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3章 その人を深く知ろうとすれば、寄り添うことは出来るはずだ
土曜日、私は東京に引っ越してきてから通院している総合病院に来ていた。私の目の前には、白衣を羽織った四十代半ばの男性が座っている。私の担当医である住吉(すみよし)孝道(こうどう)先生だ。
「三、四週間くらい前から、視界が霞み始めたんです。時間が経てばよくなるかなって思ってたんですけど、戻らなくて……」
もともと、私の視界は薄明の中にいるみたいに暗かった。それで色を判別しにくかったのもあるけれど、この数週間で一気に視力が落ちてきている。
「心づもりは、告知されたときにできてたと思ったんだけどな……」
強がりで笑ってみせる。そうでもしなければ、どうして私だけがこんな目に遭わなきゃいけないのと、泣き叫んでしまいそうだった。
宣告は中一のときにされている。それから徐々に私の視界は暗くなっていったが、それでも物の形ははっきり見えたし、色だって区別できた。これからも緩やかに失われていくのだろうと思っていたのに、こんな急に悪くなるなんて……。
「私、心の準備なんて、なにひとつできてなかったんだ……」
「当然です。患者さんたちは、自分の状況が変わるたびに大きなショックを受けるものなんです。ですから、陽菜ちゃんだけじゃないですよ」
眼鏡をくいっと指で押し上げながら、住吉先生は私を安心させるように穏やかな口調で慰めてくれる。
「住吉先生、私の目は……いつまで世界を映してくれるんでしょうか……?」
尋ねるのは勇気がいったが、終わりがわからないことのほうが怖い。
「今の視力、視野からいって、数か月……といったところでしょうか」
「……!」
私は息を呑む。認めたくないという心の現れだろうか、意識が遠のきそうになった。
そんなに、すぐ……見えなくなったら、学校はどうしよう。お母さんはあてにならないし、ひとりでどうやって生きていけばいいの?
「陽菜ちゃんは四年前の事故で角膜を損傷しています。加齢でも視力の低下や視野の狭まりは起こる。つまり、なにが言いたいかって言うと、時間が経てば経つほど、他人よりも早いスピードで、陽菜ちゃんの視力は衰えていくってことなんです」
返事を打つ気力すら失っていた私に、先生は身を乗り出して告げる。
「角膜移植を受ける気はないですか?」
何度か、住吉先生から持ちかけられていた話だ。でも、角膜移植は保険が効いても、自費負担で最大八十万くらいかかるのだそうだ。
国内提供ドナーの角膜数は少なく、海外から取り寄せることがあり、そうなると費用は跳ね上がる。うちでは到底払えない。今、生きていくだけでも大変なのに。
「脳にダメージを負ってなった色覚や視界が暗くなる異常は治せなくても、視力は失わずにいられるかもしれない。ただ、手術を希望してる人は大勢いる。ドナー数が少ない関係で、長期間手術を待ってもらうことになるから、決断するなら早いほうがいい。お母さんと話はしましたか?」
してない、と首を横に振れば、住吉先生は【角膜移植を検討されている方へ】と書かれたパンフレットを手渡してくれる。
「いつでも力になりますから、今日はこれだけでも持って帰ってください」
住吉先生には、お父さんとお母さんに協力を得るのは難しいとだけ伝えている。犯罪者である父と、保護者であることを放棄した母のことを知られるのは嫌だった。
なんとなく複雑な家庭事情があるのだろうと察してくれている先生は、無理強いしない。詮索しないでいてくれることが、私にとってはありがたかった。
「角膜を移植しても治る保証はない。けど、治らないとも言い切れない。だから可能性を信じてほしい。陽菜ちゃんはまだ若いんだ、まだまだ先があるんだから」
それに曖昧な笑みを返すしかできなかった私は、パンフレットを抱きしめる。
あと数か月で失明するかもしれないなんて、想像できない。
神様、私はなにか悪いことをしましたか? もし、身内が人を殺そうとしたことが私の罪だというのなら、私はどう贖えば許されるのですか? 降りかかってくるのは絶望ばかりで……もう、疲れたよ。
***
翌日、バイトに行くために鞄の準備をしていた。
机の上に置いてあるバイトの制服を持ち上げると、その下から薫から借りた二枚のドラマCDが出てくる。
最近はスマホでも聞けるそうなのだが、彼女はCDも手元に置いておきたいのだそうで、今回はその大切な保管用CDを貸してくれた。
あれから、薫とは一緒に行動している。クラスメートからはかわいそうなぼっち組として見られているけれど、不思議と彼女と教室にいても視線が気にならない。自分の居場所や価値を守るための薄っぺらい関係よりも、深い繋がりを薫と築けたからかもしれない。
CDを大事に机の端に寄せると、その下から今度は角膜移植のパンフレットが出てくる。それをゆっくりと持ち上げ、鞄の中にしまった。
こんなもの、持って歩く必要はないんだけどね。
近い未来、暗闇に閉ざされてしまう私の希望に思えて、近くに置いておかないと落ち着かなくなっていた。
「八十万、か……」
私は引き出しを開けて、自分の通帳の預金を確認しようとした。けれど、肝心の通帳がない。
「おかしいな、いつもここに入れてあったはずなのに……」
私はしゃがんで、引き出しの中を覗き込んだり、引き出しを外して奥に落ちていないかを確認する。
「え……なんで? どこいっちゃったの?」
あれで今月の授業料と家賃を払わなきゃいけないのにっ。
焦りながら、部屋にある引き出しという引き出しをひっくり返すけれど、やっぱり通帳は出てこない。「なんで?」を繰り返しながら部屋の中を探し回っていると──。
「ガタガタガタガタ、うるさいのよ!」
部屋にお母さんが怒鳴り込んできた。
「こっちは朝帰って来たってのに、寝れないじゃないの!」
「それどころじゃないから。今月の学費と家賃を払うための通帳がないの。……ねえ、お母さんじゃないよね?」
これだけ探してもないのだ、もう誰かがここから持ち去ったとしか考えられない。お母さんじゃないとしても、お母さんが連れ込んだ男たちが盗ることだってありえる。
「通帳? ああ……」
お母さんは一旦部屋を離れると、すぐに戻ってきて私になにかを投げつける。膝の上に落ちてきたそれは、私が探していた通帳だった。
「え……なんでお母さんが持ってるの?」
慌てて中身を確認すれば、残高は0だった。頭の中に『どうして』という怒りと『これからどうしよう』という不安が駆け巡り、ぐらぐらと眩暈がする。
「身体のメンテナンス費、そこから貰ったから。仕事を続けるために必要だって言ったでしょ」
「どうやって……お金、下ろしたの……?」
「あんたは未成年でしょうが。子供の口座は、親が手続きすれば本人扱いで下ろせんのよ。そんなことも知らないの? ガキねえ」
なに、得意げに話してるの? なんで平然と、子供からお金を盗めるの? 未成年の子供は、自分の生きる権利すら自分で守ることもできない。こんなのが親として認められるなんて、この世界はどうかしてる。
「ねえ、お母さん……私、あと数か月だって」
怒る気力もなく、俯きながらそう言えば、お母さんから「は?」と興味なさげな声が返ってくる。
「目、もう見えなくなるって……」
下を向いている私からは、お母さんの顔は見えない。少しでも傷ついてくれていたらいいと思うけれど、平然とされてたら傷つくのは私のほうだから、表情は確かめないことにした。
「角膜の移植手術……どれだけお金かかるか、知ってる? ドナーはそんなにいないから、早く移植希望登録しないと、私……失明するんだよ?」
家賃に学費、それだけでバイト代なんて飛んでしまう。それでも少しずつ貯金すれば、手術を受けられるかもしれない。そんな儚い希望すら、描いてはいけないの?
「お金がなきゃ……っ、私の世界、真っ黒なんだよ……っ」
両手の拳を握り、強く膝に落とす。それを何度も繰り返しているうちに、涙までぼたぼたと落ちてきた。
「なんで、お母さんは……っ、私から光ばかり奪うの!」
落ちていた本を手に取り、投げつけようとした。だが、顔を上げて本を振りかぶった私は脱力する。そこに、お母さんの姿はもうなかったからだ。
「そう……そういうこと……」
本を持った手を力なく下ろせば、笑いが込み上げてきた。
「ふっ……ふふ、ふふふふふっ……娘の目が見えなくなろうが、どうでもいいってこと。そうなんだ、そう、なんだ……」
自分でも情緒不安定になってる自覚はある。でも、嗚咽とともに出てくる涙を止められない。
「ふ、うっ……ううっ、う……っ」
私を守ってくれる人なんていないんだ、この世界のどこにも。私の歩く道だけが、いつも暗闇に閉ざされているのだ──。
***
「すみませんでした」
バイトに来て早々、私は深々と頭を下げる。
「これだから学生って嫌だわ。どうせ遊びの延長だと思ってるんでしょ、だから遅刻なんてできるのよ」
通帳の一件でショッピングモールの清掃員のバイトに遅れてしまった私は、バイトリーダーにお𠮟りを受けていた。
人目につかないから選んだ清掃員のバイトは、私を除いて全員が年配の女性だ。だからか、その輪に入っていくことができず、なにかひとつでも失敗すれば目の敵に遭う。
私以外のバイトだって、うたた寝してたとか、腰が痛かったとか、しょうもない理由で遅刻してるのに。いつも、どうして私だけが許されないの。
説教からようやく解放された私は、清掃員の制服に着替えて、担当場所であるトイレに向かう。その途中、求人誌が置いてある棚を見つけた。
手術費……貯められるかな……。
自然と棚に近づいて、求人誌を手に取る。
前々から住吉先生に手術のことは言われていたけれど、考えないようにしていた。
うちの家計は火の車だ。お母さんは家賃も学費も出してくれないし、私のバイト代だけでは手術費はまかなえない。
それに、貯めてたお金もお母さんに使われちゃった。当面は生活費を稼がないと……。
ため息をつきながら、求人誌を丸めてズボンのポケットにしまう。バケツとモップを持って、歩き出そうとしたときだった。
「陽菜先輩?」
聞き覚えのある声がして顔を上げると、目の前に私服姿の朝陽くんがいた。彼の他にも、友達らしき男の子がぞろぞろといる。
「あ……」
私は今、ブルーのスモックに長靴という最高にダサい格好をしている。こんな姿、学校の人たちには見られたくなかったのに……。
そのとき、朝陽くんの隣にいた男の子が閃いたという顔をした。
「もしかして、朝陽の言ってた花壇の先輩!」
彼はぱっと表情を輝かせて、「な、そうだろ?」と朝陽くんの肩に手を置く。
「冴島、あんまり騒ぐなって」
「冴島って確か……くらえポメポメボールの人……」
つい、声に出してしまったあとで気がついた。冴島くんはきょとんとした顔をしてすぐ、頭を抱えてしゃがみ込む。
「俺の印象、どんなふうにインプットされてんの!」
朝陽くんの話から想像していた通り、冴島くんは無邪気な人のようだ。
「朝陽、冴島、その清掃員のお姉さんと知り合いなのか?」
「てか、なんで清掃員? 他にもバイトあるでしょ」
他の男子たちが好き勝手にそう言い、訝るように私を見てくる。
「しかも、そのポケットから出てるのバイトの情報誌じゃね? お金に困ってんの?」
ぴくりと肩が跳ねてしまう。それを見逃さなかった男子たちは「図星かよ」と笑い、こちらに近づいてきた。
「ならさ、助けてあげよっか?」
男子のひとりが、肩に手を回してくる。その様子を見た朝陽くんと冴島くんは「おい、やめろって」「おふさけがすぎるぞ」と止めようとしてくれたのだが、他の男子たちは楽しそうに眺めているだけだった。
「うわ、なにそのドラマみたいな展開。身体売れって?」
「そうそう、一晩相手してくれたら三万円とか。そこら辺のバイトより高日給じゃね?」
男子たちは「安っ」とツッコミを入れ、盛り上がっている。私はトラウマのある『三万円』の単語に、一気に頭に血が上った。
「馬鹿にしないで!」
情報誌を男子のひとりに叩きつけ、肩に回されていた腕を振り払う。
「当たり前のように、あなたたちは太陽の下を歩けるのに……っ、どうして日陰にいるなにも持たない人間を目の敵にするの⁉」
朝のことが尾を引いていた。バイト中だと言うことを忘れて、私は感情的に叫んでしまう。
そこで我に返った。呆気にとられている彼らに気づき、私はそそくさと掃除用具を持ち直すと、その場から駆け出す。
「待って! 陽菜先輩……っ」
後ろから腕を掴まれ、私は立ち止まるしかなくなった。
「さっきはあいつらが悪ノリして、本当にすみません!」
振り返らずともわかる。追いかけてきてくれたのは朝陽くんだ。
この間までは、朝陽くんを会ったばかりとは思えないほど身近に感じていた。朝陽くん相手だと、どうして自分のことをすらすらと話せてしまうのか。そう尋ねたときの朝陽くんの表情は切なげで、その理由をいつか聞いてみたいと思った。
でも……そのいつかは、きっともうない。
「陽菜先輩、なんでこっち……見ないんですか?」
「……から」
「え?」
「期待したくないから……追いかけてきてくれた朝陽くんを……知りたくない、から……」
一緒にいた男子たちと同じように、なにを言っても、なにをしてもいいみたいに、朝陽くんも私を見下すかもしれない。その瞬間が来ないうちに、朝陽くんから離れたい。
「これ以上、私を惨めにしないで……」
やんわりと朝陽くんの手を振り解き、「バイトに戻らないとだから」と言って、その場から逃げる。
さすがに朝陽くんも面倒になったのだろう。彼は私を追いかけてはこなかった。
***
バイトが終わったのは、午後十時。ショッピングモールを出る頃には、空は真っ暗だった。
土日は今日みたいに朝から出勤して夜にあがるので、ほとんど丸一日働いている。
法律では一日の労働時間は八時間以内と定められているけれど、私の場合はズルをしているので、こんな働き方が可能だった。
実際は学校があるので行けるはずがないのだが、平日に出勤したことにしてもらい、シフトをちょろまかしてもらっている。
「つっかれたー……」
夜空を仰ぐが、私の目では遠すぎて星が見えない。
またひとつ、私の世界から景色が消えた。そうして最後には、なにも残らないんだろう。
雑踏の中で目を閉じて、光を失ったときの感じを確かめてみる。そこにあるのは闇、ただそれだけだった。
これが、私の世界になるんだ……。
「……っ」
足が震えた。そのとき、どんっと後ろから誰かにぶつかられる。私は前に倒れるようにして転んだ。手のひらと膝を擦りむいたのか、ひりひりと痛む。
「こんなところで突っ立ってんなよ!」
どこからか、怒声が飛んできた。そっか、全部見えなくなるって、ひとりで外を歩くことすらままならなくなるんだ。そういう当たり前のことができなくなるんだ。
「ふっ……全部、無駄だったってこと?」
泥水啜って、歯を食いしばってここまで生きてきた。なにかを成し遂げたわけでもないけど、ここまで生きてくるだけでも必死だったんだ。そうして耐えながらも積み重ねてきた私の人生は、なんだったのだろう。
身体をふたつに折り、私は両手の中に顔を埋めて泣いた。そのとき、いきなり後ろから肩を掴まれ、勢いよく振り向かされる。
「あっ……」
「どうしたんですか!」
直前まで目を閉じていたせいで、余計に視界がぼやけてよく顔が見えなかった。目を凝らして「誰?」と眉間を寄せると、その人が戸惑っているのが気配から伝わってくる。
「僕が……わからないんですか?」
「え……あ、その声……朝陽くん?」
どうしてここに? こんな時間まで遊んでいたのだろうか。
「とりあえず、ここは人通りが多いですから、移動しましょう。陽菜先輩、立てますか?」
「うん……」
私は朝陽くんに支えられながら立ち上がり、ショッピングモール前の公園のほうへと歩いていく。
「ここに座って。僕、なにか飲み物を買ってきます」
彼に促されるままにベンチに腰掛ければ、朝陽くんの足音が遠ざかっていく。ベンチにひとり取り残された私は、ぼんやりと虚空を見つめた。
この時間までバイトするの、そろそろ難しいかも……。明かりがないところは、先が見えないから歩くのに時間がかかるし……。
ため息と一緒に「どうしよう……」と呟けば、頬にぴとりと温かいなにかが触れる。「わっ」と飛び上がりそうになると、朝陽くんの笑い声が聞こえた。
「ふっ、驚かせてすみません。これ、ミルクティーです」
「ありがとう……」
朝陽くんが差し出してくれたカップを受け取ろうと腕を伸ばすが、位置がつかめずに空を切ってしまう。
「陽菜先輩?」
「あ……ごめん、ちょっと気分悪くて……」
「そうだったんですね。じゃあ、なおさら休まないと」
表情は暗くて読み取れないが、朝陽くんの話しぶりからするに目が悪いことは悟られていなそうだった。
朝陽くんは「はい、これ」と、カップを持たせてくれる。自販機の缶ジュースではないので、わざわざカフェでテイクアウトしてくれたらしい。
それにしても、いつから外にいたんだろう。朝陽くんの手、冷たい。
カップに口をつけると、鼻を抜けていく紅茶の香りと温かさに、ほっと息をついた。
「あと、これ絆創膏。手のひらと膝、擦りむいたでしょう? トイレで水洗いしますか? 途中までついていきますよ」
朝陽くんから絆創膏を受け取りながら、私は首を横に振る。
「あ……いいよ、そこまでしなくても。これで十分」
朝陽くんは「んー……そうですか?」と少し納得がいっていなさそうだったが、私は彼の気が変わる前にと、絆創膏を貼ってしまった。
「陽菜先輩、昼間のこと……本当にすみませんでした」
隣に腰かけた朝陽くんは、私のほうを向いて頭を下げてくる。
「昼間のこと? ああ……」
次から次へとショックな出来事が襲いかかってくるせいで、頭から抜け落ちていた。
「朝陽くんの友達が言ったことなら、気にしないで。私のほうこそ感情的になってごめんね。今日は朝から、いろいろ気分が下がることがあって……。せっかく遊びに来てたのに、空気、悪くしちゃったでしょ」
自分の晒した痴態を思い出して苦笑していると、朝陽くんは首を横に振った。
「先輩を傷つけるようなことを言ったあいつらが全面的に悪いんで。本当にすみません……」
「もしかして……朝陽くん、それを言うためだけに私を待ってたの?」
「あ……はい、出待ちみたいなことして、重ね重ねすみません。自分でもこれ、ストーカーじゃね? ……って思って、不安でした」
「そんなことは思わないけど……いつから待ってたの?」
「そんなに待ってないですよ」
嘘だ。朝陽くんの手、冷たかったし……。
ここで『すごい待ってました』と言わないのが朝陽くんなんだ。相手が気にしないようにするための嘘……そのさりげない気遣いが胸に染みる。
「それにしても陽菜先輩、バイトの時間、長すぎませんか? 朝も働いてて、終わったのこの時間って、そんなシフトないですよね。僕もバイトしてるんで、その辺りの知識はあります」
「……土日は二日分働いてるの。朝陽くんが言ったみたいに、一日に働ける時間は決まってるけど、学校に行ってる平日に勤務したことにしてもらってるんだ」
「そんなんじゃ、身体を壊します。その……お金に困ってるんですか?」
不思議だ。お金に困ってるのかと聞かれるたびに恥ずかしくてたまらなくて、惨めになるから『そんなことない!』って言い張ってたのに、朝陽くんに言われても不快じゃない。
朝陽くんが私を案じて聞いていると、わかるからかもしれない。
「うちね、いろいろあってお父さんがいなくて、お母さんは水商売で働いてるけど、家に一銭も入れないの。まつエクにネイル、エステ……いろいろメンテナンスが必要とか言って、稼いできたお金は使い果たしちゃうわけ」
どこか他人事のように明るく話す。そうでもしなきゃ、今すぐにでも理不尽だと泣き喚いてしまうだろうから。
「じゃあ、陽菜先輩がバイトばかりしてるのは……」
「うん、家賃と学費、それから……」
手術費のことが頭をよぎるが、朝陽くんの手前、口に出せなかった。
「と、まあ……いろいろ自分でまかなわなきゃならなくて、休んでられないんだ。それなのに今朝、お母さんが私の通帳から勝手にお金を下ろしてたことがわかって、もううんざり」
「それは……」
お母さんの行動に、さすがに朝陽くんも啞然としている。その反応を見れば、うちがどれだけ普通から逸脱しているのかがわかった。
「それでイライラしてたところに、朝陽くんたちと遭遇して……。あのときは……『三万円』が引き金だった」
「三万円?」
「うん……私にとっては、地雷ワードなの」
その理由を話すのは躊躇われて唇を噛んでいると、朝陽くんが手を伸ばしてくる。その指先が噛んでいた唇に、そっと触れた。
「話したくないなら、話さなくていい」
そう言った朝陽くんの声音は少し低くなり、切なげに響いている。
「それは隠してるんじゃない、 嘘ついてるわけでもない。大半の人は『どうして話してくれなかったのか』って聞いてくるけど、仲がいい相手にだって言えないことはある。それは信頼していないわけじゃない。相手に負担をかけたくないからだったり、自分が人にどう思われるのかが怖かったりするからだ」
新しい中学に転入したばかりの頃、私には秘密にしなければならないことばかりで、どこに住んでいたのか、どうして引っ越したのか、質問に答えられないことが多かった。
自分のことを話さない私は、相手からすれば踏み入る隙がない人間に映っただろう。
『三葉さんって、なに考えてるかわからないよね』
『人と関わりたくないんじゃない?』
私はこういう人間だと勝手に解釈されて、誰とも打ち解けることができなかった。後ろ暗いことのない人間には、理解できない感覚だ。
「話せって強要してくる人がいたら逃げてもいいんだ。この世にパーフェクトな人間なんていないんだし、なにかしら後ろめたさを抱えて生きている人がほとんどだ。臆病になる気持ちは、誰にでもある」
「どうして……私がかけて欲しい言葉がわかるの?」
私がなにに胸を痛めるのか、なにを恐れているのか、同じ経験をしたわけでもないのに、なぜ朝陽くんにはわかってしまうのだろう。
「陽菜先輩を理解したいと思ってるからだと思う。人の気持ちほど見えないものはないよ。でも、その人を深く知ろうとすれば、寄り添うことは出来るはずだ……って、生意気なこと言ってすみません」
私は「ううん」と首を横に振る。
「朝陽くんの名言集には、たびたび救われてるっていうか……」
「名言集、確かに。でもこれ、ある人の受け売りなんですけどね」
「あ……朝陽くんの話によく出てくる、例の大切な人?」
朝陽くんはうれしそうに「はい」と言った。大切な人の話をするときの朝陽くんの顔はわかる。優しくはにかんでいるか、眩しそうに目を細めて微笑んでいるかのどちらかだ。
彼の表情を思い浮かべたら、誰かの言葉を大切に記憶しているこの人になら、話してもいいやと思えた。
「忘れもしない、私の誕生日でもあるクリスマスイブ。お母さんにホテルの名前が書かれた紙切れを渡されてね」
私はカップの外側を指でさすり、心が波打たないように意識を逸らす。これから話そうとしているのは、私の心についた傷の中でも一位二位を争うほどのトラウマだからだ。
「なにかサプライズをしてくれるんだろうって行ってみたら、知らないおじさんがいて、それで……『はい、三万円』って……」
「……! それって……」
言いにくそうにしている朝陽くんに、私は自嘲的に笑う。
「うん、お母さんは私を三万円で売ったの。それ以来、クリスマスも誕生日も大嫌いになっちゃった」
息を詰まらせた朝陽くんはカップをベンチに置くと、ガラス細工に触れるように静かに、私を抱きしめた。
「朝陽……くん?」
「それは、陽菜先輩が抱えてるものの一部でしかないんですよね? 言葉にできない傷が、その胸にまだたくさんあるんですよね?」
それにどう答えていいのか考えあぐねていると、朝陽くんの腕に力がこもる。
「これだけ……聞かせてください。お母さんは初めから、陽菜先輩にひどいことをしていたわけじゃ……ありませんよね?」
「え……うん、きっかけは……お父さんの……裏切り」
ぴくりと朝陽くんの身体が震えた気がした。
間違いじゃない。お父さんは守り合って、支え合わなければならない家族の絆を壊したのだから。
裏切られたなんて傍から聞けば、お父さんが浮気でもして家を出ていったととる者がほとんどだろう。本当のことを話せなくて心苦しいが、お父さんの犯した罪のことは一生誰にも語ることはない。
「うちはね……壊れてるんだよ……それから私も……壊れていくんだ……」
「なら、壊れていくたびに僕が繋ぎ合わせるよ」
「え?」
顔を上げようとするも、後頭部を押さえるように引き寄せられてしまい、それは叶わなかった。
「陽菜先輩が陽菜先輩らしくいられるように、バラバラになったところから何度でもくっつけて、治すから……っ」
「なんで……朝陽くんは、なんでそこまでしてくれるの?」
ときどき見せる切なげな表情と、なにか関係があるの?
朝陽くんの優しさには、見返りがなさすぎる。それが眩しくもあり、私には歪(いびつ)に見えた。
でも、朝陽くんはなにも答えない。その代わりに、私をさらに強く抱きしめる。それは私を守るというより、自分の痛みに耐えるための行為のように感じられた。
「あなたの傷は……僕の傷でもあるから……」
その言葉の意味を勝手に解釈すれば、私の傷に同調したということだろうか。彼にも私の負ったものと似た傷があって、痛みが理解できるから……とか。
「こうして、くっついていたら……陽菜先輩の傷が僕に移るとか……そういう奇跡、起こらないかな……」
「なにそれ……そんなの、奇跡じゃなくて呪いだよ……」
「ううん、僕にとっては奇跡だよ……」
少しだけ身体を離した朝陽くんは、真っ暗な空へと手を伸ばす。
「大切な人の悲しみを共有したくても、できないことがある。手の届かない場所にいたりとか……ね。だから、自分の知らないところで大切な人が泣いてるとか、もう嫌なんだ」
朝陽くんには、守れなかった人がいるんだ。その人と私を重ねて見ているのかもしれない。
「そっか、だからか……」
勝手に納得している私に、朝陽くんは首を傾げた。
「朝陽くんに心を許してしまう理由が……今、わかったの。朝陽くんからは、同じ匂いがするんだ」
「匂い?」
私は朝陽くんの首元で、すんっと鼻を鳴らす。
「うん……絶望の匂い……どん底を知っている、そんな匂い……」
朝陽くんは「あ……」とだけ声を漏らしたが、じっとしていた。
「弱みを見せると、人に蔑まれたり、同情されたりして惨めになる。だから、できるだけ隠そうとする。それでも、ひとりで抱えるには苦しすぎて……そういうとき、同じ傷を負ってるってわかる相手になら、自分の傷も見せられる……それがあなたなのかも」
「陽菜先輩の想いを受け止められるなら、傷を負った甲斐がありましたね」
「朝陽くんは……眩しいね。暗くても、朝陽くんの存在だけは光って見えるみたい」
「それは陽菜先輩のほう──」
そこまで言いかけて、朝陽くんは苦笑しながら口を噤むと、そっと腕をほどく。
「長々とすみません。陽菜先輩さえよければ、送らせてください」
朝陽くんに続くようにしてベンチから腰を上げると、私たちは自然と向き合った。
「あ……ううん、大丈夫だよ。家まで歩いて十五分くらいだし……朝陽くんのほうこそ、家はこの近くなの?」
「僕の家は隣の駅なので、これから電車に乗って帰ります」
「大変っ、終電、間に合う⁉」
鞄の中に手を突っ込んで、感触だけでスマホを探す。ディスプレイを顔に近づけて確認すれば、そろそろ日付が変わろうとしていた。
「もうこんな時間……私の話に付き合わせちゃってごめんね……っ」
ひとりで慌てていると、朝陽くんは「くっ」とおかしそうに笑った。
「どちらかと言うと、付き合わせたのは僕のほうです。なので、おあいこってことで」
腰を屈めて、私の顔を覗き込んでくる朝陽くん。暗くて見えないけど、きっと優しく微笑んでいるんだろうな。
会ってそう経っていないというのに、彼の表情が自然と頭に浮かぶ。私はふふっと笑い、「なら、そういうことで……」と肩を竦めながら頷いた。
「それじゃあ、朝陽くん。気をつけてね」
「それは僕のセリフです。先に言われちゃいましたけど、陽菜先輩も気をつけて……って、あ!」
朝陽くんははっとしたようにポケットに手を突っ込むと、スマホを取り出した。
「先輩! 連絡先、連絡先を教えてください」
「え、急だね」
「いや、いつも聞こう聞こうと思ってたんですけど、先輩と話すのが楽しすぎて、つい忘れてしまって」
頭を掻きながら照れくさそうにそう言った朝陽くんに、なんだかむず痒い気持ちになる。私たちは今までにないくらいよそよそしく、連絡先を交換した。
「今度こそ、じゃあね」
後ろ髪を引かれる思いで駅に向かおうとすると、朝陽くんは「また学校で!」と手を振ってくれる。
私たちはの反対の方向に進んでいく。けれど、すぐに私の足が止まってしまった。
しまった……長く話し込んじゃったから、お店が結構閉まっちゃってる。明かりが少ないと、前が見えづらいな。そう思ってるそばから──。
「あっ……」
私は地面の凸凹に躓いて、その場に転んでしまう。
「いったた……私、傷作ってばっかだな」
転んだだけで気力が削がれてしまった私は、地面に座り込んだまま立ち上がれなかった。そんな私を道行く人は不審そうに振り返っていたが、そんなことよりも私の胸を占めていたのは未来への不安だった。
「ただ、歩くこともままならない……このまま私、なにもできなくなるのかな……」
朝陽くんのおかげで、せっかく気持ちが上向いたのにな。いつからこんなに弱くなったのか、ちょっとしたことで心がポキッと折れてしまいそうになる。
「……っ、朝陽くんがいなくなった途端、世界は真っ暗になったみたいだよ……」
鼻の奥がツンと痛み、目の縁から涙が染み出てきた。すると、後ろから誰かが駆けてくる足音がする。
「怪我はありませんか!」
誰かが前に回り込んでくるが、街灯が少ないこの場所では顔がよく見えない。
「あ……大丈夫です。ちょっと転んでしまっただけなので……気にしないで行ってください」
そう声をかけたのだが、相手から返事はない。不思議に思って「あの?」と、もう一度声をかけると──。
「陽菜先輩……」
そこでようやく、今目の前にいるのが朝陽くんだということがわかり、私は息を吞む。
さすがに、こんな至近距離で誰かわからなかったなんて言い訳、通用しない。
頭が真っ白になっていると、言葉を紡げずにいる私に朝陽くんは震える声で告げた。
「陽菜先輩……もしかして、見えないんですか?」
どくんっと心臓が跳ねた。
なにか言わなくちゃ……でも、なにを?
黙るしかない私に、朝陽くんは悟ったようだった。「ふ、うっ……」と嗚咽のような吐息をこぼし、その場に力なくしゃがみ込む。
「朝陽くん……? もしかして、泣いてる……?」
「いつから……ですか? その目、そんなふうになったの……」
泣いてるかどうかなんてどうでもいいとでも言うように、朝陽くんが尋ねてくる。
「事故に遭ってから……」
聞かれるままに答えれば、朝陽くんは悲壮感漂う声で「そんな……」と呟いた。
もう隠せない。かわいそうな子、障がい者──これで彼が自分をどう見たとしても、私には秘密を告白する以外の選択肢がなかった。
「事故が原因で、中一のときの記憶もごっそりなくて、よく覚えてないんだけど……そのときに角膜が傷ついちゃったみたい……なんだ。病院の先生からも、いつかはって言われてて……」
朝陽くんの吐き出す息が震えている気がした。
「それは、つまり……」
「見えなくなるってこと」
それを聞いた朝陽くんは、がしっと私の肩を掴んで叫ぶ。
「──なにか、その目を治す方法はないのか⁉」
いつもの穏やかな朝陽くんらしくない口調だった。自分のことのように、私を気にかけてくれているのがわかる。
でも、ここまで人のために心を裂ける彼を不憫にも思う。彼は私が傷つくと、それと同じ傷を負ってしまえる人なのだ。そうして、痛みを分かち合ってしまえる人なのだ。そんなの、あまりにも苦しすぎる。
そんな彼に追い打ちをかけるのは気が引けるが、真実を知りたいと望むのなら、私は話そう。それが私を心配して戻ってきてくれた彼への誠意だと思うから。
「……角膜移植を受ければ、見えるようになるかもしれないとは言われてる。でも、それには八十万かかるの。今を生きるのだって必死なのに、そんな大金、到底払えないよ……」
「求人誌を見てたのって、それが理由……?」
私は肯定するように首を縦に振る。
「あんまり、時間がなくて……私、数か月後には失明するって、告知されてるんだ」
「なんで……陽菜先輩ばっかり、こんな目に遭うんだっ」
強く抱き寄せられた。背中に回った腕に痛いほど力がこもっている。一瞬息ができなかったが、きついその抱擁から、朝陽くんの真心が伝わってくる。
「今は、どこまで見えてるんですか?」
朝陽くんの泣きそうな声が、私の鼓膜を震わせた。
「昼間なら、かろうじて黒板くらいは見えるよ」
「じゃあ、夜は?」
「……あんまり」
朝陽くんは深く息を吐き、ゆっくりと身体を離すと、私の顔を両手で包み込む。
「そういうときは、頼っていいんだ。でないと、寂しいから……僕にはなにもできないって、そう言われてるみたいで……っ、自分が不甲斐なくて、殴りたくなるから……」
「朝陽くんはそうやって、私の痛みも苦しみも抱え込んでくれるけど、そこまでする必要なんてないんだよ」
朝陽くんは『大切な人の悲しみを共有したくても、できないことがある。自分の知らないところで大切な人が泣いてるとか、もう嫌なんだ』と、そう言った。
朝陽くんには守れなかった人がいて、その人と私を重ねて見ている。だから、私の傷を一緒に負いたがる。
「朝陽くんがなにを抱えてるのかはわからないけど、朝陽くんが守りたかった人は、きっと自分のせいで朝陽くんが苦しむことに、苦しむと思う」
朝陽くんは優しすぎて、痛々しい。朝陽くんが笑うと、周りの空気まで白く光るみたいに明るくなる。日の下を歩いて行ける人なのに、ときどきその表情が陰るのが気になっていた。それが朝陽くんの優しさゆえなら、私になんて心を寄せなくていい、もっと自分を大切にしてほしい。
「大切な人だからこそ、その人を理解したいと思うからこそ、傷まで一緒に共有しようとするんでしょ? でも、朝陽くんだって幸せになる権利、あるんだからね?」
「陽菜先輩こそ……人のことばっかりです。今は自分のことでいっぱいいっぱいなはずなのに、僕の心配までして……」
朝陽くんの親指が労わるように私の頬をさする。今、彼は悲しんでいるのだろうか、それとも切なく微笑んでいるのだろうか。
それが知りたくて、見えない目の代わりに朝陽くんの顔にぺたぺたと触った。
「陽菜先輩?」
「こうして触らないと、朝陽くんの表情がわからないから……今、どんな気持ちでいるのか、ちゃんと感じたくて……」
見逃してしまったら、朝陽くんはそのまま傷ついていることを隠してしまう気がした。
「今は……陽菜先輩がひとりで抱えてたものがあまりにもつらすぎて……悲しいです。陽菜先輩、目のことを知ってる人は、他にもいるんですか?」
「家族以外は知らないよ。中学のとき、友達に話したこともあったんだけど、重くて引かれたの。それ以来、誰にも話してない」
こっちの中学に引っ越してきたばかりの頃、私が犯罪者の娘だと知らない同級生たちとはそれなりに関係を築けていた。でも、仲良くなれていたと思っていた友達に目のことを話したら……。
『なにそれ、重いんだけど』
『そんなこと、うちらに話して、どうしてほしいわけ?』
別に、なにかしてほしかったわけじゃない。ただ、見えなくなるかもしれないことが不安だということを知ってほしかっただけだ。それでときどき、話を聞いてもらえたらそれだけでよかった。
けれど、大抵の人間は自分のことで手一杯なのだ。他人のことまで気にしている余裕がない。
実際、私も学校という世界の中で自分の居場所を見つけるのに必死だった。だから、そんな彼女たちを責めようとは思わない。私が勝手に理解してもらうことを諦めただけだ。
「じゃあ、覚えておいてください。僕は陽菜先輩のことなら、どんなことでも理解したいと思ってること。それがどんなに後ろ暗くて、重い真実でも、僕だけはあなたの味方だっていうこと」
朝陽くんはゆっくりと立ち上がって、私に手を差し伸べた。
「先の見えない真っ暗な道も、僕が手を引いて行きます。今度こそ、家まで送らせてください」
やっぱり朝陽くんは、光のような人だと思う。
私は強がることをやめて、目の前にある手を躊躇いがちに掴む。すると朝陽くんは『それは間違いじゃないんだよ』と、そう私に教えるように強く握り返してくれた。
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