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1章 守るよ、あなたを。必ず
朝、目覚めた私はベッドから立ち上がり、窓のカーテンを少しだけめくる。こうして外を確認して、記者がいないかどうかを確認するのは、長年この身に染み付いた日課だった。
『あの家に住んでるの、犯罪者の娘らしいわよ』
記憶の中の声が頭の中でこだまする。目を閉じると、すぐに過去という名の暗い闇の中に引きずり込まれていく。
あれはそう、近所のおばさんたちの声だ。
『あの子の父親、小学六年生の男の子を突き飛ばしたらしくてね。転んだときの打ちどころが悪かったみたいで……その子、生死を彷徨ったって』
四年前、お父さんが殺人未遂事件を起こしてすぐ、家の前には多くの報道陣や記者、それから野次馬たちでごった返していた。
『お父さんが殺人未遂を犯したと知ったときの心境は?』
『娘として、どう償っていくべきだと考えますか?』
一歩でも家を出れば、いきなり質問責めに会う日々。そのたびに同じような問いをぶつけられるけれど、私はどうしてお父さんが罪を犯したのかを知らない。それなのに、償いのことなんて考えられるわけもなく──。
答えられずに黙っていたら、記事には【謝罪する気がない傲慢な家族】【人を殺しかけたのにのうのうと生きて、恥ずかしくないのか】と散々叩かれた。
学校、スーパー、家の周りを歩くたびに『犯罪者の娘』と後ろ指をさされ、十三年間生まれ育った場所を離れざるを得なくなった。すぐに引っ越して東京にやってきたけれど、やはりあのときのトラウマは簡単には消えてくれない。またいつ、うちに報道陣が押しかけてくるのかと気が気でなかった。
それだけでも、私の人生終わってるなと思うけれど、未来に希望が持てない理由がまだある。
お父さんの殺人未遂事件があったちょうど一か月前、中学一年生の冬に私は事故に遭った。そのときに受けた頭部外傷の影響で中学一年生のときの記憶がごっそりと抜け落ちている。それどころか、脳へのダメージで色を認識しづらくなっており、年々視界が暗くなっていた。おまけに角膜にも傷がつき、視力も落ちていって、いずれは失明すると医者から告げられている。
今、私の目に映る世界は、古いインスタントカメラで撮った写真のように褪せて見える。これはいずれモノクロになり、最後には真っ黒……色や光を失くしてしまうのだろう。
見えなくなったあとの自分の人生なんて想像ができない。おまけに犯罪者の娘っていう不名誉なレッテル付き。これが卑屈にならずにいられるだろうか。
私はぴしゃりとカーテンを閉めて、高校の制服に着替える。姿見に映るセミロングの黒い髪をした女は、冴えない顔をしていた。これが人に嫌われないために、必死に周りに愛想よく振る舞っていないときの……素の私だ。
ため息をこぼしながら、私は支度を済ませて部屋を出る。ここは昭和レトロといえば聞こえはいいが、シミだらけの畳や傷だらけの木製の柱、黄ばんだ襖からもわかるように年季の入った2LDKのアパートだ。都内で部屋を借りれたのは、築五十年で家賃が安かったから。ここで母と二人暮らしをしているのだが……。
母の部屋からなまめかしい男女の声と、荒い息遣いが聞こえてくる。それはリビングにも響き渡っており、またかと吐き気がした。
母は女手一つで私を育てるため、スーパーのレジスタッフにコンビニの店員と、バイトをいくつも掛け持ちして働いていた。でも、お父さんが起こした殺人未遂事件のことはあっという間に知れ渡り、何度もバイトをやめることになって……地元でバイト先を探すのは難しくなった。
私たちは夜逃げするみたいに人目を忍んで東京にやってきて、お母さんは時給の高い水商売の世界に入った。そうして、いつからだっただろう。何日も家を空けるようになったのは。
シタンッと目の前で襖が開く。部屋から出てきたのは、真っ赤で派手な下着を身に着けた今年で四十三になる母──三葉(みつば)清美(きよみ)だ。
「陽菜(ひな)、あんたいたの? 物音ひとつしないから、遊び歩いてるのかと思ったわ」
髪を掻き上げながら冷蔵庫のほうへ歩いていき、お母さんはペットボトルの水を飲む。
「……それは、お母さんのほうでしょ? 珍しく帰って来たと思ったら、男なんか連れ込んで……。ここには、私も住んでるんだよ?」
私はお母さんの部屋で我が物顔でくつろいでいる男にちらりと目をやり、皮肉を返した。するとお母さんは騒々しい音を立てて冷蔵庫を閉め、キッと私を睨みつける。
「私は働いてるのよ!」
「働いてるかもしれないけど、それならどうして私の学費、払ってくれないの⁉ 家賃だって気が向いたときしか、お金を置いて行かない! 働いたお金、なにに使ってるの?」
朝から言い合いなんてしたくない。でも、お母さんと顔を合わせるたびにこうなる。
「私は普通の飲み屋で働いてるんじゃないの。ヘアメイクにネイル、いろいろ自分にお金がかかるのよ! ……はあ、そんなにお金が必要なら、バイトすればいいじゃない」
「してる! でも高校生が、学校が終わったあとにバイトに入れる時間はたったの五時間だけなの! 時給八五〇円で稼げる額なんて、たかが知れてる!」
未成年というのは無力だ。バイトに入れる時間には制限があるし、何度も家を出て行こうと思ったが、部屋を借りるにも親の許可がいる。
ただでさえ、私は視力を失いつつあるのだ。目が見えなくなったら、私はまともに働けないだろう。将来のことを考えれば、今のうちから貯金が必要なのに、成人していない私にできることはあまりにも少ない。
そんな私の不安などつゆ知らず、お母さんは鼻で笑い、吐き捨てるように言う。
「なら、その身体でも売れば?」
そう言われるのは初めてではないけれど、やっぱり何度聞いても自分の耳を疑う。本当にこの人は、私の母親なのだろうか。
「若いんだし、いくらでも客とれんでしょう」
お母さんはタバコに火をつけ、「ふうー」と煙を吐き出す。
「一回三万円なら、一か月に五人くらい相手にすれば、いい額になるんじゃない?」
「三万、円……」
聞きたくないと身体が拒否反応を起こしているのか、耳鳴りがした。頭もぐわんぐわんと揺れている気がする。
普通のお母さんなら、娘に身体を売れなんて言わない。けど、この人はあの夜も──。
***
『午後八時に、ここに行って』
仕事に行く前の母から、ホテルの名前と部屋番号が書かれた紙切れを渡された。東京に引っ越してきて、三ヶ月が経った頃のことだ。
中学二年生だった私は、お母さんがもう自分を娘として愛していなかったことに気づいていない馬鹿な子供だった。
忙しくて母とはすれ違ってばかりいたが、クリスマスイブの今日は私の十四回目の誕生日でもある。きっとなにかのサプライズだろうと期待して、のこのこ言われた場所に赴(おもむ)けば……。
『はい、三万円』
ホテルの部屋で自分よりひと回りもふた回りも年上の男に、三枚の一万円札をひらりと目の前に差し出された。そこで初めて、自分が実の母親に援交をさせられそうになっているのだと理解した。
男の手を振り払ったあと、舞う三枚の一万円札を視界の端で捉えながら、無我夢中で部屋から逃げだした。『おい!』と男の呼び止める声が背中越しに聞こえたが、足を止めずにホテルの外へ飛び出して、その途中で思いっきり転んだ。
幸せそうな恋人たちや両親に挟まれながらうれしそうにクリスマスプレゼントを抱えている子供たち。絶望とは無縁の通行人たちから奇異の目で見られたが、私はそれどころではなかった。
全身擦りむいて傷だらけになりながら、震える手でバックからスマホを取り出す。けれど、ボタンを押せなかった。
『お母さんは……お母さんは、三万円で私を売ったの?』
スマホ画面にポタポタと涙が落ち、誰に助けを求めればいいのかわからなかった。この世界に私を守ってくれる人間なんていないのだと、気づいてしまった瞬間だった。
***
「げほっ、げほっ、げほっ……」
記憶の海に沈んでいた私はタバコの煙にむせて、現実に戻ってくる。
この人を普通の母親に当てはめてはいけない。わかっていても胸が抉れるような痛みを覚えるのは、まだ私を愛してくれていると、そう思いたいからかもしれない。
「お母さん、私……これから目が見えなくなるんだよ? 最後に見るお母さんの姿がこんななんて……嫌なの……」
「あなたは私になにを求めてるの? 毎日、三食食事を作って、娘のために早起きしてお弁当を作って、『行ってきます』って見送る……そういう母親? 世間一般ではそれが当たり前なのかもしれないけど、うちは普通じゃないのよ!」
お母さんが投げたガラスの灰皿は、私の顔の横をすり抜け、襖にがんっとぶつかった。割れた灰皿の破片と畳の上にぶちまけられた灰を見つめながら、無性に虚しい気持ちになる。
うちの家族は壊れている。ばらばらになったこの灰皿や脆く崩れていくタバコの灰のように、もう修復できない。
「自分だけ被害者ぶるんじゃないわよ。記憶がないっていいわね、嫌なことを忘れられて」
それだけ言って、お母さんは自分の部屋に戻っていく。荒っぽく襖が閉まる音だけが響き、虚しさは倍になった。
「忘れてなんかない……」
抜け落ちているのは、中学に入ってから事故に遭うまでの記憶だ。事件は事故から一か月後に起きたので、しっかり覚えている。
そっちこそ、娘がいつ事故に遭ったのかも忘れちゃったの? それとも、ただ私を責めたいだけ? 他に八つ当たりする人がいないから……。
「でも、こういうときだからこそ……一緒に支え合って、乗り切ろうねって……なるんじゃないの? どうして、私たちは……っ」
責め合うことしかできないんだろう。
声にならなかった言葉を飲み込み、しゃがんで灰皿の破片を拾っていると、ちりっと指先に痛みが走った。人差し指から、つうっと血が流れていく。それは泣く気力すら奪われ、行き場を失った私の涙のようだった。
***
高校二年生、新学期。
クラス替えをしたばかりの教室は、まだどこかソワソワしていて落ち着かない空気が漂っている。そんな中、幸いにも私は一学年のときから一緒につるんでいた友達と同じクラスになった。
クラスカーストの中でもそこそこ上位のほうにいた彼女と一緒にいたことで、私はすぐに教室でいちばん目立つ仲良しグループの仲間入りを果すことができた。
「今月の『Teen(ティーン) age(エイジ)』見た?」
同じグループの堀内愛美(ほりうちあいみ)が女子中高生に人気のファッション雑誌を広げる。クラスのボス的存在である彼女の席を囲むように、私を含め五人の女子が立っていた。いわゆる取り巻きというやつだ。
クラスのみんなが別の人と会話しながら、本やスマホに視線を落としながら、愛美の動向に神経を尖らせている。愛美を筆頭に、私のいるグループはクラスでも一軍に入る。私たちのグループの人間を怒らせてはいけないと、従わないといけないと、二軍、三軍の生徒たちが気を張り詰めている。
でも、自分が一軍にいるからといって安心はできない。愛美たちと少しでも考えが合わなければ、簡単に地位が下がる。この狭い教室という社会の中で生き抜くためには、このグループに嫌われてはいけない。
地元を離れて、東京にやってきた私は犯罪者の娘であることを必死に隠してきた。それほど、お父さんのことが知れ渡ってからの私の学校生活は最悪だったのだ。
中学一年生がもう終わろうとしていた時期だった。私は病室で自分の父親の逮捕報道を見ていた。お父さんがパーカーのフードを深く被って顔を隠し、手錠をかけられてパトカーに乗り込む映像が全国に流れていた。
それでも事態の深刻さをちゃんと理解できていなかった私は、退院して中学に登校した。あれがお父さんだなんて、きっと誰にもわからない。そんな根拠のない自信──いや、そう信じたかっただけかもしれない。自分の生活が大きく変わるはずがない、自分は関係ないんだから、親のしたことなんだからと、そう言い聞かせて教室に入った途端、自分の考えの甘さを思い知った。クラスメイトの冷たい視線を全身に浴びて、足が竦んだのを鮮明に覚えている。あの瞬間を今でも夢に見る。
『親が犯罪者なら子どもも同じ、犯罪予備軍でしょ』
『加害者家族もつらいとか、笑える』
『いちばん可哀想なのは子供を殺されそうになった被害者家族だし。それなのに、なんで被害者面で学校に来てるわけ?』
学校だけでなく、登下校の道でも、中傷の声は聞こえてきた。それだけじゃない、お父さんが捕まってから、専業主婦だったお母さんは慣れないバイトを始めた。でも、大した稼ぎにはならず、給食費を払えないこともあり、『犯罪者の娘のくせに、無銭飲食ですか?』と目の前で給食をひっくり返されたこともあった。
『その床に落ちた食べ物、もったいないから食べなよ』『刑務所では犬みたいに這いつくばって、ご飯を食べるんだろ? お前もやれよ』と、人としてすら扱われなくなった。
新しいワイシャツを買うお金もなく、シミがついたものをずっと着ていた。冬服ならセーターやブレザーがあるから隠せるけれど、夏はそうもいかず、『貧乏』『不潔』と笑われたこともあった。
すぐにでも転校したかったが、転入先とタイミングが合わず、結局中学二年生の夏まで地元の中学に通ったのだが、本当に地獄のような日々だった。
だから、この北上坂(きたうえさか)高校に入ったとき、同じ失敗は繰り返さないと心に決めた。私が犯罪者の娘であること、母子家庭で貧乏であることは絶対にバレてはいけない。普通のふりをして、クラスでは一番目立つグループに入って、自分の価値を上げるように努力してきた。
でも、友人関係を維持するためには、思った以上にお金が必要だ。
「ねえ、この特集に載ってるスイーツパラダイス、行ってみない?」
愛美の言葉は絶対だ。従う以外の選択はなく、みんなは二つ返事で「行く行く」と騒ぎ出す。
これは断れないか……。また学校休んで、一日バイトしないといけないな……。
バイトで学生生活をおろそかにするなんて元も子もない気もするが、仕方ない。私も調子を合わせて「うん、いいね」と話に乗った。
「じゃあさ、放課後、その計画カラオケで立てない?」
友達がいっぱいいるアピールが大好きな愛美が喜ぶ提案をしたのは、同じグループの志保(しほ)だ。取り巻きの私たちは、そうやって愛美をおだてて引き立てる役。モデル並みに可愛い愛美が嫌いになった女子は、否応無しにイジメの標的になる。それが怖くて、反抗する人はいない。
でも、ここのところ毎日カラオケに行ってるし、休みの日にテーマパークに行ったりと出費が重なっていた。だんだん無理が出てきて、最近は誘いを断ることも多くなってきている。
「ねえ、陽菜は行けるの?」
「あ……えっと、放課後はバイトがあって。詳しい日程とか決まったら、教えてくれない……かな?」
「……ふうん、わかった。でもさ、なんか働きすぎじゃない? そんなにお金ないの? 陽菜の家」
ピンクの華やかなネイルに視線を落としながら、私が触れられたくない話題だとわかっていて口にする愛美。人を見下している彼女の悪い癖だ。
「お金がないわけじゃ……っ」
貧乏はイジメる理由になる。それを身をもって知っていたので慌てて否定すると、愛美は口端を上げた。
「じゃあ、うちらといるよりバイトが楽しいとか?」
それに「ええ~」と非難の相槌を打つみんなに、私は貼り付けていた笑みを凍りつかせた。
同じグループといっても、実際は水面下で誰が愛美のお気に入りになるかを争っている。蹴落とせる兆しが見えれば、ここぞとばかりに叩くのが女子の習性だ。
「そういう、わけじゃ……。あ、そういえば、この間一緒に行こうって話してたテーマパーク、それっていつ行くことになったの?」
話を逸らすと、みんながわざとらしくきょとんとした顔になった。
「え? それなら、もうとっくに行ったよ? ほら」
愛美に合わせて、みんなも同じようにスカートのポケットや鞄からスマホを取り出す。しかもテーマパークのイメージキャラクターのキーホルダーまで、お揃いでつけていた。
「え、でも……私、誘われてない……」
「だって陽菜、忙しそうだったし、誘っちゃ悪いかなって」
みんなの顔を見回して、愛美が「ねえ?」と同意を求めると、みんなもそうそうと声を揃えて頷く。
「っていうか、うちら結構前からこのキーホルダーつけてたよね?」
「気づいてなかったんだ、うける。陽菜っていろいろ鈍すぎ」
それが嫌味なのはわかっていたが、仲間はずれにされていたことが恥ずかしくて、私は「ごめんごめん、私ってほんと馬鹿だね」と笑って気づかないふりをした。
このままだと、みんなの話題についていけなくなる。でも、あまり出費がかさむと、学費も家賃も払えなくなっちゃうし……これ以上、どう頑張ったらいいの……。
焦りとやるせなさに押し潰されそうになっていると、愛美が「あ、そうだ!」と私のほうに身を乗り出してきた。
「あたし、朝、学年主任の前澤(まえざわ)に捕まっちゃって。ネイルのこと注意されたんだよね。それで罰として三か月、花壇の手入れ頼まれちゃって」
その先は聞かずともわかった。
「あ……そうなんだ。じゃあ、私……代わりにやろうか?」
「ありがとう! 陽菜、大好き!」
ぎゅっと抱き着いてくる愛美に、ほっとする。
これで最近、付き合いが悪かったことを帳消しにしてもらえるかもしれない。バイト前であんまり時間ないけど、急いで終わらせれば大丈夫だよね?
「私も、愛美のこと大好き」
拭えない不安を笑顔の裏に押し込んで、私はその背に腕を回すのだった。
***
放課後、中庭の花壇に生えた雑草をぶちぶちと抜いていると、途端に『私、なにやってるんだろう』感に苛まれた。
居場所を失いたくなくて、必死にいい顔をして、花壇の手入れまで引き受けて……。仲間外れにされているのに気づかないふりをするのも、結構堪える。
彼女たちの中にいて笑っていても、心はひどく疲れていた。それでも、普通から逸脱しないためには必要な付き合いだ。
「耐えなくちゃ……耐えなく、ちゃ……」
でも、自分の価値を付き合う友達に見出してる気がして気持ち悪い。自分が優位に立ってることをひけらかすためのツールみたいだ。
だけど、そう思いながらも私は人に媚びを売っている。集団に馴染むために、それをせざるを得ないことに無性に苛立ちを覚えた。
花の手入れなんか、してる暇ないのに。どれだけ雑草を抜いて、水をあげても、どうせこの綺麗な花も見えなくなるのに。
「私のやってることって……意味、あるのかな?」
手が雑草ではなく花に伸びる。その茎に手をかけ、一思いに握り潰してしまおうとしたとき──。
「あなたを見守る」
手元が陰ったと思ったら、背後から声をかけられた。慌てて振り返ると、太陽を背に誰かが花壇を覗き込むようにして屈んでいる。目を凝らし、ようやくその人の顔が見えた、その瞬間──大きく胸が騒いだ。私は息を呑み、彼をまじまじと見つめる。
涼しげな切れ長の目、清潔感ある黒い髪、すらりとした手足。彼の纏う空気は澄んでいるようで、急に息がしやすくなった気がした。
言いようのない感情の波が押し寄せてくるが、総じてそれを一体なんと呼ぶのかはわからない。たぶん、凛々しく整った顔立ちの彼にときめいたせい。
「あなたを見守る、それがデュランタの花言葉」
「でゅら……?」
私が首を傾げると、彼はふっと笑って隣にしゃがんでくる。真新しい制服に身を包んでいる彼は、二学年では見たことない顔だ。
「デュランタ。あなたの手にある花の名前です」
彼が顎でしゃくった先にあるのは小花が集まり、房状に垂れ下がって咲いている花。視界が褪せているせいで自信はないが、たぶん藤色。たった今、握り潰そうとしていた花の名前を教えられても、正直言って複雑な気分だ。
「そう、なんだ…… 花、 詳しいんだね」
「いや、 詳しいのはこの花だけなんです。 僕にとって特別な花なので」
「へえ……」
彼はまるで恋人でも見つめるような柔らかな眼差しをデュランタに注いでいる。その横顔は花なんかよりずっと綺麗だった。
「開花時期はあと二か月くらい先なんですけど、今年は暖かいから早く咲いたみたいですね」
なんで私、 知り合いでもない 男の子とこんな年寄りみたいな会話をしてるんだろう。
困惑しながら彼を見つめていると、 困ったような笑顔が返ってきた。
「あ……ひとりで勝手にペラペラ喋ってすみません。僕、百瀬朝陽(ももせあさひ)っていいます。一週間前に、この北上坂高校に入学してきた一年生です。先輩の名前を聞いてもいいですか?」
入学してきたばかりで、 よく私が先輩だってわかったな。もう自分の学年の生徒の顔を覚えてるってこと?
彼の記憶力に驚きつつも、大して興味もなかったので「陽菜です」と名乗る。すると、彼──百瀬くんは目を丸くした。
「え、 どうしたの?」
百瀬くんの反応に またもや首を傾げると、
「あ、いや……こういうとき、大体フルネームを教えてもらうことが多いから、下の名前で名乗られたのがちょっと新鮮で……」
彼は肩を少し竦(すく)めて笑う。
「あ……そう、だよね」
『三葉』の苗字はテレビや新聞記事でも散々晒されていて、私やお母さんの名前もネットの掲示板に書かれていたことがあった。
あの事件のことをお父さんに直接尋ねたことはない。お父さんは殺意を持って事に及んだと認めていたし、お母さんは頑なに『もう掘り返さないで』を繰り返していたので、同情の余地なんてない……はずだ。
操を立てるみたいに、お父さんと同じ三葉である義理はない。苗字を改名するなりして、どうして自分たちの生活を守らなかったのか。三葉の苗字を捨てていれば、バイト先を何度も辞めることもなかっただろうに。
社会的制裁を受けることが被害者への償いになるからなのか、男をとっかえひっかえにしつつもお父さんを見捨てられないからなのかはわからない。
でも、どんな理由があろうと人を殺そうとしたことだけは理解できなかった。そのせいで私たちの生活を奪ったお父さんが許せなくて、面会に行こうとも思えなかった。
とにかく、犯罪者の娘である三葉陽菜を知っている人間がどこに潜んでいるかわからない。
もしここでも噂が広まってしまったら、私はまた居場所を追われてしまう。そういう恐怖から無意識にフルネームを名乗るのを避けている自分がいた。もっと言うとバイトの履歴書やテストの答案用紙にすら、自分の名前を記入するのが嫌だった。
「順序が逆になってごめん。苗字は……三葉っていうの」
「そっか、残念」
「残念ってなにが?」
「先輩が『陽菜です』って名乗るから、てっきり下の名前で呼んでほしいって意味かと思ってたんですけど、そうじゃなかったんだなあと思って」
そう言ってニコニコしている百瀬くんに、私は呆気にとられる。
生まれてこの方、ホストクラブには行ったことはないが、ナンバーワンホストに接客されている気分だ。百瀬くんみたいにかっこよくて、あっという間に人と距離を縮められる人なら、女の子がたくさん集まってくるんだろうなと思う。
なんだか分不相応な相手と話しているような気分になって、私は草むしり業務に戻ることにした。
「百瀬くんはどうしてここにいるの? 花壇に用があるとは思えないけど」
「あ……それが、花壇に用があるんです」
そう言って百瀬くんはなにを思い立ったのか、花壇に頭を突っ込んで、なにかを探し始めた。
「それと、僕のことは朝陽でいいですよ。僕も先輩のことは陽菜先輩って呼びますから」
「ああ、うん。そんなことより、なにしてるの?」
百瀬くん改め、朝陽くんは「そんなことって、ひどいな」と苦笑交じりに言いながら、なおも花壇の中でなにかを熱心に探している。
「僕の教室、この花壇の真上にあるんですけど、大事なものを落としてしまって……あ、あった! ありましたよ、陽菜先輩!」
彼がうれしそうに私を振り返り、腕を上げる。その手にはフェルトでできた不格好な動物?のマスコットが握られている。
「見つかってよかったね。それは……その……猫であってる?」
「惜しい、犬ですよ。ポメラニアンのマスコットなんです。ひどいですよね、冴島(さえじま)……あ、僕の友達なんですけど、そいつが『くらえ、ポメポメボール!』とか言って、ふざけて投げたんです。そしたら、運悪く窓の外に」
「ああ、そうなんだ……やんちゃな友達……なんだね」
というか、『くらえ、ポメポメボール!』って……発想が小学生だ。
それにしても、ポメラニアンか……。うちでも『ポメ』という名前のポメラニアンを飼っていた。引っ越し先のアパートがペット禁止だったので、今はおばあちゃんの家にいるけれど。会いに行くと、もう落ち着いてきたのでないとは思うが、マスコミが押しかけてくる可能性が無きにしも非ずなので、ときどき写真を送ってもらっていた。
「心は小学生のまま、身体だけ成長しちゃった、みたいなやつなんです。でも裏表がなくて、いいやつなんですよ。今度、先輩にも紹介しますね」
なんで?と思いつつ、私は「それって手作り?」と話題をマスコットに戻した。人付き合いは居場所を維持するための最低限でいい。これ以上、交友関係が広がるのは疲れる。
「はい、なかなか独創的ですよね」
物は言いようだなと思ったが、心の内に留めておく。
マスコットはところどころ毛羽立ち、薄汚れていて、年季が入っている。ポメラニアンの原型はなく、あっているとしたら色くらいで、お世辞にも上手とはいえない。
でも、その不細工なポメラニアンマスコットを見つめる朝陽くんの目は優しく切なげで……。大切にされているマスコットを少し、羨ましく思った。
「僕の宝物なんです。この世で、唯一の……」
「……寂しい言い方」
気づいたときには、そう口にしていた。案の定、朝陽くんは驚いたように私を振り向く。
「あ……ごめんね、変なこと言って。なんか、そのマスコットしか宝物がないみたいに聞こえて……」
朝陽くんはじっと私を見つめたまま、黙っている。知ったようなことを言って、気分を害してしまっただろうか。
「ごめん」
「どうして謝るんですか?」
「自分のことを大して知りもしない相手に決めつけられるのって、気分よくないでしょ?」
私のことを犯罪者の娘と罵った人たちは、大して事情も知らずに親や夫の罪は妻や子供も背負わなければいけないもの。そう決めつけて、私たちを責めた。彼らは当事者でも関係者でもないのに。
「……僕のことを心配してくれてるんですね。でも、その優しさは陽菜先輩自身に向けてあげてください。なにか、行き場のない気持ちが……あるんじゃないですか? 綺麗なものを、踏みにじってしまいたくなるくらいに」
胸がどきりとした。彼は私が花を握り潰そうとしていたことに気づいていたのだ。途端に恥ずかしさと恐れが襲ってきて、私は俯く。
「僕もたまにあるんです。綺麗な壁に拳で穴を開けたくなったり、ね。そのあとの罪悪感が半端ないけど」
「……はあ、私になにかあったとしても……あなたには関係のないことでしょう」
記者の中に、加害者家族の苦悩を記事にさせてほしいという人がいた。あの事件から世界が敵に回ったようで、藁にも縋る思いで協力した。同性だったこともあり、私もお母さんもいろいろ話したけれど、出版された記事は【私たちは悪くない! 加害者家族の自己中心的主張】というタイトルで、家族の責任を厳しく追及するものだった。
逮捕直後から始まったネット上の誹謗中傷はさらに加速し、【親が責任を取って死ね】だとか、家族全員の顔写真も晒されて、私たちは一度、社会から居場所を失った。
加害者本人であるお父さんは塀の中で社会からのバッシングから守られるけど、本人が目の前にいないから、世間は代わりに私たち家族を叩く。
私たちは当事者じゃない、被害者でも加害者でもない。だから被害者遺族の会とか、加害者の更生とか、被害者と加害者にはそういう支援があっても、加害者家族への支援はそうないので、社会の中で孤立してしまう。その縮図を理解したとき、自分の弱みは絶対に他人に見せてはいけないと悟った。
「そう、ですよね……今日会ったばかりの僕に悩み相談なんて、できるわけ……ないですよね。けど……これだけは言いたくて」
朝陽くんは私の目をしっかり見つめて、真剣な声音で続ける。
「つらい、苦しい、悲しいっていう本心を隠さないで」
「……どうして? そんな感情見せられても、相手は困るだけだよ。それに、自覚する側も……痛いだけ」
引き抜いた雑草を放り投げながらそう言えば、情けないほど語尾が萎む。
つらい感情をわざわざ表に出すメリットなんてない。つらいから皆、気づかないふり、見ないふりをするのに。
「つらいことがあったとき、胸が痛むのは普通のことだ。その感情を拒まないで。ちゃんと傷を認めてあげなくちゃ、薬は塗ってあげられないんだ。どう痛みを癒していけばいいのか、どう傷を治していけばいいのかがわからないままになってしまう」
消えない罪でついた心の傷は、一生癒えることはない。今、いちばん必要なのは薬を塗ることじゃなくて、傷に気づかないふりをすることだ。
でも、居場所を失うかもしれない焦りも、恐怖も、見ないようにしようとすればするほど、痛みを主張してくるのもまた事実。彼の言っていることは正しいのかもしれないけれど、すぐに他人の言葉を受け入れられるほど、私は純粋じゃない。
「……ありがとう。あなたの言葉は……ちょっとだけ、ちょっとだけだけど……薬になった。でも人は裏切るし、自分の利益のために利用するし、基本的に誰かを傷つけたい生き物だってことを知ってるから。だから、理由もなく優しくされると、余計にその親切心を疑いたくなるの」
「つまり、僕が信用できないってことですか?」
「そこまではっきりとは言ってないけど、大方そういうことだから」
朝陽くんの悲しそうな顔から目を背けるように、私は下を向いた。
「信用なんて、するだけ馬鹿を見るんだから」
そうぼそりと呟けば、「それでも僕は……」と朝陽くんはおもむろに立ち上がり、少し屈みながら手を差し伸べてくる。
「守るよ、あなたを。必ず」
会ったばかりで、それも年下で、私とは違って人に好かれるだろうまっさらな男の子がどうして私を? なにか、魂胆があるのかもしれない。裏で記者と取引して、私のことを探っているとか。そんな疑念ばかりが浮かんでいるのに、私の手は吸い寄せられるように彼の手に重なる。
薄明の中にいる私に夜明けを知らせるような彼の強い眼差しから、なぜか目を逸らせなかった。
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