2章 苦しくなったら、手を差し伸べてくれた人のことを思い出して

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2章 苦しくなったら、手を差し伸べてくれた人のことを思い出して

 翌朝、教室に足を踏み入れると、みんなの視線が一気に私に突き刺さった。  まさか……。  さーっと血の気が失せていき、足元がガラガラと崩れていくようだった。  まさか、私が犯罪者の娘だって知られてしまった? お父さんの罪がここでも私の居場所を奪うのか──。そんな思いがぐるぐると頭の中を巡っている。  教室の入り口で立ち尽くしていると、愛美がこちらに歩いてきて、スマホ画面を突きつけるように見せてきた。 「……陽菜、ひどいよ……! こんな投稿、するなんて……」 「え? 投稿? なんのこと?」  愛美のスマホの画面を覗き込めば、『北上坂高校2Bの勘違い女子アンチ』というアカウントがSNSに書き込んだ悪口がいくつも投稿されている。 【私を仲間はずれにして、テーマパーク。やり口がゲスすぎてワロタ】 【ぶっちゃけ、みんな愛美の引き立て役。毎日雑誌広げて意識高い系女子アピール、ウザすぎ】  それは明らかに、私たちのグループのことだった。愛美は涙ぐみながら、みんなに聞こえるように「しらばっくれないで!」と叫んだ。 「これ、明らかうちらのことじゃん。仲間はずれにされたって気持ちにさせちゃってたならごめん。でも陽菜、本当に忙しそうだったから、悪いなって思って誘わなかったの。昨日もそう言ったよね?」 「ちょっと待って、これ私じゃな──」 「言いたいことがあるなら、直接言ってくれたらよかったのに……っ、友達でしょう? それなのに、こんなみんなに見えるところに書き込むなんて……ひどいよ……っ」  私の言葉を遮った愛美が捲し立てるように言う。クラスのみんなが愛美に同情の眼差しを向けているのがわかり、頭が痛かった。 「お願い、聞いて! 誰かが私になりすましたんだと思う。だって私、この時間バイトしてて……っ」 「もう、そういうのいいから。だってこれ、うちらしか知らないことじゃん。裏垢で悪口書いて……そういう子だと思わなかった」  それだけ言って、ううっと泣きながらグループのみんなのところに戻っていく愛美。「愛美ちゃん、かわいそうだね」という声があちこちから湧く。  ああ、ここでも私は身に覚えのない罪を着せられるの? 私は関係ない、そう訴えてもどうせ無駄なんでしょう?   知ってる。今までだって、私やお母さんの話に耳を傾けてくれた人はいなかった。今のクラスメートたちみたいに、当事者じゃない他の人たちまで私を責める。こういうのは……慣れてる。私は日陰でしか生きられない運命なんだ。  私は俯きながら静かに後ずさると、そのまま教室から逃げ出した。 ***  それから私は、クラスカーストの最下位に転げ落ちた。  一緒に行動する友達もおらず、あの一件から一週間が経っているが、変わらず教室でひとりぼっちだった。  それどころか、愛美たちのグループの女子全員が『ぼっちかわいそう』『当然の報いでしょ』と言って笑い、他のクラスメートからは空気のように扱われている。  愛美は可愛いから、どれだけ私をハブいても男子からちやほやされる。女子は巻き込まれたくないからか、知らんぷりを決め込んでいた。 「陽菜……いる?」  教室にいると息が詰まるので、いつものように授業が始まるギリギリまでトイレで時間を潰していると、志保の声がした。  一瞬、心臓が痛くなったが、勇気を出して個室から出る。すると、ところなさげに志保が立っていた。もうじき授業が始まる時間だからか、トイレに他の生徒たちの姿はなく、辺りは静かだった。 「私となんか……話したく、ないよね」 「そんな、ことは……」  お世辞でも、ないとは言い切れなかった。今はみんなの視線が怖いし、特に同じグループだった人たちと関わるのは気分がよくない。 「その……陽菜、だいじょう、ぶ……?」 「え?」 「って、大丈夫なわけないよね。けど私、今まで仲良くしてた友達を急にハブるとか嫌なんだ。テーマパークのときも、陽菜には内緒で、いつもうちらが使ってるやつとは別のグループでメッセージのやりとりしたりして、そういうの許せないんだよね」  グループというのは、メッセージアプリの複数人でやりとりができるツールのことだ。  そっか、私に内緒で別のグループ作ってたんだ。そこで私の悪口を言ったりして、みんなで笑ってたのかな。想像するだけで、心が沈む。  そういうの、聞きたくなかったな……知りたくなかったな……。 「だから陽菜、みんなの前では愛美の目もあるから難しいけど……相談とかあれば、私でよければ乗るから!」 「志保……」 「それじゃあ、ね」  去っていく志保の背中を見送る。  私と一緒にいるメリットなんてないのに、今までこんなふうに気にかけてくれた人がいただろうか。一緒になって私を除け者にしたことは許せないけど、もし私が志保の立場だったら、きっと同じことをした。それでも私を心配してくれたことに、少しだけ心が軽くなった気がした。 ***  クラスでひとりになってから一週間ちょっと、移動教室は周りの憐れみと蔑みの目が気になってきつい。お弁当をひとりで食べる昼休みの次に避けたいイベントだ。 「2Bの三葉陽菜ってさ、志保のクラスですごい嫌われてない?」  廊下の曲がり角の向こうから自分の噂話が聞こえてきて、つい足を止めてしまう。 「ああ、うん。裏垢でうちのグループの悪口言ってたことになってるから」 「〝ことになってる〟って、なに?」 「実はさ、その裏垢……私が作ったんだよね」  え……。  どくんっと、胸が嫌な音を立てる。  聞き間違いだよね?  そうであってほしいと願いながら、私は聞き耳を立てた。 「愛美の気分でイジメの標的が決まるから、ターゲットがいてくれたほうが助かるっていうか、必要悪ってやつ? 陽菜なら、すでに愛美も仲間に入れておくのは微妙だって言ってたし、適役だったの」 「うわあ、悪女かよ。志保、あんたとはテニス部で中学からペア組んでるけど、心底敵に回さなくてよかったと思うわ」 「その言い方はないんじゃない?」  そう言いながら、志保はくすくす笑う。  とてつもない吐き気に襲われた私は「うっ」とうめきながら手で口元を覆い、しゃがみ込んだ。 「事実しか言ってないし。つか、黒幕のくせに、あんた三葉さんの相談に乗ってるんでしょ? 謎すぎるんですけど」 「ああ、それね。『裏垢で悪口を呟いたのは私じゃない!』とか、また騒がれても困るから、相談相手を装って牽制中。『これ以上、愛美を刺激しないほうがいいよ』『噂なんて時間が経てばなくなるよ』ってね」 「怖っ、つか平然とぺらぺら犯行を喋っちゃうのも怖っ」  私は動くことができなかった。志保が部活の子に話していることが事実なら、あの言葉は嘘だったの? 『けど私、今まで仲良くしてた友達を急にハブるとか嫌なんだ』  そう言ってくれたのに……人ってどうして、簡単に裏切るんだろう。  中学の頃、私が犯罪者の娘だってわかった途端に仲良くしていた友達が蜘蛛の子を散らすみたいに離れていったのを思い出した。いつも信じたいと思った瞬間に裏切られる。 「……っ」  私は涙を堪えながら踵を返す。そのあとは授業には出られなかった。保健室のベッドでひとり、頭から布団をかぶって、声を押し殺して泣くことしか……できなかった。 ***  帰りは私の心模様を映すように、雨が降っていた。  今日はとことんツイていない。傘を忘れてしまった私は、雨に濡れながらバス停で待っていた。前後に並んでいる生徒たちは、ずぶ濡れの私を可笑しそうに眺めている。  雨と人の冷たさが心に浸食してくるようで、私は震えた。  どこにいても嫌な意味で注目を浴びる。こんなことなら、バスが来る時間まで昇降口で待っていてもよかったかもしれない。ただ今日は一秒でも早く学校を出たかったのだ。  自分の行動を悔いているときだった、ふいに雨が止んだ。驚いて目を瞬かせるが、前にある道路には雨粒がいくつも降り注いでいる。  振り返ると、俯き加減に視線を彷徨わせながら、私に傘をさしてくれている女子生徒がいた。彼女には見覚えがある。同じクラスの平良(たいら)薫(かおる)さんだ。教室ではよく、イヤホンを耳につけてなにかを聞いている唯一のぼっち仲間。 「わ、わた……っ、私、折りたたみ傘、持ってるので。こ、これ……っ、よかったら、使って」  ぼそぼそと聞き取りづらい声でそう言い、彼女はビニール傘を私に押しつけてくる。 「あ、ありがとう」  彼女の勢いに圧倒されつつ、私は傘を受け取る。  それから気まずい空気が流れ、なにか言わなくちゃという焦りを彼女からも感じた。そこへタイミングがいいのか悪いのか、バスがやってくる。ふたりで「あ……」と呆然とした声を漏らし、なんとなく会釈をして、それ以上言葉を交わすことなくバスに乗り込んだ。 ***  翌日、登校してきた私は自分の席でなけなしの勇気をふり絞ろうとしていた。  平良さんに傘を貸してくれたお礼を言おう。そう決めて、かれこれ十五分が経っている。だが、教室で誰かと話しているところを見られるのは怖い。また、ぼっちがぼっちに話しかけてるとか、いろいろ噂されるに違いない。  それでも彼女は、クラスでハブられている私に話しかけてくれた。雨に濡れる私を変人でも見るような目で遠巻きに眺めていた他の生徒たちとは違って、傘をさしてくれた。  ちゃんと、もう一回、『ありがとう』って伝えなくちゃ。  いざ、と傘を手に席を立ったときだった。 『こんなところで、俺に抱かれたいのか? 物好きなやつだな』  え……?  教室が一気に静まり返った。みんなの視線は平良さんに集まるが、イヤフォンをつけている彼女はそれに気づいていない。 『お前にキスしたい……ちゅっ、赤くなって可愛いな。俺の専属ナースさんは』  その瞬間だった、ぶっと誰かが吹きだした。それを皮切りに笑いの渦が巻き起こる。さすがにおかしいと思ったのか、平良さんはついにイヤフォンを外した。そこで初めて、スマホのスピーカーから音が出ていたことに気づく。 「えっ、どうして! イヤフォン、ちゃんと繋がってるのに!」  スマホがイヤフォンを認識しないというのはあるあるな話だが、聞いていたものがまずかった。ただの音楽ならまだしも、これはいわゆる成人女性向けドラマCDというやつだろう。しかも濡れ場。 「いつもイヤフォンしてると思ったら、学校でなに聞いてんだよ」 「気持ち悪すぎるんですけど」  ハイエナの巣に飛び込んできた子ウサギをここぞとばかりに食いちぎるように、みんなは平良さんをネタに盛り上がっている。  自分の席で立ち尽くしていると、ふいに平良さんがこちらを見上げた。泣きそうな顔で〝助けて〟と訴えるように私を見つめている。 「あ……」  とっさに、私は彼女から目を逸らしてしまった。  仲間だと思われたくない、これ以上ハブられる理由を作りたくない。そんな気持ちが先に出てしまい、私は素知らぬふりで席に座り直す。  ──助けてもらったのに、私……最低だ。  恩を仇で返してしまった後ろめたさで、私は彼女のほうを見ることができず、ただひたすら傘を強く握りしめていた。 ***  放課後、今度は平良さんの心模様だとばかりに雨が降っていた。 私は返しそびれてしまった傘をさして、花壇に来ていた。雑草を抜いていると、手が泥だらけになる。 今の私はこの汚れでは足りないほど、汚い人間だ。もっと汚れて、自分の汚さを思い知るべきだ。だって彼女はズタズタに、ボロボロになるまで、その綺麗な心を踏みにじられたんだから。そして、最後のひと踏みは間違いなく私がした。  自分の黒くなった手を憂鬱な気分で見つめていると、 「雨の日も熱心ですね」  後ろから声がかかった。振り返らずともわかる、朝陽くんだ。 「……また、ポメラニアンでも探しに来たの?」  彼に『守るよ、あなたを。必ず』と言われた日から、朝陽くんは毎日のようにこの花壇にやってくる。  あんな言葉を私にかける彼の目的はよくわからない。純粋に私を心配してくれているのかもしれない。でも先日、志保に裏切られたばかりだ。どうせ裏があるに違いないという疑念は消え去ってはくれない。 「いえ、今日は死守しました」  朝陽くんは私の隣にしゃがみ、「ほら」とニコニコしながらポメラニアンのマスコットがついたスマホを揺らす。 「〝今日は〟って……そのポメ子、毎日狙われてるの?」 「えっ」  なにがそんなに彼を驚かせたのか、目を見開いたまま私を凝視している。 「私、なにか変なこと言った?」  そう尋ねると、朝陽くんは「ああいや、大したことじゃないです」と慌てたようにかぶりを振る。 「ポメ子って、もしかしてこの子のこと?」  もう一度スマホを持ち上げて、マスコットを見せてくる朝陽くん。マスコットを〝この子〟なんて呼ぶあたり、このポメラニアンをとても大切にしているのだとわかる。 「うん、ごめん。特に意味はないんだけど、なんとなく思いついて言っちゃっただけだから、あまり気にしないで」  勝手に自分の物に名前をつけられたら、不快に思う人もいるよね。 「気にしないなんて、無理だよ」  下を向いてしまう朝陽くんの表情は見えない。その顔を覗き込もうとしたとき、朝陽くんはこちらを向いた。 「ぜひこれからも、ポメ子って呼ばせてもらいます!」  なぜそこまで食いぎみに答えるのかは謎だが、問い詰めるようなことでもないので、私は「う、うん……」と戸惑いつつも返した。 「今さらですけど、陽菜先輩って花壇の世話係かなにかなんですか?」 「あ……うん」  本当はそうじゃないけど、友達に使われて花壇のお世話をしていますなんて、惨め過ぎて言えなかった。けれど、朝陽くんは物言いたげに見つめてくる。  その目はなにもかもを見透かしているようで、私は深いため息をつくと、「今のは嘘」と白状した。 「友達が校則違反で学年主任に捕まっちゃって……それで、ここの花壇の世話を三か月やるように言われたの」 「じゃあ罰ってこと?」 「うん。それならなんで、その子じゃなくて私が罰を受けてるの? ……って感じでしょ?」  朝陽くんはなにも言わなかったが、苦笑が滲んだその表情を見れば答えは明白だった。 「愛美……その友達はね、クラスのボス的存在なの。つまりは、ご機嫌とりですよ。女子って、色々めんどくさいんだ。居場所を作るためには、こういう小間使いみたいなこともしなきゃいけない。でも、それも全部無意味だったんだけどね……」  私は同じグループの子に裏垢で、愛美たちの悪口を呟いていたとデマを流され、クラスで孤立してしまったことを話した。 「もう、愛美の代わりに花壇の世話をする必要なんてないのにね……ほんと私、なにやってるんだろ」  私は誰かと繋がることに必死だ。人なんて信じられないって何度も思ったのに、もう期待しないって決めたのに、ちょっと人に優しくされたら絆されて……学習しない馬鹿。  というか私、なんでこんな重い話を大して知りもしない朝陽くんにベラベラ喋ってるんだろう。 「人に好かれたいと思うことは、悪いことじゃないです。みんな言わないだけで、誰だって、そのために必死になってる。それに、陽菜先輩を傷つける人ばかりじゃない。あなたを見ていてくれる人も必ずいる」 「見ていてくれる人……」  その言葉で真っ先に思い出したのは、私に傘をさしてくれた彼女のことだった。 「まだ、なにか気がかりがあるんですね」 「……すごいね、大当たり。昨日に戻れるなら、戻りたいって思ってたところ」 「どうして戻りたいんですか?」 「……朝陽くんは、カウンセラー志望かなにかなの? 私の相談になんか乗って、朝陽くんになんの得があるの? 色々話しちゃった私もあれだけど、ちょっと踏み込みすぎかもよ」  相談に乗ってもらっておいて、そんな言い方はないよなと自分でも思う。でも、見返りのない優しさというのが気持ち悪いのだ。純粋に誰かを心配したり、思いやれる人間なんて、今まで出会ったことがなかったから。 「気分悪くしちゃってたら、すみません。踏み込みすぎてるって自覚はあるんです。けど……僕の大切な人が教えてくれたんです。図々しいかもしれなくても、それで相手を傷つけてしまうかもしれなくても、その人を理解したかったら踏み込まなきゃいけないときもあるって」  大切な人……朝陽くんはその人のことをすごく信頼してるんだな。そういう相手に出会えるなんて、羨ましい。きっと朝陽くんが純真だから、そういう人が周りに集まってくるんだ。  それで言うと疑い深い私の周りには、自分に似て計算高く、保身のことしか考えていない人しかいない。 「謝るのは私のほう。朝陽くんを見てるとね、綺麗すぎて……自分がものすごく汚い人間に思えてくるんだ。だから、嫌な言い方になっちゃった。こんなの八つ当たりだよね、本当にごめんなさい」 「……僕も昔、やんちゃしてて。ヤンキーみたいな見た目のせいで、あることないこと噂されたりしたんです」 「あ、朝陽くんがヤンキー?」  全然、想像がつかない。 「ふっ、自慢することじゃないですけど、結構なワルでした」  わざとらしく小声で言う彼に、私はついクスッと笑ってしまう。 「家に居場所がなくて、悪ぶることでしか、自分を見てって訴える方法が思いつかなかったんですよね。でも、そういう見た目だから物がなくなればお前がやったんだろって疑われるし、黙ってても先生に目をつけられるしで、余計に周りからの信頼も失って……自分のことを理解してくれる人なんていないんだって、やさぐれてました」  初めて朝陽くんと出会ったとき、この人は日の下を歩いていける人だと思った。後ろめたい過去もなく、綺麗なまま生きてきたんだろうって。  でも、偏見だった。どれだけ順風満帆(じゅんぷうまんぱん)に生きてるように見える人でも、人に話せないような過去や咎を背負っているものなのかもしれない。それを表に出さないだけで。 「この世界に自分の味方なんていないんだって思ってたとき、現れたんです。その人が……」  朝陽くんが先ほど口にしていた大切な人のことだと、すぐにわかった。 「話すようになったきっかけは、本当に偶然で……でも、それからその人はなんの見返りもなしに、自分のことを気にかけてくれるようになったんです。僕は最初、今の陽菜先輩と同じように、この人はなにが目的で自分に近づいてくるんだ? ……って疑いました。その人はただ、僕を理解しようとしてくれてただけだったんですけどね。それがすごく……すごく、うれしかった」  胸を押さえて笑みを浮かべる朝陽くんは、当時のことを思い出しているのか、少し泣きそうな顔をしている。 「だから、陽菜先輩も諦めないでほしいんです。あなたを理解してくれる人はいる。少なくとも僕は、今のあなたを知りたいと思っています。どんなに汚い感情でも」 「朝陽くん……」  彼が背負っているものは、私ほどの罪ではないのかもしれない。でも、似た痛みを知っている相手になら、打ち明けてみてもいいのかもしれない。 「私は……最低なやつなの」  ぽつりぽつりと、私は罪の告白を始めた。 「人は簡単に裏切るって、同じグループの子たちを蔑んでおきながら…… 私も、同じだった。私を助けてくれた人を……っ、裏切った……!」   自分への軽蔑と平良さんへの罪悪感に涙が込み上げてくる。平良さんのために泣いているんじゃない。ただ、抱えきれない自分への嫌悪感を吐き出しているのだ。なんて、身勝手な涙なんだ。 「クラスでハブられてる自分がこれ以上目立てば、もっとひどいイジメに遭うかもしれない。ううん、もっと最低なことを思った。このままイジメのターゲットが私から平良さんに移ればって、期待しちゃったの……っ」  私をイジメの標的に奉り上げて、自分の安全を確保しようとした志保たちを心の中で責めた。でも、私も彼女たちと一緒、平良さんを餌に自分が助かることを望んだ。  私は「はっ」と自嘲的に笑う。 「人の心ってさ、漫画みたいにトイレに入ったら水をかけられるとか、机に死ねって書かれるとか……そういう大げさなことをしなくても、メッタ刺しにできるんだよね。私はそうやって、みんなと一緒にあの子を傷つけたんだ……っ」  私は取り返しのつかないことをしてしまった。  つらいのは平良さんのはずなのに、泣くなんて……。私も傷ついてるんだとアピールしてるみたいで嫌だった。けれど涙を我慢できず、私は両手で顔を覆う。 「後悔……してるんですね。平良さんを傷つけてしまったことを」  こくりと頷けば、温かい手が肩に載り、私は顔を上げた。 「なら、後悔を晴らすためにできることをしたらいいんです。どうしたいのか、陽菜先輩の心に従って」  朝陽くんは優しく諭すように言葉を重ねる。 「失敗は生かせばいい。今、その平良さんはひとりで傷ついてるはずです。今度こそ、そんな平良さんに陽菜先輩がしてあげたいことをしてください」 「簡単に言わないで。私は周りの目を気にせずに弱い人を守れるほど強くない。誰かを犠牲にして自分が助かることを選んでしまう人間なの!」 「でも、陽菜先輩は自分を守る選択をしてしまったことを後悔してる。周りの目や体裁が邪魔して、本心が見えなくなってるだけで、陽菜先輩は平良さんを助けたいと思っているんじゃないですか? 本当の気持ちから逃げると、今みたいにあとあと後悔することになる。もう一度、周りの人の声じゃなくて、自分の心の声に耳を傾けて。そうすれば、陽菜先輩の心は自由になれるから」  平良さんを助けたいだなんて、私はそんなにいい人間じゃない。朝陽くんは、私を買いかぶりすぎだ。 「もう、遅いよ……。私は平良さんがいちばん助けて欲しいときに、平良さんの手を振り払ったようなものなんだから」  平良さんは私がイジメられていても、周りの目を気にせず助けてくれたのに。  でも、これでよかったのかもしれない。遅かれ早かれ、彼女も私の秘密を知ったら離れていく。だったら、今別れてしまったほうが傷は浅く済む。 「彼女のもとへ行かなくて済む理由を探してる?」  心を読まれたのかと思った。また顔を出した臆病な自分を言い当てられ、私は「朝陽くんも最低だと思ってるんでしょ!」と声を荒げてしまう。 「どこまでも最低だって……自分でも思ってる。朝陽くんにどれだけ言葉をかけてもらっても、怖いの!  『お願い、聞いて! 私じゃない』ってどんなに叫んでも届かない! 友達だと思ってた人たちに、信じたいと思えた人たちに、自分の声が届かないってわかったとき、どれだけ絶望したか……あなたにわかる?」  朝陽くんは関係ないのに、一度ぶちまけたら止まらない。支離滅裂で鋭利な言葉たちが次から次へと、口から飛び出していく。 「また、裏切られるかもしれない……そう思ったら、身体が石になったみたいに動かなくなる。結局、私は自分が傷つかないことがいちばん大事なの! そういう人間なの!」 「……傷つきたくないのは、みんな同じです。陽菜先輩はもっとわがままになっていいんです。もっと怒っていい、もっと暴れたっていい。理不尽を受け入れることに慣れすぎてる。声は届かないって先輩はそう言うけど、僕にはちゃんと聞こえてます。先輩の痛みも届いてます」  私に責めるような言い方をされても、朝陽くんは少しも嫌な顔をしない。それどころか、汚くて弱くて臆病な私の気持ちを全て受け止めるように、凪いだ海のような眼差しで見つめてくる。 「もう自分で自分を傷つけちゃ駄目だ。陽菜先輩は今まで経験してきたつらかったこと、苦しかったことを繰り返し思い出して、もう一度その感情をなぞって傷ついてる。でもそれは、今起きたことじゃない」 「え……?」 「今起きたことじゃないんだよ、過去に経験したことだ。それが予期不安みたいになって、前に踏み出そうとする陽菜先輩の足を掬おうとする」 「じゃあ、どうすればいいの? つらかった記憶、傷ついた記憶は消えてくれない。どうしたって、その時のことを思い出して不安になる!」  中学一年生のときの記憶だけじゃなくて、毎日リセットしてくれればいいのに。 「──陽菜先輩」  朝陽くんは私の冷えた手を温めるように、そっと握る。 「過去を思い出して前に進むのが怖くなったら、手を差し伸べてくれた人のこと思い出して。人につけられた傷は、人に触れることで癒えるんです」 「手を差し伸べてくれた人……」  平良さん、それから……。  私は目の前で優しく目を細めている朝陽くんを見つめる。  平良さんみたいに、自分を守るために誰かを蹴落とす人ばかりじゃない。朝陽くんみたいにずるい私を知っても、軽蔑して離れていく人ばかりじゃない。  私は繋がれた手に視線を落とした。  いつかこの手を振り払われてしまう日が来るのかもしれなくても、今行かなきゃ駄目なんだ。私も平良さんも今、誰かの存在を必要としていると思うから。 「私……行ってくる」  ゆっくりと立ち上がった私に、朝陽くんは「いってらっしゃい」と言って、一瞬だけ強く手を握ってきた。  朝陽くんは勇気を吹き込んでくれたのだろうか。あれだけ踏み出すのが怖かったのに、気づけば無我夢中でバス停に向かって走っていた。 *** 「平良さん!」  彼女の姿は、すぐに見つかった。  うちの高校は最寄り駅から少し距離があるので、電車通学の生徒や私のように歩いて帰れる距離に家がある生徒も雨の日はバスを利用する人がほとんど。昨日もいたので、もしかしたらとバス停を目指してよかった。昨日の私と同じように、彼女は傘をささずに佇んでいた。 「あ……」  平良さんはこちらを振り返るも、困惑したように視線を彷徨わせている。彼女の前で足を止めると、私は自分がさしていた傘の中に彼女を入れようとした。  けれど、平良さんの肩がびくっと跳ねる。じりっと後ずさる彼女を目の当たりにしたら、怯みそうになった。  やっぱり、嫌われてしまった……。  かけ違えたボタンを留め直すみたいに、彼女との関係も修復できると思った。そう信じてここに来たのだが、自分のしたことを思えば拒絶されて当然だ。 「平良さん……」  許されなくてもいい、せめてこれだけは伝えなくちゃ。 「……あのとき、目を逸らしてごめんね。私……怖かったの」  声が震えた。本来なら知られたくない、隠しておきたい感情を胸から抉り出すように打ち明ける。 「ただでさえ孤立してるのに、これ以上目立ったら、もっとひどいイジメに遭うかもしれないって。それから……このままイジメのターゲットが、私から平良さんに移ればいいって……思った」  平良さんの傷ついた表情を目に焼きつける。それが私の受けるべき罰だと思ったからだ。 「平良さんは周りの目も気にせず、私に傘をさしてくれたのに……。私は平良さんの優しさを踏みにじってしまった……本当に、ごめんなさい」  頭を下げると、平良さんの「ち、違うの」という声が降ってくる。顔を上げれば、平良さんが弱りきった様子で眉を下げていた。 「わ、私も同じ……昨日が雨じゃなかったら、バ……バス停でずぶ濡れの三葉さんに会わなかったら、きっと……三葉さんに話しかけて……なかった」  彼女の言葉が痛みを伴って、私の胸に染み渡る。 「こ、声をかけたのは、純粋な善意なんかじゃないんだ。私は三葉さんに傘をさす寸前まで、たくさん……迷ってた。ただでさえ孤立してるのに、これ以上目立ったらって……」 「私と……同じように……?」 「う、うん。あとね、堀内さんたちの関心が三葉さんに向いて、ほっとしてた。これなら、私がイジメのターゲットになることは……ないかもって」  平良さんも、あの瞬間たくさん悩んだんだ。 「でも、平良さんは私とは違う。迷っても、私を助けることを選んでくれた」 「あ……あのとき見て見ぬふりをしたら、絶対に後悔すると……思って……。でもあれは、三葉さんのときよりは話しかけやすい状況だったってだけだよ。場所がもし教室だったら、みんなの目が気になって三葉さんに声をかけるなんてできなかったと思う。だから……おあいこ」  肩を竦めて笑う平良さんに、私もつられて頬を緩める。 「信じてもらえるかわからないけど……私は教室で平良さんと目が合ったとき、なにもできなかったことを後悔してた。そんな自分が本当に嫌だった。だから、ここまで来たの。本当は後悔する前に、行動できればよかったんだけど……」 「わ、私も三葉さんも……みんな、自分を守るのに必死なんだね。自分を否定されるのは怖いんだよ。だから臆病になるんだと思う……って、私たちすごくぶちまけちゃってるね」 「……そうだね、普通は言わないよねってことまで話してる。……平良さん、私のこと……嫌いになった?」  風船が萎むみたいに気が小さくなる私に、平良さんは首を横に振った。 「さっきも言ったけど……おあいこだよ。だから、気にしないで」 「気にしないなんて、無理だよ」  私は平良さんに傘をさしてあげる。すると平良さんは「昨日とは逆だね」と笑った。 「よかった、今度は平良さんに傘をさしてあげることができて」 「三葉さんが追いかけてきてくれたから……」  そこで会話が途切れると、私たちは同時に「あの!」と声を発した。 「あ、先にどうぞ」  平良さんが先を譲るみたいに、両手で『どうぞ』という仕草をする。 「ああ、うん……あの……平良さんさえよければ……教室で聞いてたやつ……ドラマCD、だよね? 私にも聞かせてくれない……かな」 「……え」  予想だにしていない言葉だったのだろう、平良さんは啞然としている。  本当は私の友達になってほしいって言うはずだったのに、わざわざ言葉にするのは小学生みたいで恥ずかしくて、ひよってしまった。 「きょ、興味あるの? あんなの聞いてて、気持ち悪いって……思わない?」 「思わないよ」  私のほうがもっと引かれる過去を持ってるし。 「平良さんの見てる世界を知りたいの。平良さんさえ、嫌じゃなければ……」 「嫌なんてそんな! 私、声優が好きで、ほんとはおすすめのドラマCDとか、誰かに話したくて仕方なかったの! でも、ああいう成人向けのやつは好き嫌いが分かれるし、二次元ってだけでも引かれちゃうから……。だけど、三葉さんとはいろいろぶちまけ合った仲だし、もうなにを知られても怖くないかも」  ふふっと笑う彼女に、笑みを返しながら考える。  私もいつか、すべてを話せる日が来るだろうか。平良さんみたいに、『もうなにを知られても怖くない』と言い切れないことが申し訳なかったけれど、今できる精一杯のことを私はしてる。それだけでも進歩だと自分を宥めた。 「あの、平良さん。私たちって、友達……になれたと思って、いいのかな?」 「えっ、わ、私の勘違いじゃなければ、もうそうなれたと思ってたんだけど……」  ふたりで顔を見合わせると、「ぶっ」と同時に吹きだす。臆病者同士、私たちはお似合いかもしれない。少なくとも、愛美たちといるときより気楽さがあった。 「改めて、私は三葉……陽菜。よかったら、陽菜って呼んで」 「わ、私は平良薫です。ひ、陽菜……私のことも薫って呼んで?」 「うん、薫」  そう呼べば、薫はうれしそうにはにかみながら口を開く。 「私、誰かに下の名前で呼ばれるのも、誰かを下の名前で呼ぶのも初めてなんだ。なんだか、特別な響きに聞こえるね」  雑誌やSNSに犯罪者の娘というレッテルとセットで自分の名前が晒されるようになってから、人に名乗るとき、呼ばれるとき、緊張するようになった。でも、平良さんに呼ばれたときは怖さではなく、人と繋がれた安堵が胸を満たした。  今ならわかる。朝陽くんに名前を呼ばれている間も、同じだった。私という存在を認めてもらえているような、そんな安心感を彼からも貰っていたんだ。 「私も……下の名前で呼び合う友達はたくさんいたけど、今ほど特別に聞こえたことはなかったよ」 「陽菜……」  心を繋ぐように私たちが手を握り合うと、バスがやってくる。 「あ……陽菜もバスで帰る?」  魅力的なお誘いに「うん」と答えようとしたとき、頭に彼の顔がよぎった。 「もうひとり、会いに行かなきゃいけない人がいて……私は学校に戻るね」 「そっか、じゃあ明日……ね。さっそくだけど、ドラマCDの入門編を持って行くから」 「うん、楽しみにしてる。それから、この傘……本当にありがとう」  傘を渡すと、薫は戸惑いながら受け取った。 「え、でも……陽菜、傘は?」 「もう雨に濡れても、大丈夫だから」  私に背を向ける人ばかりじゃないと知ったから、雨に濡れても心は寒くない。  私は「じゃあ」と手を振って、全速力で来た道を戻る。彼はまだ、あそこにいてくれているような気がしたから。 *** 「はあっ、はあっ、はあっ……」  息を切らしながら花壇にやってくると、やっぱり朝陽くんがそこにいた。花壇のほうに向かってしゃがんでいる彼の背に近づけば、足音に気づいたのだろう。朝陽くんは肩をぴくりと震わせ、振り返る。 「おかえり」  朝陽くんは柔らかく微笑んだ。確証なんてなかったけど、ここで待っていてくれているような気がしたのだ。 「ただ……いま……」  お母さんにも言えなくなった『いってきます』と『ただいま』のあいさつ。こんなにも温かい言葉だったっけと、少しだけ泣きたくなった。  朝陽くんはそんな私に気づいているのか、いないのか、両手を広げる。 「おいで」  彼の笑顔に引き寄せられるように、私は足を踏み出していた。さすがにその腕の中に収まるのは違う気がして、朝陽くんの隣に腰を落とす。 「朝陽くんの……言う通りだった。薫みたいに、自分を守るために誰かを蹴落とす人ばかりじゃない。朝陽くんみたいにずるい私を知っても、軽蔑して離れていく人ばかりじゃない。それを知ったら、ほんの少しだけ……竦んでた足が軽くなった、走り出せたの」 「陽菜先輩の心は自由になれたんですね」  私は「うん」と、噛み締めるように深く頷く。 「人に裏切られたことばかり思い出してしまうけど、私……人に救われてきたこともあったんだって、朝陽くんの言葉で気づけた」  私が話している間、朝陽くんは静かに耳を傾けてくれていた。 「手を差し伸べてくれた人たちのことを思い出したら、胸の痛みが和らいだの。人につけられた傷は、人にしか癒せないって……本当だったんだね」 「陽菜先輩、少しだけすっきりした顔をしてますね」 「後悔が晴れたおかげ……かな。私に『心に従え』って言ってくれて、ありがとう」  言葉の代わりに、朝陽くんは笑みを返してくれる。 「朝陽くんは……不思議な人だね」 「え?」  目をぱちくりさせる朝陽くんに、私は苦笑した。そして、繰り返し雨粒を跳ね返す花びらに視線を移す。 「会ったばっかりなのに、そんな感じがしない。自分のことを話すのは、苦手っていうか……できればしたくなかったはずなのに……朝陽くんの前だと、口が羽みたいに軽くなる」  私は朝陽くんのほうを向き、少しだけ首を傾けて言う。 「なんでだろうね」  朝陽くんが息を呑んだのがわかった。ややあって、彼の見開かれていた瞳は涙の膜を張り、切なげな光を反射させる。 「本当に……、なんででしょうね」  
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