り裂いて、殺してしまったり……それで恨みを買って責められたりもするけど……それでも自分のために戦ってる」
きっと、世界に存在する幸せのすべてが誰かの犠牲の上に成り立っていて、その犠牲が正しいか否かなんて、他人が裁けるものじゃない。人の数だけ幸せの形があるから。
「生きるために幸せが必要で、幸せを感じるために生きなくてはならない。これはつまり、生きるための生戦ってことかな!」
重苦しい話になってきたので、私は今世紀最大の発見をした教授のような物言いで、わざと偉そうにふざけた。
すると、朝陽くんはあの頃みたいに「なんだそれ」と笑う。
「陽菜は昔から、発言が独特だよな。……まあ、陽菜の話に乗っかるなら、すべての人類に許された……幸せになる権利を守るための正戦、じゃないのか?」
「んー……インパクトが足りない気がするなあ」
「そこ、インパクトいるのか? なら、聖なる戦で聖戦とか?」
「朝陽くん……ちょっとそれ、中二病っぽい単語じゃない? ゲームのやりすぎ……もしくはアニメの影響?」
「うるさい。言いだしっぺの陽菜にだけは言われたくない」
「んじゃあ、世界の裏側に生きる私たちの名もなき聖戦……っていうので、手を打ちましょう」
「なんで上から目線なんだよ」
呆れるように言う朝陽くんだが、声音は優しい。きっと彼は今、困ったように笑っているんだろう。
「聖也の話に戻るけどさ、必ずしも傷とか化け物が悪さを働くってわけでもないんだよな。うまく付き合えば、自分に大切なことを気づかせてくれる」
「そうだね。私は目が見えなくなってからのほうが、世界は光で満ちているように見える。不思議だよね……人の優しさを感じるんだ」
今まで見えていたものの代わりに、見えるようになったもの。それは当たり前のようにそばにあった景色以上に、かけがえのないものだ。
「俺も、聖也のこととか、陽菜のこととかあって……夢が……できた」
気恥ずかしそうに打ち明けてくれる朝陽くんに、私は「夢?」と首を傾げる。
「俺、医者になろうと思う。精神科医」
朝陽くんらしい夢だと思った。何故その夢を描いたのかも腑に落ちる。朝陽くんはやっぱり、誰かのために生きようとする。そのための武器を手に入れようとしている。
「実は……私も考えてることがあるの。盲目でも働ける方法をずっと探してて、そこで臨床心理士(りんしょうしんりし)って仕事を見つけたんだ」
「カウンセラーみたいなものか?」
「うん。精神的な悩みを抱える人たちの相談相手になって、心の問題解決を援助するって仕事なんだけど……刑事事件の心理鑑定も手がけることがあるんだって。聖也さんから手紙を貰って、前よりも強くこの夢を叶えたいって思った」
私の心は朝陽くんの存在に支えられ、救われた。今度は私がたとえ罪人でも、その家族でも、その人の心から逃げないで手を差し伸べたい。
「向いてるよ、自然と周りの人間の心を軽くする陽菜に。誰よりも人の心が脆くて、傷つきやすいことを知っている陽菜に。俺も……陽菜に心を癒してもらったからな」
「……ありがとう。やれそうな気がしてきたよ」
見えなくたって、私が私でなくなるわけじゃない。そうやって、私自身が見失いそうになる本当の私に、朝陽くんが気づかせてくれるのだ。
それに私の右目には、遠い海の向こうにいた会ったこともない誰かの角膜が入ってる。そしてその人は、もうこの世にはいない。その意味をよく考えれば、私にできることを精一杯続けていくべきだ。
「朝陽くん、私の包帯……外してくれないかな」
「いいのか?」
「うん。瞼を開いた先にある世界が真っ暗なままでも、朝陽くんっていう光を忘れずにいれば──大丈夫」
自分の人生に胸を張って生きていくための第一歩。目の包帯がするりと落ちていくのを、私は胸を高鳴らせながら待つ。
──大丈夫、目の前に現れる世界がどんな世界でも。朝陽くんがいれば、そこに必ず光はあるから。
「──目を開けて、陽菜」
愛しい人の声に導かれて、私はそっと、世界を受け入れた。
〈END〉
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