4章 だから、光を見つけてほしいんだ

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4章 だから、光を見つけてほしいんだ

【もう、うちの家族に関わらないでくれ】  四年間、送り続けた手紙に返事があったのは、今日が初めてのことだった。  お父さんが傷つけた青砥聖也(あおとせいや)という少年に宛てた手紙。被害者の彼は私のひとつ下で、今は十五歳になったと聞いている。この春、高校生になったばかりだろう。  たとえどんな理由があったとしても、お父さんが当時小学生だった彼の未来を奪おうとしたことは許されるものではない。 加害者家族としてできることを考えたとき、手紙を書くことを思いついた。お母さんは『あの家族には関わらないで』と言い続けていたけれど、私は書き続けた。 たとえお父さんがしたことだからと、自分とは関係ないと思っていても、良心は痛む。お母さんみたいに関わりたくないと逃げてしまえるほど、無責任な人間じゃない。  でも、毎年事件があった冬に送っていた謝罪の手紙は、もう送ってこないでくれと言われてしまった。  この謝罪は……誰のためのものなのだろう。  これはお父さんの罪だ、私には関係ない。何度もそう思おうとしたけど、当然のことのように一筆目は【申し訳ありませんでした】と綴っていた。  娘の私にも責任があると、そう自然に思っている自分がいた。連帯責任というやつなのだろうか。  罪を犯し、家族をバラバラにしたお父さんが憎い。でも、お父さんは昔から面倒見がよくて、一人暮らしの部下を家に招いてはご飯を食べさせたりしていた。  小さい頃は私が風邪を引いたときに野菜たっぷりのミルク粥を作ってくれたり、釣りに連れて行ってもらったり、髭を私のほっぺたにこすりつけてジャリジャリしたり、大好きだったお父さんとの思い出もある。それがあるから、繋がりは消えない。結局は家族なのだ。こんな形で知りたくはなかったけれど……。  そっか、この謝罪は私たちのエゴでしかないんだ。断ち切れない家族への情から一緒に罪を背負って、それを贖いたいと思う良心の呵責を和らげるため。被害者家族への申し訳なさももちろんあるけれど、罪の意識がない家族だと思われないようにするため。手紙はそのための行為──。 「まだそんなこと続けてたの」  学校に行く前、リビングで手紙を読んでいると、お母さんが起きてきた。ぼさぼさの髪のまま、お母さんは私の手元を覗き込む。 「ふうん」  手紙を横から攫って目を通したお母さんは、読み終わると私に突っ返した。 「向こうがやめろって言ってるんだから、やめればいいじゃない」  簡単にそう言い、お母さんは足を組みながら向かいの席に座る。カチッとライターを鳴らして、火をつけたタバコを咥えると、気だるげに前髪を掻き上げた。 「私たちの人生をめちゃくちゃにしておいて、被害者面するなんて、面の皮が厚すぎるのよ」 「お母さん……なに言ってるの? お父さんは人を殺そうとしたんだよ? どれだけ誠心誠意接したとしても、その罪は消えない。被害者面? 青砥さんたちは本当に被害者で──」  私の言葉を遮るように、お母さんはがんっと拳をテーブルの上に落とした。カップが倒れ、中に入っていたコーヒーがこぼれる。それを拭く間もなく、お母さんは私を責めるように睨みつけてきた。 「あなただけは、そんなことを口にしないで」 「な……んなの、それ……お父さんを庇えってこと? 人を殺そうとしたのに?」 「黙りなさい!」  お母さんは机に身を乗り出した。パシンッと乾いた音がして、すぐに頬が熱くなる。じんじんと痛みを感じ始めてようやく、お母さんにぶたれたのだと頭が理解した。 「どうして、私が責められなきゃならないの……? 私は加害者家族として、できることはしなきゃって、そう思って手紙も書いてきたんだよ? 人として、やってはいけないことをしたんだから、責任をとるのは当たり前のことでしょう?」 「また、叩かれたいの?」  手を振りかぶろうとしたお母さんを負けじと、私は睨み返す。 「つらい目に遭うのは、お父さんのせいだって思ったこともあった。それでも一緒に責任をとっていく……家族だから。それが最善だって、私は思って……っ」 「つらい目に遭うのは、あんたのせいよ」  どんっと私の胸を強く押し、お母さんは椅子に座り直した。 「……え? なにそれ、なんの根拠もない八つ当たりはやめてよ」 「お父さんがなんで罪を犯したのか、あんたはなにも知らないんでしょ? それなのにどうして、お父さんばかり責められるのよ」 「その言葉、そっくりそのまま返すよ。お母さんはお父さんの肩を持つけど、離婚してもないのに別の男の人と関係を持ってる。自分のことを棚に上げて、どうして私だけを責められるの?」  お母さんの目に一瞬、影が差した。触れられたくないものに触れられたような表情を浮かべている。そこには、怒りも含まれているように見えた。 「なら教えてよ、お父さんがなんであんなことをしたのか。当時の記事を見ても、ニュースを見ても、お父さんは動機についてはなにも話してない! だけど……っ、殺意を持って事件を起こしたっていう事実は認めてる! これのどこを擁護しろっていうの⁉」  お母さんはつんと顎を上げて、タバコを吸っている。  やっぱり八つ当たりだったのだ。お母さんは都合が悪いと、いつもだんまりか逆ギレするかのどちらかだ。 「お母さんは、どうしてお父さんを責めるなって言うの? 家族だから庇いたい? それとも犯罪者の妻になりたくないから、真実を認められないだけ? ねえ、答えてよ!」 「なにも知らないって、幸せよね」  負け惜しみするようにそう言い、お母さんは立ち上がる。私を拒絶するような背中が部屋の向こうに消え、大きな音を立ててドアが閉まった。  こぼれたコーヒーが手紙に染み込んでいくのを眺めながら思う。  どれだけ『もう関わるな』『忘れればいい』と言われたところで、この罪は長年こびりついた染みのように消えてはくれないのだと。 ***  放課後、私は薫と一緒に朝陽くんがバイトしているというカフェに来ていた。 「その頬、改めてみると痛々しいね」  薫の視線は、私の頬についているガーゼに注がれている。今朝、お母さんに叩かれて腫れてしまったので、とりあえずガーゼで隠したのだが、余計に目立ってよくなかったかもしれない。 「うん、朝起きて寝ぼけてたんだろうね。勢いよく廊下を曲がったら、曲がり角との距離感うまく掴めてなかったみたいで、ゴンッて。すごい衝撃だった」  私には秘密にしなければならないことが多すぎる。唯一の友になれた薫や朝陽くんにすら隠し事をしている。  嘘に嘘を重ねて、これからもずっと本当のことを話せないのだろうか。そうやって悩んでいるくせに、私の口は息をするのと同じくらいすらすらと偽りを吐く。罪と同じだけ染みついているのだ、素顔を見せない道化のような振る舞いが。  心配そうにしている薫を安心させるべく、私は明るい声で話題を変える。 「私、こうして学校の友達と放課後に出かけるの、久しぶりなんだ」 「いつもバイト、忙しそうにしてるもんね」  そう言ったっきり、薫は俯き加減にもじもじしながら視線を彷徨わせる。ときどき、こちらをちらちらと窺うように見ながら。  薫の言いたいことはわかっている。 「陽菜、お金に困ってるの? 陽菜の家って貧乏なの? ……ってとこ?」 「そ、そそそそそっ、そんなにはっきりとは!」  髪を振り乱す勢いで首を横に振る薫に、私はくすっと笑う。 「薫って、わかりやすいよね」  慌てている薫に、悩んでいたのが少しだけ馬鹿らしく思えた。薫は思ったことがすぐに顔に出るから、なに考えているかわからない鉄仮面よりも信頼できる。彼女は私がどんな人間だとしても、蔑んだり嘲笑ったりはしないのだろう。 「そうだね……高校生のバイト代だけで生活するのは、なかなか厳しいものがあるよね」 「え、陽菜ってひとり暮らしなの?」 「違う違う、親がいても貧乏なの」 「母子家庭とか?」 「それはそうなんだけど、当たり前に子供を養ってくれる親ばかりじゃないってこと」  私の言わんとすることがわかったらしい薫は、「あ……」と気まずそうに目を逸らす。  予想通りの反応……彼女もまた、私を遊びに誘うのはよそうと思うのだろうか。そうして付き合いが悪いと、離れていくだろうか。そんな不安が胸を過ったとき──。 「苦労してきたんだね……っ、私、毎日一緒にいたのに全然気づかなかった。今度から遊ぶ場所は私の家とか、公園とかにしない?」 「え……そう、きたか……」  前言撤回、予想の斜め上をいく反応だった。 「わ、私、おかしなことを言ったかな?」  私は「ううん」と首を横に振り、うれしさで自然に口元が緩むのを感じる。 「大抵の人はね、私が貧乏だってわかると、『可哀想な子だな』って憐れむか、自分より下の人間を見つけて意気揚々と蔑んで来るかのどっちかなんだよ」 「私は……陽菜と話をしたり、同じ時間を共有できるだけでいいんだ。だから遊ぶ場所なんて、どこでもいいと思ってるよ」 「そう言ってくれたのは、薫が初めてだよ」   あの雨の日、勇気を出して薫を追いかけてよかった。あそこで薫と関わることを諦めてしまっていたら、この時間は存在しなかった。 「朝陽くんにも、感謝しないとな……」  そう呟いたとき、目の前にカタンッとカップが置かれる。 「お待たせしました、イングリッシュブレックファストのミルクティーです。平良先輩は抹茶フラペチーノです」  顔を上げれば、カフェ店員の制服に身を包んだ朝陽くんが眩しく微笑んでいた。私も薫も、飲み物を運んできてくれたイケメン店員に目を奪われている。  はっと我に返った薫が朝陽くんのほうに向き直り、礼儀正しく背筋を伸ばした。 「あ、あなたが百瀬くん? 私、会えたらお礼を言いたいって思ってて……!」 「お礼、ですか?」 「あの日、私と陽菜を引き合わせてくれたのは百瀬くんだって聞いて、本当にありがとうございました」 「僕はなにも……人の助言なんて、生かすも殺すも本人次第ですから。今、こうしてふたりが向き合ってお茶してるのは、ふたりが一緒にいたいって気持ちがあったからだと思います。その想いこそが、ふたりを動かしたんですよ」 「歩く名言集……陽菜の言ったとおりだ」  朝陽くんのことは薫にも話している。それが朝陽くんにもわかったのだろう。こちらに屈んで、少し気恥ずかしそうに耳打ちしてくる。 「僕のこと、平良先輩にどんなふうに話してるんですか? これからは変なことを言わないように、口に気をつけないと」 「大丈夫だよ。朝陽くんはいつだって、誰かを明るく照らす言葉しか言ってないから」  カップに口をつけようとすると、視線を感じて朝陽くんを見る。彼は困ったように眉を下げながら笑っていた。 「全部、……、なのに……」  声を聴きとれず、私は「今、なんて?」と聞き返す。 「いや……それより陽菜先輩、その頬……本当にもう痛みはないんですね?」  朝陽くんにはバイト前、花壇で会ったときに母親にぶたれたという事実だけ話してある。なぜ、ぶたれるような事態になったのかは伝えていない。朝陽くんも、根掘り葉掘り聞いてくることはなかった。 「うん、もう平気」  本当は頬の痛みよりも、気にかかっていることがあった。  お母さんの『つらい目に遭うのは、あんたのせいよ』という言葉と、【もう、うちの家族に関わらないでくれ】と書かれていた手紙のことだ。 「ミルクティーを頼んだのって、どうしてですか?」 「え?」 「しかも、ミルク多め」  なにもかも見透かすような瞳で、私を見つめてくる朝陽くん。私はカップに視線を落とし、その縁を親指でなぞる。 「ほっとしたかったから……かな。公園で朝陽くん、ミルクティーをくれたでしょ? あのときのミルクティーの味を思い出すと、寒くなった心がポカポカするんだ」  目が見えなくなるという残酷な秘密を、初めて家族以外の人間と共有した夜のことだ。  朝陽くんは特に驚いた様子もなく、私が安心したかったことをわかっていたというような顔をしていた。  向かいの席に腰かけている薫は、先ほどから飲み物に口をつけることなく、じっと私と朝陽くんのやりとりを聞いていた。やがて機会を窺っていたとばかりに、「あの……」と話に割り込んでくる。 「その……陽菜、もし聞かれたくないなら、目も耳も塞いでトイレにこもるくらい、いくらでもするよ」  突拍子もない言葉に相槌を打つのも忘れ、私は目を瞬かせながら薫を見つめた。 「でも、もし私にも話してもいいって、そう思ってくれたなら……自分のことのように、私は陽菜の痛みも苦しみも受け止めるよ……って、それだけ言っておきたくて」 「薫……」 「私にできることは、少ないかもしれないけど……」 「そんなことない。その言葉が、あなたの存在が、私の真っ暗な世界に光を差し込んでくれるの……薫、あなたは偉大だよ。ちゃんとわかってるのかな?」  真面目に伝えるのは気恥ずかしくて、ふざけるような口調になってしまう。 「それを言うなら、お互い様だよ。私にとって陽菜は、息苦しくて水槽みたいな教室で見つけた海藻」 「ぷっ、なにそれ。海藻? 喜びづらいなあ」 「ふふふっ、でも、本当にそうなの。安住の地を探して、藻掻いて藻掻いて……泳ぎ疲れていた私が、唯一息ができる場所を見つけた。……それが陽菜だよ」  自然と手を取り合う私たちを、朝陽くんが柔らかな眼差しで見守っていた。 「あのね、薫。さっき、私……薫に嘘をついた」  私は勇気をもらうように、朝陽くんの目を見つめる。すると、私のしようとしていることを悟ったのか、朝陽くんはひとつ頷いてくれた。  私は朝陽くんに笑みを返して、頬のガーゼに触れる。 「この頬……本当は寝ぼけて曲がり角にぶつけたんじゃないの。これは……これ、は……」  薫になら話したいって思った。それなのに口が重くて重くて仕方ない。簡単に移ろう自分の心がほとほと嫌になる。  そのときだった。繋いでいた手が強く握られる。はっと薫を見れば、「もういいよ」と言いながら笑いかけてくれた。 「もういいって……?」 「お母さんでしょう? 陽菜の怪我の……原因」 「気づいてたの?」 「なんとなく、ね……だって、廊下の角にぶつけただけで、そんなガーゼつけるほどの怪我にはならないよ……。それにさっき、当たり前に子供を養ってくれる親ばかりじゃないって言ってたし……陽菜の触れられたくない傷なのかなと思って……」  これまでどれだけ私の噓に気づいて、見なかったふりをしてくれていたのだろうか。  傷はむやみやたらに触れれば、悪化する。好奇心が傷口を開き、蔑み笑う悪意が菌となって化膿する。  私は知らないところで、薫にも朝陽くんにも守られてきたんだ。 「ありがとう。その……ふたりとも、相談があるんだけど……」  口の開いた鞄から見える手紙を一瞥してから、私は切り出す。 「私には償わなきゃいけない人たちがいて、でもその人たちからはもう関わらないでほしいって言われちゃったとするでしょ」  ふたりは事情を追及することなく、抽象的な私の話を黙って聞いてくれていた。 「周りの人は相手がそう言うんだから、ほっとけばいいって言うんだけど……私はこのままなにもしないなんて……できないと思ってる」  私には関係ない、お父さんがしたことだって逃避したこともある。でも、家のポストに書かれていた【出ていけ犯罪者家族】という文字、家に届く脅迫文がどうしたって頭をよぎる。  ネットには中傷だけでなく娘や母親まで犯罪を犯してるという嘘の情報まで書き込まれ、加害者の家族という繋がりを断ち切ることは世間が許さないし、加害者家族としての責任を常に問われてきた。  謝罪をしたからといって被害者に許されるわけでもないけど、手紙を書き続けるという行為は、私たち家族が社会的責任を果たしていると証明するために必要な贖罪で、この世に存在していいのだと思えるための安定剤だった。 「それが自分の罪悪感を少しでも軽くしたいだけの行為だってこともわかってる。でも……朝起きても、夜眠るときも、責任から逃げるなって誰かの声がするの」  後ろから私たちを責め、追い立ててくる声がする。それが消えない限り、一生この世界に私たちの居場所はないのではないかとさえ思っている。だから、なにもしないということはできなかった。 「私はこの罪と……どう向き合えばいいのかな……」 『自分が犯した罪ではないのだから、私に責任はない』と言って終わらせることは簡単だけれど、消し去ることができない加害者家族の責任は? 断ち切れない繋がりや罪と、どう向き合えばいいの?  具体的にどんな罪を犯したのか、誰が犯した罪なのか、なにひとつ明確には話していない。けれども、難しい面持ちをしているふたりは、真剣に思案してくれているようだった。 「わかるな……私も傷つけちゃった人、たくさんいるし……」 「薫が?」  彼女はどちらかというと引っ込み思案だし、むしろ傷つけられてきたほうだと思っていたので意外だった。 「うん、イジメの標的になった友達を一緒になって無視したり、助けてって訴える視線を見て見ぬふりしたり……。あの瞬間、あの子はものすごく悲しくて、怒ったんだと思う。でも、その感情をぶつける先がなくて、つらかったはず。それが原因で人を信じられなくなっていたとしたなら、たかがイジメとは言えない」  カップに視線を落としたまま、薫は憂い顔を浮かべていた。 「これは私が一生背負っていく罪なんだと思う。だから私、同じ立場の人がいたら助けてあげたいって思った。というより、そうしなきゃ罪悪感で苦しくて……まあ、決意したからといって、すぐに行動するのは難しいんだけどね」  大なり小なり、誰しもが罪を背負っている。それを受け入れて、変えられない過去の代わりに未来を正しく生きようとする。それしか、償いの方法がないから。 「たぶん、その罪が自分の背負うべきものだってちゃんと納得がいってれば、どう償っていくのかは自然とわかるものだと思う」 「じゃあ私は、この罪が自分の背負うべきものだって納得してないってこと……なのかな」  きっとそうだ。私はお父さんが犯した罪の概要は知っていても、お父さんがなぜそんなことをしたのかまでは知らない。知ろうとしてこなかった。家族がいるのに事件を起こしたお父さんへの怒りもあったし、子供に殺意を向けるなんて理解できないと決めつけてた。向き合うことを避けていたから、刑務所まで行って本人に確認しようという気にもならなかったのだ。 「その人がどうしてそんな罪を犯したのか、陽菜先輩は知るべきだと思います」 「そう、だよね……それは避けられない、よね……」  加害者家族ができることって、罪を犯した本人や事件ときちんと向き合って、相手がどんな謝罪を求めてるのかを知ることなのかも……。  そうしなければ、ずっと納得がいかないまま、私は贖罪を続けることになる。それではきっと、私の理不尽だと思う心は昇華されないままだと思うから。 「おい百瀬、そろそろ戻らないと店長に睨まれるぞー。ま、最近すごいバイト出てるし、大目に見てくれると思うけどな」  料理を運びながら、見覚えのある男性スタッフのひとりが朝陽くんに耳打ちする。 「確か……冴島くん?」  ポメ子を放り投げた朝陽くんの友達だ。 「花壇の先輩、この間はすんませんでした」  急に謝りだした冴島くんに一瞬、なんのことだっけ?と考える。すると、冴島くんのほうからその答えを教えてくれた。 「ショッピングモールで、あいつらが失礼なこと言ったじゃないっすか」 「ああ……」  そんなこともあったっけ、と腑に落ちる。 冴島くんがそのときのことを気に留めていてくれたことがうれしかった。たいていの人間は、他人を傷つけたことなど一日寝れば忘れてしまう。それどころか、傷つけた自覚すらない人間もいるのだ。 「もう、気にしてないよ。それよりふたりとも、一緒にバイトするくらい仲いいんだね」 「冴島が勝手についてきたんですよ」  朝陽くんの返答に「ひでえ言い草だな!」と突っ込む冴島くん。ふたりのやりとりを微笑ましく眺めていたら、ついついと服の袖を引っ張られた。 「冴島くんって?」 「ああ、薫は初めて会うよね。朝陽くんのお友達の──」  そう言いかけたとき、あとを引き継ぐように「冴島与高(よだか)っす」と冴島くんが自己紹介をした。薫も「平良薫です」と名乗り返し、ふたりでペコペコ頭を下げている。 「冴島、悪いな。もう戻るから」  申し訳なさそうに朝陽くんが言えば、冴島くんは「おう」と笑って、手をひらひらさせながらバイトに戻っていった。 去っていく冴島くんを見送っている朝陽くんに、私はおずおずと声をかける。 「バイト中なのに、長々と引き止めてごめんね」 「いいんですよ、僕がここにいたかっただけなので」 「朝陽くんなら、そう言うと思った」  いつだって、私たちが気にしないようにと気遣ってくれる。年下なのに人として出来上がっている朝陽くんには、頭が上がらない。 「それで……私が言うのもなんだけど、そんなに働いてるの?」 「ああ、はい。僕も両親とはうまくいってなくて、一人暮らししてるんです。親に仕送りは貰ってるんですけど、それに頼り切るのは癪っていうか……自分の力で生きていきたくて、そのために金が要るんです」  それを聞いた薫は「朝陽くんも苦労してるんだね……」と、涙ぐんでいる。彼女に同情されても嫌な気持ちにならないのは、本当に胸を痛めてくれているからなのだろう。 「あとは……大切な人のためにできることが……これしか思いつかなくて」 「それって彼女とか?」  なぜ、私はそわそわしているのか。朝陽くんに質問したのは私なのに、答えを聞くのが怖い。 「そうなれたら……よかったんですけどね」  朝陽くんはそう言いながら、とても寂しそうに微笑んだ。 *** 【お父さんがいる刑務所の場所を教えてください】  悩みながらも、お父さんに会いに行くことを決めた私は、お母さんにそうメッセージを送ったのだが、どれだけ待っても返事はなかった。既読はついているので、わかっていて無視しているのだろう。  帰ってきたところを見計らって話そうと機会を窺っていたのだが、そういうときに限って帰ってこないときた。これはもう、意図的に私を避けているとしか思えない。  そうして、気づけばカフェに行った日から一週間が経とうとしていた。花壇の前でしゃがみ込みながら、スマホ画面を見つめてため息をつくと、ふいに手元が陰る。 「先輩、首尾はどうですか?」 「ああ、うん。上々とは言えないね。なかなか協力を得られなくて……」  罪を知るためにはある人の協力が必要としか話していないが、朝陽くんは深く聞いてくることはない。私が話した範囲の中で、相談に乗ろうとしてくれている。 「先輩の言う罪がなんなのかはわからないけど、その人に協力してもらう以外の方法はないの? その罪がまんま犯罪っていう意味なら、新聞とかでも知れるし……」 「えっ……」  犯罪という単語に、どきりとしてしまう。すると朝陽くんは慌てたように、「例えばの話だから」と付け加える。  でも、それしか方法はないかもしれない。本当は、今までその考えに至らなかったわけじゃない。ただ、これは家族の問題だ。お母さんにも私たちが背負うべきものがなんなのか、どう償っていくべきなのか、一緒に考えてほしかった。けれど、お母さんはお父さんにはもう関わりたくないのだろう。連絡がこないのがその証拠だ。 「……そう、だね」  昔の新聞がないか、図書室行って探してこよう。  そう思い立った私は、ジョウロを持って立ち上がる。 「私、そろそろ行くけど……朝陽くんは、今日もバイト?」  バイトなら途中まで一緒に帰るのが、この頃の私たちの日課になっていたので、どうやって学校に戻ろうかと考えていると……。 「うん。だけど、バイトまでまだあるし、もう少しここで時間を潰すよ」 「あ、そう? それなら、私は先に行くね」  ラッキーなのか、朝陽くんの察しがいいのか、わからないけれど……この機会を逃したくない。  手を振って、私は朝陽くんに気づかれないように校舎に戻る。まっすぐ図書室に赴けば、中には生徒の姿がちらほらあった。  私は人目を気にしつつ、新聞コーナーの前で足を止めた。過去の新聞がずらりと置かれており、探すのは骨が折れそうだった。  見つけなきゃいけないのは、四年前の十二月十日の新聞……。お父さんが事件を起こして、現行犯逮捕された日の新聞だ。  棚を引っ張り出しては、ひとつひとつ新聞の内容に目を通していく。そうしているうちに、日が暮れようとしていた。  時計の針に目をやれば、時刻は午後四時ジャスト。私以外、図書室に生徒はいなくなっていた。図書委員はいるのだろうけれど、棚が邪魔で見えない。  そろそろ出ないと、バイトに遅刻する……。  午後五時からバイトなので、もう学校を出ないとまずいのだが、まだお父さんの記事が見つかっていない。  もう少しだけ……。  そう思って、新聞を手にしたときだった。【小六男児殺人未遂事件 四十歳男性逮捕】という記事を見つける。  心臓がバクバクしていた。呼吸が浅くなるのを感じながら、文字を目で追う。 【口論の末、小学六年生の青砥聖也くん(十二)を突き飛ばし、怪我をさせたとして、会社員の三葉雅人(まさと)容疑者を殺人未遂容疑で逮捕した。容疑については認めたものの、詳しい動機に関しては沈黙を貫いている。殺意があったことについては認めており、法廷で説明責任を果たさなかったことから、五年以下の懲役を言い渡された】  新聞を持つ手が震える。これは間違いなく、お父さんの記事だった。 「それって……」  背後から聞こえた声に、私は反射的に新聞を閉じた。振り返れば、困惑した面持ちの朝陽くんが立っている。その顔を見れば、朝陽くんが記事を見てしまったことは明白だった。 「あ……あの、これは……」  さりげなく新聞を後ろに隠すけれど、きっと無意味だ。 「すみません、なんとなく……ここに先輩がいる気がして……もしそうだったら、手伝えることはないかなって思って、来たんですけど……」 「朝陽くんは……悪く、ない……私の心の準備がっ、その……できて……なくて……」  心臓が激しく波打って、足元が大きくぐらついているのではないかと思うほど動揺していた。 「わ、私……っ」  頭の中に一気に駆け巡るのは、『犯罪者の娘』と私を軽蔑する目と声。なにも言えずにガタガタと震えていると、朝陽くんの手が伸びてきた。  私は反射的に息を詰まらせて、後ずさってしまう。踵が棚に当たり、いくつか積まれていた新聞が足元に散らばった。そこに書かれている文字がすべて、【犯罪者の娘のくせに、のうのうと暮らしやがって】【犯罪者の娘も、どうせ犯罪者になるんだろ】と、私を責める言葉に見えてくる。 「陽菜先輩……陽菜先輩の傷は、そんなに……っ、深かったんですね……っ」  怯える私に、朝陽くんは泣きそうな顔をしていた。 「なにも……言わないで……。お願い……私、朝陽くんにまで……き、嫌われたら……っ、生きていけない……っ」  ここでも、私は居場所を失うの?  底のない穴に落ちていくような恐怖に襲われて、私はその場にしゃがみ込んだ。強く目を瞑り、耳を塞いで世界を閉ざす。  でも、足音が近づいてくるのが聞こえた。  どうせなら今、私から視力と聴力のどっちも奪っていってよ!  そう心の中で叫んだのは、悪足搔きだ。ゆっくりと、朝陽くんが私の前に膝をついたのが衣擦れの音と気配でわかった。 「……陽菜先輩、怖がらないで。先輩が誰の娘でも、どんな罪を背負ってても、僕は嫌いになったりしない」  朝陽くんの腕が私を抱きしめる。それにびくっとするも、朝陽くんは離そうとはしなかった。 「先輩、苦しかったですね……」  あやすように背を叩いてくれる朝陽くんに、私は戸惑っていた。今までお父さんの犯した罪を知った知人は口を揃えて『犯罪者の娘だったんだ』と言い、私を白い目で見た。どれだけ仲良くても、例外なくだ。  でも、朝陽くんだけは違った。むしろ、私を労わってくれているように感じるのだが、それはどうしてなのだろう。  彼の優しさが怖い。それが善意であると期待して、そうでなかったときの絶望は計り知れない。だから私は、朝陽くんの行動の意図を考えたくなかった。 「社会はすぐに謝罪を求めますよね」  突拍子もなく始まった話に、私は恐る恐る顔を上げる。朝陽くんは深刻そうに、散らばった新聞を見つめていた。 「陽菜先輩もお父さんの逮捕直後に、事件の情報もない中で被害者へ謝ることを求められたと思うんです。それだけじゃない。加害者家族としての責任をどうとっていくのかとか、怒涛のようにそんな先の話までされたんじゃないですか?」 「それは……うん。心の準備もできないまま、気づいたら家の前にたくさん人がいたの。それで、根掘り葉掘り家族のことを聞かれたり、犯罪者を出した家族の責任についてどう思うか、被害者家族に伝えたいことはあるかとか、そんなことを聞かれて……当然、答えられなかった。そうしたら、謝罪する気はないとか言われて……」 「答えられなくて当然です。それに、事件が起きたばっかりのときに、そんなにすぐ謝れないと思うんです。本当に家族が悪かったのか、事件が起きた原因がわかって、悪かったと納得がいく理由があって初めて、心からの『ごめんなさい』が出てくるんだと思います。それが本当の謝罪です」  朝陽くんの言葉は、私たち加害者家族の心を代弁してくれている。どうしてそこまで、こちら側の気持ちがわかるのかと驚くほどに、彼の言葉は的を射ていた。 「先輩は、お父さんの罪について詳しく知らないって言ってましたよね」  私は頷く。 「それなら、やっぱり真実を陽菜先輩自身の目で、耳で知るべきです。テレビの言葉よりも、どこの誰かもわかない新聞記者の記事よりも、納得がいくはずです」  朝陽くんの言葉は、まるで同じ立場にいる人がかけてくれた言葉のように、すうっと胸に入ってきた。 「事件報道では加害者や被害者の声に触れる機会はあっても、加害者家族の目線に立った話や情報が伝えられることはほとんどない。社会から取り残された陽菜先輩たちの苦しみは、僕の想像が追いつかないほど大きかったはずです」  そう言って、朝陽くんは私を抱きしめる腕に力を込めた。 「先輩が追い詰められて、命を絶ってしまったりしていなくて、本当によかった……っ」  首筋に冷たいものがぽたぽたと落ちてくる。顔を上げるまでもなく、朝陽くんが泣いているのだとわかった。その途端、私の目からもぶわっと涙が溢れ出す。 「つらい思いをしながら、ここまで耐えて、耐えて……っ、生きてくれて……っ、僕と出会ってくれて……っ、ありがとうございます……っ」 「朝陽くん……っ、朝陽くん……っ」  私は彼の背に腕を回し、しがみつくようにして泣いた。 そうして、しばらく身を寄せ合っていた私たちは、ゆっくりと離れる。ぶつけ合った感情の余韻の中、お互いに体温を感じられる距離にいた。 「陽菜先輩、お父さんのいる刑務所に行くんですよね?」  朝陽くんの指に涙を拭われながら、私は「うん」と答える。 「僕も一緒に行っていいですか? 面会は確か親族しかできないと思うので、中までは入れませんが……せめてそこまで先輩が行けるように、支えさせてください」 「でも……私のことに、朝陽くんを巻き込むのは申し訳ないよ……」 「お願いします。もう、陽菜先輩をひとりにしたくないんです」 「どうして……」  優しいの度合いを超えている。私に対して尽くしても、朝陽くんにはなにもいいことなんてないのに。  これを単純に考えれば、私を異性として好きだから?という結論に行き着くのだろうけれど、朝陽くんからはそういう下心は感じない。だからこそ、不思議だった。 「その答えは、全部終わってからでもいいですか?」  朝陽くんはまた、寂しそうに笑う。  すべてが終わったら、その笑顔の意味もわかるのだろうか。そんなことを思いながら、私は「ありがとう」と返す。  本当はひとりであそこまで行けるのか、不安だった。記事では詳しい供述はしてないようだけれど、お父さんには裏の顔があって、実は根っからの犯罪者だったら? そんなふうに悪いほうにばかり考えて、お父さんに会いに行く途中で心が折れてしまいそうになるだろう。だから、朝陽くんの同行は本当にありがたかった。 ***  新幹線で一時間、閑静な住宅街を二十五分ほど歩いたところにある高台に、お父さんがいる刑務所はあった。  ここの収容者数は五万人超えだそう。そびえ立つ無機質な格子上の門扉と、灰色のコンクリートの外観は冷たい印象があった。 「ここに、お父さんがいるんだ……」 「心の準備はできました?」  刑務所の面会は平日しかやっておらず、朝陽くんには学校まで休んでもらっておいて本当に申し訳ないけれど、私は門を見上げながら立ち竦んでいた。 「自分でここに来るって決めたのにね……恐ろしい魔物でも棲んでるみたい。足を踏み入れるのが怖いんだ……」 「陽菜先輩の心に傷をつけた魔物、ですね……。今日が無理なら、また違う日に来ればいい。僕はいくらでも付き添います」 「だけど……何回ここへ来ても、きっと同じように足が竦むんだと思う。だから……頑張ってくる」 「わかりました。じゃあ、先輩が帰ってくるのをここで待ってる」  朝陽くんの笑みに見送られて、私は施設の中に入る。  面会に年齢制限はないけれど、会える回数は月に二から七回まで、入室できるのは一回につき三人、時間は三十分程度と細々とした決まりがある。事件が起きた日から、今までの空白の四年間ぶんの話をするには、あまりにも少なすぎる時間だ。 「身分証を出してください」  面会申込用紙を記入して窓口に提出すると、応対してくれている男性がパソコン画面を見たままそう言った。  身分証を提示すれば、淡々と「受刑者との関係は? 面会の目的は?」と質問された。職員に悪気はないのだと思う。けれど、犯罪者の娘という立場からなのか、尋問されているような気になった。 「……、……娘です。目的は……父の口から、真実を聞きたいから……です」  長い間のあと、ようやく告げることができた。窓口の人は私の気迫に圧されてか、ぎょっとした様子を見せた。でもすぐに我に返り、鍵を私に差し出す。 「ロッカーの鍵です。携帯電話やボイスレコーダー、カメラ、危険物になり得るタバコやボールペン、ライター等は持ち込み禁止ですので、すべてロッカーに入れるようにお願いします」 「わかりました」  職員は慣れているようで、特に私が犯罪者の娘だと知っても顔色ひとつ変えない。過剰に反応されないことがありがたかった。  それから金属探知機を通り、面会室の前までやってきた私は深呼吸をする。職員の人を待たせているのに、お父さんとこれから会うのかと思うと心が揺れた。  開口一番に、お父さんにどんな言葉をかけるべきなんだろう。『久しぶり』『元気だった?』……どちらも違う気がした。私の中に〝どうしてあんなことしたの?〟という気持ちがあるからか、お父さんを前にして普通の親子のような温かな会話はできないのだろうと思う。 「入れますか?」  ここまで案内してくれた職員がドアノブに手をかけたまま、気遣うように私を見る。 「すみません、大丈夫です」  どれだけ悩んだって、前に進む以外の選択肢は私にはない。お父さんの罪に振り回されてきた自分の人生に納得するためにも、このドアの向こうに足を踏み出さなくては。  そう気持ちを奮い立たせ、私は職員に促されるように面会室に入る。すると穴の空いたアクリル板の向こうに、四十代後半くらいの中年男性がいた。 「お父さん……」  しわが増えてやつれた顔や白髪混じりの髪は四年の月日を感じさせる。  お父さんは会社で部長職についていたので、いつも髪型や服装はきっちりかっちりとしていた。それが今やくたびれた囚人服を着て、いつも黒く染めていた髪も白髪だらけになっている。記憶の中のお父さんよりも、老けて見えた。 「お前が来ると聞いて、驚いた」  硬い口調ながらも、お父さんの目元がやんわりと和らぐ。厳格でありながら、温かさのあるお父さんを人として尊敬していた。でも今は、その柔らかい眼差しをどう受け止めればいいのかがわからない。  私はお父さんの前にある椅子に腰かける。原則手荷物は持ち込み禁止だが、私のほうの机にだけ、メモ用紙とボールペンが備えられていた。  お父さんのいる部屋には刑務官がおり、面会中は常に話の内容がチェックされるのだとか。途中で怪しい発言や行動を取ってしまうと、面会は打ち切りになるので、事件のことを聞くならば慎重に話さないといけない。  立ち会っている刑務官の存在が気になるが、私は改めてお父さんに対峙する。 「陽菜……本当に、すまなかった。すまな、かった……っ」  お父さんは対面するなり、涙ながらに謝罪を繰り返した。でも私は、自分だけ簡単に謝ったお父さんに怒りがわく。 「それは、なにに対しての謝罪なの? 人を殺しかけたこと?」  自分でも言葉に棘があるのはわかっていたが、やはり許せないと言う気持ちに火がついてしまったみたいに、口が止まってくれない。 「お父さんは謝ってすっきりしたいんだよね? だけどこの四年間、お父さんが檻の中で守られている間に、私とお母さんは『犯罪者の娘』『犯罪者の妻』だって、たくさん責め立てらてたんだよ? 私たちを守ってくれる塀なんてなくて、ボロボロになった。それなのに『すまなかった』? そんな言葉で片付けないで!」  私はゴンッと、アクリル板を拳で叩く。お父さんは反論も弁解もすることなく、ただただ唇を噛み締めて項垂れていた。 「なんでなにも言わないの? 説明してよ、あの日になにがあったのか。でなきゃ私は、犯罪者の娘としてどう生きていけばいいのか、ずっとわからないままになっちゃう」 「……話せない。ただ言えるのは、すべては考えなしだった自分が悪いということだけだ。相手がどんなに最低なやつだったとしても、冷静に動くべきだった」 「それって、相手が最低なやつだったってこと?」  その問いの答えに、お父さんは窮しているようだった。長い長い間のあとに、ようやく口を開く。 「……お前は知らなくていいことだ。なにもかも忘れて、新しい人生を歩いてほしい」 「なにもかも忘れて? 新しい人生? そんな簡単な話じゃないからっ。ずっと耳にこびりついてるの、私を……『犯罪者の娘』って呼ぶ、みんなの声が……っ。どこへ逃げても、そのレッテルがついて回るの!」  お父さんは裁きを受けているかのように頭を垂れたまま、微動だにしない。  私が向かい合っているのは、なに? 無機質な銅像? それとも魂の宿らない人形? こんなに必死に言葉をぶつけても、肝心のお父さんからは反応が返ってこない。 「なにもかも忘れて、新しい人生を歩むってことは、お父さんとの縁を切って、他人として生きていくってことなんだよ? それくらいしなきゃ、新しい人生なんて歩めない。それでもいいって思ってるの⁉」 「……それも、仕方のないことだと思っている」  絞り出すような声で、お父さんは無慈悲な言葉を吐く。それがぎりぎりのところで繋がっていた理性の糸を断ち切った。 「お父さんがそれを言うの⁉」  ガンッ、ガンッとアクリル板を叩くけど、この拳は殴ってやりたい人のもとへは届かない。 「家族って、そんなに簡単にやめられるものなの?」  叩く手がひりひりと痛み、次第にアクリル板には赤い血が付着する。立ち会っていた刑務官が血相を変えて「そこまにしなさい!」と制止するが、私は構わず続けた。 「ねえ、聞こえてないの? そうやって、だんまり決め込んで、お父さんもお母さんも、なんで……っ、なにも話してくれないの!」  私は当事者なのに、自分が犯罪者の娘と呼ばれる理由も、両親の想いも、なにも知らない。 「私は……っ、事件を起こしたお父さんが許せない! 子供を育てることを放棄したお母さんが許せない! でもっ、それでもっ……お父さんやお母さんと過ごした時間がなくなるわけじゃない! 嫌いになりたくても、私の中に家族として過ごした時間が残ってるから……っ、だから……っ」  アクリル板に縋りつくように手をつき、私は項垂れる。きゅっきゅっと音を立てるアクリル板の音だけが、沈黙に覆われた室内に物悲しく響き渡っていた。 ***  面会はすぐに終わったというのに疲弊しきっていた私は、人を待たせていることも忘れて、面会室の前からしばらく動けなかった。  刑務官に手当てされて刑務所を出ると、日はだいぶ傾いていた。夕暮れの沈んだ色彩の中、私に気づくなり、笑みを浮かべて手を軽く上げる朝陽くんは、まるで燈台のようだ。 「朝陽くん……」  名前を呼んだだけで、朝陽くんは察したようだった。光るような笑みは鳴りを潜めて、沈んだ表情をする。 「なにも……届かなかった……私、これからどうしたらいい? 私、もう自分の足で立っていられないよ……っ」  その場に崩れ落ちると、朝陽くんが「陽菜先輩!」と言いながら駆け寄ってきて、私の肩を抱く。 「お父さん、私に事件のことは忘れろって……自分との縁を切ってでも新しい人生を歩んで欲しいって言うの。だけど、そんなの無理でしょう? 私は人ひとりの命を奪いかけた父親の娘なんだからっ、私が直接関わってなかったとしても、家族なら私も責任を背負わないといけないものでしょう? そう思って、耐えてきたのに……っ」 「陽菜先輩は……それなのに縁を切ってもいいなんて言われて、悲しかったんですね……」  朝陽くんは、わかってくれていた。なのにどうして、いちばん理解してほしいお父さんには伝わらないんだろう。 「私にとっては、それだけが……っ、この罪を償うことを納得できる……理由だったの。それがなくなったら、私はなんのために……これまで苦しい思いをしてきたのかなって……そう思ったら許せなくてっ……お父さんを責めるだけせめて、出てきちゃった……」 「……お父さんは……その罪のせいで家族を苦しめたことをわかっているはずだよ。だから、自分が忘れられても、それでも家族ができる限り当たり前の生活を送れるようにって、そう思って言ったんじゃないかな」  他の誰かの言葉なら、知ったこと言わないでと聞く耳を持たなかっただろう。でも、私の過去を知っても変わらずにいてくれた朝陽くんの言葉だからか、自然と耳を傾けることができる。 「陽菜先輩は、なんのためにこれまで苦しい思いをしてきたのかって言ってたけど、過去の苦しみは同じ経験をした誰かを助ける光になるんだ。同じ失敗を繰り返さないようになる教訓にもなる。陽菜先輩の苦しみはきっと、お父さんの胸にある闇を照らすはずだよ。陽菜先輩の強さになるんだ」 「でも……私は人様に偉そうなことを言えるような人間じゃない。これまで、犯罪者の娘である私の声に耳を傾けてくれる人はいなかった。だから、自分に自信がないの。私なんかの言葉で、人の心を動かせるとは思えない」 「陽菜先輩は自分が思うよりずっと、誰かの心を動かしてるよ」  朝陽くんは包帯が巻かれた私の両手をとる。そして、痛みを堪えるように、私の手の甲に額をくっつけた。 「本当は誰かを救う力があるのに、人に好かれる人なのに、自分の輝きを見失ってしまって、もどかしい……」  朝陽くんは誰の話をしているのだろう。私はそんな人間じゃない、それは朝陽くんみたいな人のことを言うんだ。 「今はひとりで立てなくてもいい。僕がこの手をとって、どこまでも連れて行ってあげる。あなたを支えるよ。あなたが自分の人生を歩めるように……っ」  ぽたぽたと温かい雫が手の甲に落ちてくる。 「朝陽くん、泣いてるの……?」  前にも、こんなことがあった。私に自分の過去を話してくれたとき、私が『会ったばっかりなのに、そんな感じがしない』と言ったとき、私の目が見えなくなると知ったとき、お父さんの新聞記事を見つけて取り乱した私を見たとき、朝陽くんは涙を浮かべていた。 「陽菜先輩、大事なのは消したくなるような過去の自分と、どう向き合って生きていくかなんだ。それを見つけなくちゃ、陽菜先輩はずっと暗闇の中に取り残されたままになる。だから、光を見つけてほしいんだ」 「光、なんて……私の世界から失われていくばかりだよ……」 「小さくてもいい、遠くてもいいんだ。どこに向かっていけばいいのか、その道標を見つけてほしい。それがあれば、どんなに苦しい道でも、希望を見失わずにいられる。僕がそうだったように」  朝陽くんも私と同じように、闇の中に取り残されたことがあるのだろうか。もし、光が心の拠り所であるのだとしたら、それはきっと朝陽くんだ。彼の存在が、この世で唯一の私の光だ。  私は世界でたったひとつの光に縋るように、これだけは失ってしまわぬようにと、朝陽くんを抱きしめ返した。  
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