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7章 「 」の罪はきっと、彼女に出会ってしまったことだ
僕の──いや、〝俺〟の罪はきっと、彼女に出会ってしまったことだ。
「弟って……冗談? それ笑えないって……だって、苗字も違うし……」
困惑している彼女に、心臓を締めつけられるような苦しみに襲われる。
ついに、この日が来てしまった。いつか必ずやってくるこの瞬間に、俺は裁きを受けるのだとわかっていた。
「改名したんだ。僕の本当の名前は……青砥夜尋(やひろ)。陽菜先輩は覚えてないと思うけど、僕たちは……四年前に会ってる」
「え……四年前って、私が中一のときじゃ……」
驚いている彼女の顔を複雑な気持ちで見つめる。
すべてを話し終えたら、彼女はきっと俺を……。
深呼吸をして、目を伏せる。
今は考えるのをよそう。余計に打ち明けるのが億劫になる。
「僕にとって、あなたが大切な人になってしまったからなんだ。だから、あなたは……僕を目の敵にしていた弟に……。あなたは僕に……巻き込まれたようなものなんだ」
***
愛情というものがいかに脆く、壊れやすいものなのかを知ったのは小学六年生のときだった。
『母さんはもう帰ってこない。今日からこの人たちが、お前の家族だ』
父親から業務連絡のように母親が出て行ったことを告げられたばかりか、いきなり家にやってきた若い女とその連れ子が家族になるというのだ。
自分を捨てた母親にも、まるで古くなった家具を取り替えるみたいに家族を取り換える父親にも、子供ながらに軽蔑したのを覚えている。
母親が出て行って数日と経たないうちに父親が再婚し、俺には青砥聖也という弟ができた。歳はひとつ下だが、人の同情を買うことに関しては悪知恵の働く子供だった。
『お兄ちゃんが僕のおもちゃ盗った!』
『お兄ちゃんにぶたれた!』
最初は些細な注目引きだったが、聖也は味をしめたのだろう。俺が中学に上がる頃には、それは度が過ぎたものになっていた。
『兄さん、入るよ』
夕方、聖也がノックもなしに部屋に入ってくるなり、ランドセルを床に放り投げる。
『おい、入っていいって言ってねえぞ』
親の注目が自分に向いていないと癇癪を起こす弟、俺を追い出したい義母、実子よりも義理の息子を可愛がる父親。自分だけ同居人みたいな寂しさと、弟の話にしか耳を傾けない父親に失望した俺は、中学に入ってから荒れるに荒れていた。
『怖いなあ。睨まないでよ、兄さん』
聖也は我が物顔で俺の部屋のベッドに腰かける。
小学生は親が考えるより、ずっと大人だ。親はそれに気づかないだけで、自分の欲求を満たすために猫を被り、演技することもできる。うちの可愛い子がそんなことをするはずがない、子供にできるわけないと思い込んでいる。
『子供同士だからすぐに馴染めるだろうって安易な親の考え方、やめてほしいよね。実の子との差は子供ながらに感じるし、分け隔てなくとか嘘だろって思う』
『いいのか、大きな声でそんなこと言って。お前の本性を知ったら、あいつら卒倒するぞ』
『親のこと、あいつら呼ばわりする兄さんも兄さんだと思うけど』
聖也はおかしそうに足をぶらぶらさせる。付き合うだけストレスが溜まるので、いつものようにヘッドホンをつけて無視しようとしたのだが……。
『兄さん、まだそんなおんぼろヘッドホン使ってるの?』
俺が持っているヘッドホンは、父親から初めて貰った誕生日プレゼントだった。父親を軽蔑してると言いながら、こんな物を今でも大事にしている自分は矛盾している。脆くて壊れやすい愛情に、いまだに縋っている自分に無性に苛立った。
『でもまあ、仕方ないか。母さんは私の子じゃないから、お金をかけないでって義父さんに話してたし』
父さんはそれを鵜吞みにして、聖也だけを甘やかし、まだ習ってもいないのにグランドピアノまで買い与えている。そうしなければ、義母の愛を繋ぎ留めておけないと思ったのだろう。元妻が他の男に目移りして、家を出て行ってしまったから。
『義父さんも母さんのご機嫌とりに必死だし、連れ子の僕を実の息子より可愛がってる』
にやりと嫌な笑みを浮かべた聖也は、飛び跳ねるようにベッドを降りると、俺の隣にやってくる。なにを思ったのか、ペン立てからボールペンを一本抜き取ると──。
『──ぐ、うああああっ、痛いっ、痛いよおおっ』
聖也はなにを考えたのか、自分の手の甲にボールペンを突き刺した。俺の頬や鼻に生温かい血が飛び散り、一瞬思考が固まる。
『お兄ちゃん、やめて! やめて!』
ひとりで勝手に悶え叫んでいる聖也を見下ろしながら、親の愛情を確かめるためにここまでするのかと、心の底から恐怖を覚えた。
そこへ『聖也!』と父さんが飛び込んでくる。その後ろには義母の姿もあり、『きゃああっ、血が……!』と悲鳴をあげながら聖也の肩を抱いた。
父さんは聖也の手の甲に刺さっているボールペンと俺を交互に見つめると、ずかずか音を立てながら近づいてくる。
『お前は、また聖也に手を上げたのか!』
怒鳴りながら、椅子に座っていた俺の首根っこを掴み、勢いよく地面に引きずり下ろした。地面に転がった俺に、父さんが馬乗りになる。
『構ってもらえないから、弟に八つ当たりか⁉ お前は兄だろう! 弟相手に子供みたいな真似をするなんて、人として未熟な証拠だ!』
『……ざけんな……』
胸倉を掴む父親の手首に爪を立て、引き剥がそうと力を込める。父さんは痛みに顔をしかめながら、『なに?』と眉を寄せた。
『ふざんなって言ったんだよ! 居場所を取られたくなくて、注目引きで自分の手にボールペン刺すやつのほうがどうかしてるだろ!』
やっぱり、俺たちは家族にはなれない。見かけだけ繋がっているように見えても、注目を引かなければ愛情を感じられない、物を使ってでしか愛を与えられない時点で、家族として壊れている。
聖也が俺に怪我をさせられたとホラを吹くのは、これが初めてではない。聖也の行き過ぎた愛情確認に巻き込まれているのはこっちだ。でも、父親は一度たりとも俺の話を信じてくれることはなかった。
俺が孤独だったのは、家だけではない。
『おい青砥! 廊下に吸い殻が落ちてたぞ、お前だろ!』
廊下を歩いていると、後ろから中年の男──生徒指導の教師が追いかけてくる。面倒に思いつつも足を止めれば、タバコの吸い殻を物凄い剣幕で俺の前に突きつけた。
『いつもいつも、お前は面倒事ばかり起こすな。この間も他校の生徒が乗り込んできて、喧嘩しただろ。おかげで学校の窓ガラスが何枚割れたと思っている!』
あれは喧嘩を起こした挙句、報復を恐れたどこかの馬鹿がリーダーは俺だと勝手に名前を出したせいだ。身に覚えのない報復に巻き込まれた俺の気持ちにもなってほしい。
俺の素行の悪さから、こうして身に覚えのない暴力事件や盗難まで俺のせいにされ、警察を呼ばれることもしばしばあった。昨日も俺がやったという証拠なんてなにもないくせに、トイレに置かれていた酒の缶を持ってくるや、飲酒は法律違反だと生徒指導室に強制連行された。
両親も本当にやったのか話を聞く気もなく、俺ならやりかねないと謝罪する始末。愛情の欠乏や愛されない自分への劣等感のせいか、俺はどんどん人を信用できなくなっていった。胸にぽっかり空いた穴を埋めるようにして非行に走り、ますます周囲からの信頼も失っていく悪循環。
今思えば、この問題行動のすべてが愛情確認のひとつだったのかもしれない。聖也がしているように、自分を傷つけて貶めることで、俺を見てほしいと父親にアピールしていたのだ。
不良の道を歩むようになって、気づけば中学一年生の夏休みがやってきた。家にいたくなかった俺は、昼間の土手沿いをあてもなく歩く。
『あちぃな……』
ティーシャツの胸元をパタパタと扇ぎながらアイスをかじっていると、土手で『ポメーっ』と叫んでいる女を見つけた。その顔には見覚えがあった。確か、同じクラスの三葉陽菜だ。
三葉陽菜は男女関係なく、人に囲まれている。惜しみない愛情を注がれて生きてきたんだろう。俺とは違って、日の下を歩いていける人間だと思った。
『ポメーっ』
叫びながら土手を上がってくる三葉陽菜と鉢合わせた俺は、『ポメ?』と首を傾げる。三葉陽菜は息を切らしつつ、俺を見てびくっと肩を震わせた。
『あ、青砥くん……』
三葉陽菜の青い顔を見れば、ろくでもない俺の噂を信じているのは明白だった。その横をすり抜けようとしたとき、大量の汗が滲んでいる三葉陽菜の細い首筋が目に入る。
こいつ、この炎天下の中にどんだけいたんだ? 熱中症で死ぬんじゃね?
そう思ったら、見殺しにするのは後味が悪い。三葉陽菜を少し追い抜いたところで足を止めた俺は、ため息をついた。後頭部をガシガシと搔きながら、面倒とは思いつつも振り返る。
『おい。なんだ、その……ポメって』
声をかけただけで、三葉陽菜はびくびくしていた。
やっぱり、話しかけるんじゃなかったな。こういう反応が返ってくるのは、想定していたはずだ。それなのに、どうして声なんかかけちまったんだ、俺は……。
自分の行動を後悔していると、三葉陽菜は消え入りそうな声で『……なく、なっちゃったの……』と呟く。
聞き取れず『あ?』と聞き返せば、三葉陽菜は今にも泣き出しそうな顔になった。
『いなくなっちゃったの……ポメ』
『だから、そのポメってなに?』
『……っ、家族です。飼い犬のポメが……っ、いなくなっちゃったんです』
三葉陽菜は言葉を詰まらせながらそう言い、祈るように両手を握り締めた。だが、俺には他人のためにそこまで必死になれる三葉陽菜が理解できなかった。
『飼い犬がいなくなったくらいで、よくそんなに落ち込めるな』
なんてことなしに放った言葉に、三葉陽菜は声を震わせながら『飼い犬がいなくなったくらいで……?』と呟く。
そして、クラスで見せている温厚そうな表情から一変して、俺を鋭く睨みつけてきた。
『家族がいなくなったんです。心配するのは当然でしょう⁉』
ああ、こういうところなんだろうな。俺と彼女の違いは……。愛情を貰えない子供は、他人を愛せないんだ、きっと。
俺は冷たい人間なんだろう。ぽたぽたと涙をこぼす三葉陽菜を見ていると、心底そう思い知らされる。
なにかを大切に想う心なんて、わかりたくない。なにかを失うときの喪失感ほど、痛いものはない。それなら大切だと思わなければいい。こんな繋がりに縋るなんてと、冷めた目で見ているふりをすれば楽だ。
『あの子、昨日の雷に驚いて、窓を開けたときに飛び出して行っちゃったの。事故に遭ってたらどうしよう、お腹を空かせながら、『うちに帰りたいよう』って鳴いてるかもしれない。家族なら、迎えに行ってあげなきゃって、そう思うのが普通だと……私は思う』
心の奥まで強く射抜くような眼差しで、三葉陽菜は言い切った。それから丁寧にお辞儀をして、走り去っていく。
『昨日……? あいつ、昨日からそのポメとかいう愛犬を探してるのか?』
三葉陽菜の『家族なら、迎えに行ってあげなきゃって、そう思うのが普通だと……私は思う』という言葉が胸に突き刺さっていた。愛を語る彼女のまっすぐな瞳が瞼の裏に焼きついていた。
俺は前髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、『ああ、もう!』と苛立ちを込めて叫ぶ。自分でもどうかしていると思ったが、気づけば三葉陽菜の愛犬を探しに駆け出していた。
俺はなんで、ただのクラスメイトのためだけに走ってる。真夏の炎天下の中で、汗をびっしょりかきながら、なんで持ってたはずのアイスの行方もわからなくなるくらい全力になってんだ。
自分で自分の気持ちがわからない。でも、今走らないと行けない気がした。そうしなければ俺は、大事ななにかを永遠に失ってしまうような、そんな気がした。
『おい、ばあさん。ポメ──じゃねえ、迷子になってるポメラニアン、見てねえか?』
顔馴染みのばあさんがやっているタバコ屋に顔を出す。ここは未成年の俺にタバコを売ってくれる唯一の店だ。まあ、売ってくれるといっても、八十歳になるばあさんは目が悪くて、私服の俺を成人した男だと勘違いしているだけなのだが。
『ポメ……なんだって?』
何度『ポメラニアン』だと答えても、耳が遠いばあさんは繰り返し聞き返してくる。さすがに焦れていると、ばあさんがふいに自分の足元に視線を落とし、頬を緩めた。
『おお、来たか。昨日、腹減ってたみたいでね、裏口から勝手に入って来たんだよ』
わけのわからないことを言って、いよいよボケたのかと思っていると、ばあさんは一匹の小型犬を抱き上げた。
つぶらな瞳にクリームとホワイトが混じった毛色。犬に詳しくない俺でもわかる、こいつはポメラニアンだ。
『なあ、ばあさん。それ……』
『迷子みたいだねえ。この辺ふらふらしてたんだよ』
『ばあさん、たぶんそれ……あー、ポメ。探してるやついるから、ちょっと預かっていいか?』
『そうかい、そうかい。じゃあ、飼い主さんのところに帰しておやりね』
窓口からポメラニアンを受け取った俺は、再び走りだそうとして、肝心なことを失念していたことに気づいた。
『やべ、俺……あいつの家、知らねえじゃん』
アホだな!とツッコミを入れるように、ポメが『ワンッ』とひと鳴きする。ポメと見つめ合った俺は途方に暮れ、仕方なく三葉陽菜と会った土手に戻ることにした。
***
『え、ポメ⁉』
土手に座って、ポメと夕日が乱反射する川を眺めているときだった。後ろで声がして振り向くと、三葉陽菜が目を丸くして立っていた。
『あ……こいつ、タバコ屋のばあさんのとこにいた』
腰を上げて、目を逸らしながら三葉陽菜に近づき、ポメを押しつける。三葉陽菜はポメを抱きしめ、頬擦りをしながら涙を浮かべていた。
『ポメ! よかった……っ、本当によかった……っ』
喜んでいる彼女を見ていたら、不思議な感覚に襲われる。空っぽの胸に、温もりを注ぎ込まれるような感覚。それが不思議と心地よかった。
『もしかして……探して……くれたの? ポメのこと……』
三葉陽菜はポメを大切に抱えながら、驚きを隠せない様子で俺を見上げた。
『俺には……迎えに来てくれる家族なんかいねえ。だから……お前の『家族なら、迎えに行ってあげなきゃ』っていう普通の感覚っつうのが……よくわかんなくて……傷つけたなら、謝る。悪かった』
ばつが悪いとはこのことだ。正面切って謝るなんて、小学生以来だ。苦虫を嚙み潰したような気分でいる俺に、三葉陽菜は一歩近づいてくる。
『青砥様、このたびは私奴(わたくしめ)を助けて下さり、誠に感謝いたしまする。ワンワンッ』
ポメの手をひょいひょい動かして、なぜか吹き替えをする三葉陽菜に、俺は唖然とする。三葉陽菜の行動は斜め上を行き過ぎて読めないうえに、まったくもって理解できなかった。
『はは、固まってる。青砥くん、いつもムスッとしてるけど、そういう気の抜けた顔もできるんだね』
パッと輝かんばかりの笑みを浮かべた三葉陽菜に目を奪われる。世の中の汚さを知らない、無垢で綺麗な瞳に心が洗われていくようだった。
『私の家族を見つけてくれて、本当にありがとう。青砥くんは、私とポメのヒーローだよ』
『別に……ついでだから。大げさ』
なんのついでだと自分でツッコミたくなったが、彼女に『ありがとう』と言われた瞬間、また胸がじんわりと温かくなった。
でも、どうせこれっきりだ。こいつも時間が経てば今日のことなんて忘れて、学校のやつらと同じように俺を遠巻きに見るようになる。そうやって人間は、一緒に重ねた思い出も簡単に捨てられる。男を作って出て行った母親や新しい家族の機嫌取りに必死な父親のように。
そう思ったら急に白けてきて、俺はその場を立ち去ろうとした。すると、歩き出した俺の背中に、彼女の声がかかる。
『また、学校で!』
驚いて振り返れば、三葉陽菜が満面の笑みで手を振っている。この日、日陰ばかりを歩いてきた俺の人生に突然、彼女という太陽が現れたのだ。
夏休みが明け、二学期が始まった。
『青砥くん、ちょっといいかな?』
移動教室の途中、外の渡り廊下を歩いているときだった。三葉陽菜が同じグループの友人たちに『先に行ってて』と言い、うれしそうに追いかけてくる。
『ここ、学校だぞ』
『だから?』
きょとんとしている三葉陽菜に、本気でわからないのか?と愕然とした。
『周りの目、気にならねえのか? 俺と話してると、お前も不良の仲間だと思われるぞ』
『えー、それはたぶん無理があるよ。私、喧嘩で勝てる自信ないし』
『……そこなのか?』
三葉陽菜は一般的な感覚と少しずれている気がする。普通の人の考え方や価値観が通用しない。
『それに、この顔でタバコとか飲酒とかしてたら、猫かぶりにもほどがあるって。だから、大丈夫!』
自分の顔を指さして、にこにこしている彼女に重ねて愕然とする。なにが大丈夫なんだ……。
『この間、ポメを助けてくれたでしょう? そのお礼がしたくて』
『だから、あれはついでだって……』
『それでも、ポメが帰ってきたのは青砥くんのおかげだよ。だから……はい、これ』
三葉陽菜はスカートのポケットからなにかを取り出し、俺の手に握らせる。指を開いて確認すると、フェルトでできた不格好なポメラニアンのマスコットだった。しかも、顔が大層いかつい。
『青砥くん、オラオラ系でしょ? だから、せめて可愛いものを持ってたら、怖さも半減すると思う!』
『いや、このポメ子も負けないくらいメンチ切ってるけどな』
『ポメ子?』
目をぱちくりさせる彼女に、俺は自分の失言に気づいた。
『あ……勢いで、つい……』
変なあだ名をつけてしまった恥ずかしさに顔が熱くなる。すると彼女は、からからと転がるように笑った。
『可愛い! これから私も、その子をポメ子と呼ぶことにしましょう』
彼女の笑みと顔のいかついポメ子に、俺は『ぷっ』と吹きだす。
『変なやつだな』
何年ぶりか、素で笑った。胸の中のモヤモヤが一気に吹き飛ぶような、スッキリした気分だった。
『笑った……青砥くんが笑った!』
『サイボーグじゃねえんだから……俺だって笑う』
でも、三葉陽菜というきっかけがなければ、俺が笑うことはなかっただろう。
いつの間にか、自分を強く見せるための威圧的な態度が標準装備になっていた。そうしなければ、俺の居場所を奪おうとする聖也や義母、そして父親から今以上に目の敵にされる。自分を守るために身につけた頑丈な鎧。それを三葉陽菜は、いとも簡単に脱がせてしまったのだ。
『でも、初めて見たから。そうして笑ってたら、青砥くんの周りには人がたくさん集まって来るのに』
他人のことで、どうしてここまで喜べるのか。俺は誰かに干渉されるのは鬱陶しいし、居場所を守るためにつるむ連中に胸糞悪さを感じていた。だが、三葉陽菜の少し強引な優しさは不思議と居心地がよかった。
この日を境に、俺たちはよく話すようになった。というより、彼女が俺を見つけるなり、ところ構わず喋りかけてくるのだ。
初めはなにが目的で自分に近づいてくるんだ?と、彼女のことを警戒したりもしたが、気づけばお互いを下の名前で呼び合うまでになっていた。
『夜尋くん、なんか柔らかくなったよね』
放課後、花の水やり当番になってしまった陽菜に無理やり手伝わされて、花壇に来ていた。ふたりでしゃがみ込んで、ジョウロを傾けながら、陽菜は藪(やぶ)から棒にそう言った。俺は『そうか?』ととぼけたあとで、苦笑する。
『……今の嘘。俺んち、父親が再婚してんだよ。そんで義理の母親と弟ができたんだけど、そのふたりにとって俺は邪魔者で……まあ、嫌がらせされてる』
『さしずめ、意地悪な継母と息子にイジメられてる夜尋シンデレラってとこ?』
『夜尋シンデレラ言うな。その例えはどうかと思うぞ』
話すようになってから一か月くらいしか経っていないが、陽菜の性格はわかってきたつもりだ。陽菜は自然に相手が話しやすいような空気を作る。ときには愛犬がいなくなったときのようにまっすぐぶつかってくるし、ときには明るくふざけて相手の口を軽くしてくれる。そういう気遣いが自然にできる彼女を俺は尊敬していた。
『義理の母親は弟には愛情をたっぷり注いで、金をかけて教育もしっかり受けさせてる。けど俺には『高校は好きなところに行け、でも大学は行くな』……だと』
『お父さんも……同じ考えなの?』
『ああ。『弟ができたから、俺にかける金はもうない』って、そうはっきり言われた。家族ってほんと、なんなんだろうな』
重たい沈黙が下り、俺は空気を変えるように空を仰いだ。
『まあ、家族なんかいなくても、高校入ったらバイトするし、すぐにでも家を出て、ひとりで生きていってやるよ』
『……そうだね。夜尋くんが結婚すれば、新しい家族ができるんだし、うんと幸せになって、お父さんたちを見返してやろう!』
陽菜は強く頷き、自分のことのように意気込んでいる。
結婚すれば、新しい家族ができる。前向きな陽菜にしかできない考え方だと思った。俺の俯きがちの気持ちは、いつも彼女に引っ張られるようにして上を向くのだ。
『ねえ、夜尋くん。これ、あげる』
突然、藤色の小花が集まった房状の花を差し出してくる。
『おい、花を手折るな。かわいそうだろ』
貰った手前、花を受け取ると、陽菜はきょとんとしたあとにクスクス笑い出した。
『飼い犬がいなくなったくらいで、よくそんなに落ち込めるな』
低い声で、どこかで聞いたことのあるセリフを吐いた陽菜は『ぶはっ』と吹きだす。なんなんだこいつは、と心底思う。
『それ、俺の真似か? 似てねえし、つか笑うな』
目の前の生意気な唇を指で摘んで塞げば、陽菜は『んーっ』と抗議する。早々に離してやれば、陽菜はわざとらしく不貞腐れた顔をした。
『もう、乱暴だな。この花、落ちてたやつだから手折ってませんよ。それより夜尋、本当に変わったね。『花がかわいそう』なんて、『飼い犬がいなくなったくらいで発言』してた人とは思えないですよ』
『うるせー』
『ふふっ、もともと優しい人だったんだろうけど、もっともっと優しくなったね』
『俺が変わったんなら、間違いなくお前の影響だな。そんで、なんで花を俺に?』
そう尋ねれば、陽菜は『んー』と宙を見つめて思考を巡らせている様子だった。やがて、閃いたとばかりに俺のほうを向く。
『頑張れって、エールを込めて!』
『軽いな……そこは花言葉のひとつくらい添えて贈れよ』
『花言葉か……』
そばに置いてあったスクールバックからスマホを取り出し、陽菜はなにやら調べ始めた。その動きがぴたりと止まったかと思えば、静かに呟く。
『あなたを見守る……』
その口から唐突に飛び出した言葉に、俺は首を傾げた。すると陽菜は花を持つ俺の手を握り、はにかむ。
『デュランタの花言葉。あなたを見守る、だって。いい言葉だね、私が夜尋くんに贈りたい想いにぴったりだ』
陽菜の言葉はまっすぐに心に届く。俺を優しい人間に変えてくれたのは、彼女が向けてくれる下心や社交辞令が一切混じっていない純粋な想いだ。
『夜尋くん、覚えててね。どんなに真っ暗な世界の中でも、私はきっとあなたを見つけて、幸せになるために頑張るあなたを見守ってる。離れていても、遠くにいても、ひとりじゃないよ』
『……なんで、そこまで俺のこと気にかけてくれんの?』
その理由が俺と同じ気持ちなら、頑張るまでもなく、すぐに幸せになれるのに。
期待と不安が胸に同居している。陽菜は頬を微かに赤く染め、目を伏せる。その反応に初めて、胸がくすぐったくなるような感覚を覚えた。
***
心躍りながら、この家に帰ってきたのは、いつぶりだろうか。
『最近、まっすぐ家に帰ってきてるみたいだな』
ドアを開けてすぐ、会社が休みだったのか、父親と鉢合わせた。
いつもなら日付が変わるまで外をふらついているのだが、近頃その必要性を感じなくなっていた。新学期に入ってからほとんど毎日陽菜と話しているせいか、それだけで心が満たされて、手に入らない愛情や居場所を探すように、あてもなく彷徨う必要がなくなったのかもしれない。
『……飯は食ったのか?』
また、息子の心配をしてるふりか。てめえの気まぐれに付き合うほど暇じゃねえんだよ、と喉まで出かかったが、なぜかこんなときに陽菜の顔が浮かんで口を閉じる。陽菜なら、こう言うんだろう。
『家族なら、心配して当然でしょ!』
それは普通の家庭だけだろ、とも思うが、なぜか彼女の言葉には耳を傾けてしまう。
世界を冷めた目で見てしまう俺には、世界の端っこで地味に生きてる俺を見つけて、お節介にも見守ってしまう優しい陽菜の目が必要だった。きっと、陽菜の世界の見方こそ正しいのだと思う。
『いや、まだだけど……』
『それなら早く食べろ。冷蔵庫の作り置きばっか食べてるんじゃ、味気ないだろ』
そう言って、先にリビングに入っていく父親のあとを追う。出来上がったばかりの食事がテーブルに並んでおり、それを盆に乗せたものを義母が『はい、これ』と渡してくる。
いつものように部屋で食べろという意味なのだろう。今までの俺なら、『こんなのいらねえよ』くらい言っていただろう。でも、陽菜なら……自分を傷つけた相手であっても、感謝の気持ちは忘れない。それは単にいい人だからというわけではなく、自分が正しいと思うことを貫いている。そういう人間に、俺もなりたいと思った。
『……ありがとう』
礼を言えば、義母はぎょっとした顔をした。動揺したように視線を外し、『足りなかったら……言いなさいよ』と、珍しく罵倒以外の言葉を返してくる。
テーブル席に座っていた聖也もその変化に驚いたように、義母と俺を交互に見ていた。
相手を理解するために、陽菜は図々しいくらい相手に突っ込んでいく。それで気づいたら、寄り添っている。今の俺に足りないのは、人に踏み込む勇気なのかもしれない。
『最近は喧嘩もしていないようだな』
盆を手に部屋に戻ろうとすると、背中に父親の声がかかる。ぴたりと足を止めれば、父親は『あんまし、怪我を作るなよ』と続けた。
心配してくれたのかもしれないなんて、陽菜の影響を受けた俺の思考は以前に比べて遥かに前向きだった。
***
陽菜だったらどうするのか、陽菜だったらどう考えるかを頭の中で思い描いて人に接しているうちに、俺は少しずつだが父親や義母と自然に接することができるようになっていた。
今までは俺の話なんて聞く耳持たないと言う感じだったのだが、料理の味付けや学校生活の話……会話のキャッチボールが成り立つようになっていったのだ。
家にいるのが少しだけ苦痛じゃなくなくなった矢先のことだった。部屋に戻ってきた俺は、目に飛び込んできた光景に絶句する。
『なんでだよ……』
床に叩きつけられたのか、父親から誕生日に貰ったヘッドホンが壊されていた。無残な姿になったそれを持ち上げ、すぐに犯人の顔が頭に浮かぶ。
『今さら義父さんと母さんと家族になれるとか、思ってるんじゃないよね?』
後ろで声がして振り返れば、戸口に寄りかかるようにして聖也が立っていた。腕を組み、冷ややかにこちらを見下ろしている。
『ふたりとも、兄さんのことなんて同居人くらいにしか思ってないよ。なのに、まっすぐ家に帰ってきたり、作ってもらった料理にお礼を言ってみたり、お利口さんになっちゃって。夢見るのも大概にしたら?』
『うるせえよ。そこまでして、俺を追い出したいのかよ』
怒りでヘッドホンを持つ手が震える。そんな俺に気づいていながら、火に油を注ぐように、聖也は机の上にある俺のスマホを持ち上げた。
『なにこれ? 兄さん、こんなかわいいマスコットつける趣味あったっけ?』
俺の問いを総無視して、マスコットを指でつつく聖也。ふと、画面を見て怪訝そうな表情をした。
『触んじゃねえよ』
俺は陽菜がくれたものまで壊されたらたまったもんじゃないと、それだけが気がかりで、聖也からスマホを奪い返す。
『痛いなあ……まあ、いいや』
聖也は意味深に笑って部屋を出て行く。いつもなら、ここで『兄さんに叩かれた』だのと騒いでいるはずなのだが、あっさり引き下がった聖也に胸騒ぎがした。
***
ある日、下校時刻になり、校門までやってくると、目の前に陽菜がつるんでいるグループの女子たちがいた。
だが、なぜかそこに友達とカラオケに行くと言っていた陽菜の姿がない。不思議に思った俺は女子に近づき、声をかける。
『なあ、陽菜は一緒じゃないのか?』
俺に話しかけられた女子たちはびくりとしながら、お互いに顔を見合わせ、おずおずと話し出す。
『カラオケに行くはずだったんだけど、なんか小学生の男の子に話しかけられたあと、そのままどっかに行っちゃった』
『その子、陽菜のこと待ってたみたいだったよね』
〝小学生〟の単語に、背筋に寒気が走った。
『その小学生と陽菜、どっちの方角に行ったかわかるか?』
『え、この道をまっすぐ歩いて行ったと思うけど……』
俺の剣幕に圧倒されつつも、女子のひとりが道を指さす。俺は『ありがとう』とだけ言い、その場を駆け出した。
まさか、あいつじゃないよな?
嫌な予感が胸をよぎったとき、スマホが震えた。俺は肩で息をしながら足を止め、ポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを確認する。
【橋からの眺め最高。兄さんも早く来て】
そのメッセージとともに、陽菜とのツーショット写真が送られてくる。その瞬間、血の気が一気に引いていった。
あいつは、俺の大事なものを壊したがる。それは物であっても、人であっても構わずだ。
『陽菜……っ』
俯きながら震える声で名前を呼び、スマホが軋むほど強く握りしめた。
『……っ、許さねえ。もし、陽菜になにかあったら……っ』
顔を上げ、俺はキッとふたりが歩いただろう道の先を睨みつける。
『──殺してやる』
自分が傷つけられるなら、まだ我慢できる。でも、陽菜だけは──俺が世界で見つけた、たったひとつの光を奪うことだけは許さない。
生まれて初めて、俺は胸が焼けそうなほどの怒りを抱いた。それと同時に気づいた。俺にとって陽菜は特別で、自分以上に大切なのだと。
写真に映っていた場所に覚えがあった俺は、歯を食いしばって地面を蹴った。風に溶けてしまいそうなくらい早く、どうか間に合ってくれと走る。
『──陽菜!』
川にかかるコンクリートの橋までやってくると、陽菜の姿を見つけて、思いっきり叫んだ。陽菜は弾かれたように振り返り、不安と安堵の両方が混ざったような顔で『夜尋くん!』と俺の名を呼ぶ。
『陽菜っ、怪我は⁉』
彼女の前まで辿り着くと、その頬や腕に触れて、真っ先に安全を確認する。陽菜は『大丈夫』と答えながらも、浮かない顔をしていた。
『ひどいな、兄さん。僕と陽菜さんが一緒にいると、どうして怪我の確認がひつようになるの?』
俺たちの様子を見ていた聖也が心外だというような顔をする。俺は陽菜を後ろに下がらせると、聖也に真っ向から対峙した。
『お前の演技にはうんざりだ。陽菜を巻き込んだのも、俺への当てつけだろ。まどろっこしい手ばっかり使いやがって、いい加減、直接ぶつかってきたらどうなんだよ!』
『はあ? 嫌だよ、面倒くさい。僕は兄さんみたいに、拳で語り合おう的なキャラじゃないんだよ。そんなの頭の悪いやつがすることでしょ』
俺も自分を冷めていると思っていたが、それ以上に聖也は冷酷だ。小学生とは思えないほど、人の痛みに鈍感で、自分の痛みにだけ敏感。目的を果たすためなら、こうして別の人間も巻き込む狂気さを内に飼っている。だからこそ、陽菜を近づけたくなかった。
『僕から家族を奪おうとする兄さんも目障りだけど、そうなったのって陽菜さんの影響でしょ?』
聖也の敵意が自分に向いたのを感じたのか、陽菜が震える。俺は聖也の視線を遮るように、陽菜を背に庇った。
『兄さん、ちょっと前までひとりで生きていってやるって感じの影があったのに、最近なんか丸くなって、変なキーホルダーまでつけ始めちゃってさ。それでピンときたんだよね、女でもできたのかなって』
『陽菜はそういうんじゃねえ。勘違いすんな』
こんなふうに陽菜を巻き込む前の俺なら、いつかこの恋心を伝えて、特別な関係になれたらとも考えただろう。
でも、きっと彼女とは結ばれてはいけない。俺が大事に思うものを片っ端から壊そうとするこいつの存在がある限り。
『そうやって庇ってるのがなによりの証拠じゃん。ねえ、その女になに吹き込まれたかは知らないけど、ちょっといい子になったくらいで義父さんと母さんを独り占めしようとか、無理だから』
『だから、そういうんじゃねえって言ってんだろ!』
怒鳴る俺の腕を陽菜が掴む。後ろを振り向けば、陽菜は心配そうに眉を下げていて、噴火しかけた怒りがわずかに鎮まった。
『ムキになるところが怪しいんだよ。だからさー、そこの女も目障り。ふたりまとめて……消えてよ』
声のトーンが下がり、聖也の中の狂気が大きく膨れ上がったように見えた。
『僕さ、実の父親から母さんの愛を奪ったとか、母さんに色目使ってるとか、罵られて育ったんだよね。そんで父さんは母さんに愛想尽かされて、捨てられた。兄さんの父親が母さんを略奪したってわけ。世の中は弱肉強食っていうけど、全くその通りだよね』
『お前、なに言って……』
『愛は奪うものなんだよってこと。僕は十二歳にして、それに気づいたんだ』
俺の言葉を遮り、言い切った聖也に『それは違うよ』と反論する声があった。陽菜だ。さっきまで震えていたのが噓みたいに、彼女は意を決したように一歩前に出る。
『愛は奪ったり、強制できるものじゃないと思う。誰かを慈しむ無償の想いを言うんだよ。自分が大切にしたいって想っても、必ずその想いが返ってくるわけじゃない。それでも、消えない愛おしむ気持ちのことを言うんだよ!』
幸せな家庭で育ったからこそ、生まれる価値観。初めはそんなの綺麗事だと苛ついたりもしたが、陽菜のそばには本当に、愛が自然にあったのだ。だから陽菜は人を信じることを恐れないし、誰かに愛を分け与えることができる。自分もそうなりたいと、彼女の隣にいる人間は焦がれる。──俺のように。
『そんなの、当たり前に愛された人間の価値観だろ! 生まれたときから無償の愛を知らない僕には、一生理解できない感覚だよ!』
感情的に叫んだ聖也が陽菜に向かって走っていく。
彼女の無垢さに焦がれるだけで済めばいいのだが、羨むあまり踏みにじり、貶めてやろうと思う人間もいる。──聖也のように。
『聖也、やめろ!』
止める前に、聖也が陽菜の上に馬乗りになる。すぐに引き剥がそうと近づいた俺に、聖也は『動くな!』と怒鳴った。
『来たら、このまま絞め殺す。ううん、首の骨を折って、壊してやる』
聖也の手が陽菜の首を絞め上げるのが見えて、俺は地面に膝をつき、悲鳴に近い声で『わかったから、やめてくれ!』と懇願した。
そのとき、陽菜は聖也の手首を掴む。
『自分を、愛してほしいって……っ、思う……家族の中、に……っ、夜尋くんは……いないの?』
『陽菜……こんなときに、なに言ってんだよ』
なんで、こんなときまで聖也を説得しようとするんだ。
『あなたの……っ、大切にする、は……ただの独占欲……だよっ……愛を、奪われたくなくて……奪って、も……ずっと孤独の……まま……。愛されていると、思えないから……ずっと、飢えて……るん、でしょう……?』
図星を指された怒りだろう。逆上した聖也は、思いっきり陽菜の顔を殴りつけた。それも、何度も何度も力の限り。どこっと鈍い音がして、聖也の拳が陽菜の血で赤く染まった。
その迷いのない暴力に、聖也の狂気に、大切な人が傷ついたという事実に、俺の思考は停止して、とっさに動けなかった。
陽菜がごふっと血を吐き出して初めて、はっと我に返る。
『なに……してんだよ……なにしてんだよ……!』
そこからは、記憶がなかった。かろうじて繋がっていた理性の糸が切れたということだけは、頭の隅のほうでわかっていた。
気づけば俺が聖也に馬乗りになって、その顔を一心不乱に殴りつけていた。
『なんでお前はっ、いつもいつも俺の大事なもんばっかり壊すんだよ! なんでお前はっ、俺の前に現れた!』
激怒する俺を嘲笑うように、口端を上げている聖也に、さらに殺意がわいた。大切なものを守るために手段を選ばないという意味では、俺も聖也も同じ人種なのかもしれない。
『この人殺しが!』
癇癪を起こした子供のように、ボコボコに弟を殴りつける俺を陽菜が『やめて!』と止めに入る。
それを見た通行人が通報したのか、サイレンとともにやってきたパトカーから警官がふたり降りてきた。陽菜は俺を庇うように立ち、迫りくる警官たちに向かって『違うの!』と叫んだ。
『はは、は……なにが……違うんだ、よ……僕の顔、こんなにボコボコにしておいて……』
聖也は口の中に溜まった血を吐き出し、赤く染まった白い歯を見せながら、おかしそうに笑う。
『あなたがしたことを私が警察に話す!』
『なら……あんたの大事なものを……全部壊す』
もう、狂気の沙汰としか思えなかった。陽菜も聖也の異様さに言葉を失っている。そこへ警官たちが到着し、俺を聖也の上から引きずり下ろした。
『やめて! 夜尋くんは悪くないの!』
地面に腹這いになるように、俺を強く押さえつける警官たちに陽菜が掴みかかる。警官のひとりは陽菜の肩を掴んで、やんわりと引き離した。
『ここは私たちに任せて、きみ早くも手当てを受けないと』
『そうじゃないの! もともと、その子が私を──』
陽菜がそう言いかけたとき、聖也が急に『うわあああんっ』と泣き出した。両手の甲で涙を拭ったあと、陽菜の血がついた指で俺を指さす。
『お、お兄ちゃんが、僕を殺そうとした……っ、怖いよおおおっ』
泣いている小学生と、見るからにガラの悪い中学生。世間がどちらの言葉を信じるかなど、考えるまでもなかった。
『離せ! そいつの言ってることは全部、嘘だ!』
暴れて抵抗するが、中学生が警官の力に叶うわけがない。『暴れるな!』と怒号が飛んでくると、カチャリと手錠をかけられた。
『午後五時一分、傷害罪で現行犯逮捕!』
我を忘れて、聖也を殴ったのは間違いない。人殺しは誰の目から見ても、俺だった。聖也の顔は血だらけで目も赤く腫れているが、痛みなど感じていないのか、逮捕された俺を見て笑っている。
『違うの! 夜尋くんはなんの理由もなしに、人を傷つけたりしない!』
『どんな理由があったとしても、小学生ができることなんて、せいぜいイタズラ程度でしょう。それにカッとなって手を上げるなんて、あってはならないことなんだよ』
陽菜が警官たちに訴えても、相手が小学生というだけで、聞く耳すら持ってもらえない。俺と聖也はひとつしか歳が変わらないというのに、小学生と中学生の違いだけで、こんなにも風当たりが強くなることを思い知った。
『ごめんっ、ごめんねっ、私がこんなところまで、のこのこついてきちゃったから……!』
パトカーのほうに連れていかれる陽菜は、しばらく夢に見そうなほど青い顔をしていた。絶望がうつろう瞳から涙を流し、何度も謝り嘆いて、ついに泣き崩れる。
──絶望なんて似合わない人なのに。いつだって太陽を仰ぐ花のような人なのに。俺があんなふうに萎れさせたのか……。
自責の念というナイフで、自ら心を切りつけているに違いない。こうして逮捕された俺にできることなんて、これしかないけれど──。
『お前は悪くない……っ、俺のほうこそ巻き込んで……っ、ごめんな……っ』
自分を責める陽菜を思うと胸が痛み、涙がこぼれる。自分のことで泣いたことなどないのに、陽菜のことは我慢できなかった。
俺はできるだけ陽菜が気にしないようにと、笑う。それでも陽菜は声をあげて、ただひたすらに泣いていた。
***
どこまでが聖也の思惑通りだったのだろうか。すべて仕組んでいたことだったとしたら、聖也のほうこそ壊れている。
『それでは処分を言い渡します。きみを少年院送致(そうち)とします』
非公開の少年審判を受けた俺に、判決が言い渡された。両サイドに座っている父親と義母、後ろの席に座っている教師の誰もが、裁判官からの質問で俺を擁護する言葉を発しなかった。
『今回の事件で、まだ小学生であった被害者が兄であるきみから受けた苦痛は甚大(じんだい)と言えます。家族や先生、周りの人の供述からも、きみは些細な言動を被害的に受け取り、否定的な感情に強く囚われる傾向がある。それは感情を整理できず、攻撃的な思考になることに基づく非行といえます。よって、少年院で社会適応能力を育む必要がある』
呆れて、怒りすらもわかなかった。嘲るように『はっ』と笑うと、両隣に座っている父親と義母が『なんてやつだ』『まったく、事の重大さをわかってないのね』と俺を責める。
ここにいるやつらの意見はこうだ。俺は頻繁に校内や家庭で暴力事件を起こしていて、学校や家庭でも問題視されていた。事件当日、俺は弟がふざけて彼女である陽菜の首に手をかけたのを見て逆上。弟の顔面を感情に任せて、右手の拳で複数回に渡り殴打(おうだ)。それを見た住人が警察に通報し、俺は傷害罪の疑いで逮捕された。
聖也が俺に対して、なにをしていたのかも知らないで、誰よりも被害者である陽菜の言葉も聞かないで、みんなが聖也をかわいそうな小学生ともてはやして守ろうとする。それが聖也の目的だってことに気づかない。手のひらで踊らされているのにも関わらず、真実を見ようともしない大人たちには、ほとほと失望する。
『弟の聖也くんは鼻骨を骨折し、全治三カ月の怪我を負っています。殺意がなかったとしても、弟の行動に一方的に腹を立て、手を上げた今回の事件は極めて悪質で結果も重いですが、その罪と真摯に向き合い、被害者や家族がどれほどつらい思いをするのかを考えてください』
確かに、いかなる理由があったとしても、感情的に手を上げるのは間違っている。でも、俺の罪は聖也を傷つけたことじゃない。陽菜を巻き込み、その心に傷を負わせたことだ。
こうして家庭環境や学校生活に問題があり、再非行の危険性が高いと判断された俺は、少年院送致となった。
少年院に入っている間、聖也が面会に来た。
『兄さん、こんなところに入れられてかわいそう』
職員の手前、いかにも兄の処遇に悲しんでいるふうを装っているが、口元は笑っている。俺は椅子の背もたれに寄りかかったまま、聖也を睨みつけた。
『心にもないことを、よくペラペラ喋れるな。それで、噓をついて手に入れた居場所はどうだ? 居心地がいいか? 虚しくないか?』
鼻で笑えば、聖也は癇に障ったのか、すっと表情を消す。
『……っ、今日は兄さんに陽菜さんの話をしてあげようと思ったのに』
俺が陽菜のことになると過敏に反応するとわかっていて、あえて話題を持ち出すところが憎らしく、頭がどうにかなりそうだった。
『陽菜になんかしたのか!』
がんっと面会室のアクリル板を殴れば、付き添いの職員から『やめなさい! 次やったら、退出ですよ!』という声が飛んでくる。
俺はふうっと深く息を吐き、ひとまず話を聞こうと気を鎮める。
『兄さん、僕は兄さんと話がしたくてきたんだ。お願いだから、怒らないで』
聖也はまた、演技で職員の同情を買おうとする。息をするみたいに、誰かの目を引かずにはいられない病気なのだ。
『兄さんが少年院に入っている間に、不運な事故があったんだって。陽菜さんは体調が悪くて、ふらふら道路に飛び出して、車に轢かれたみたい』
『な……っ、体調が悪いからって、道路に飛び出すわけがないだろ。お前、まさか……』
突き飛ばしたのか?と尋ねる前に、聖也が首を横に振りながら話すなと手で制する。
『まだ続きがあるんだ。その事故で負った頭部外傷で、事故以前の記憶がごっそりないんだって。だから、兄さんのことも覚えてないんだよ。かわいそうだね、兄さん』
『俺の居場所を奪えたのがそんなにうれしいのか?』
『そんなこと思ってないよ! そんなだから、裁判官に『些細な言動を被害的に受け取り、否定的な感情に強く囚われる傾向がある』なんて言われちゃうんだよ』
『黙れ!』
腕を振り上げるが、職員の視線を感じて思い留まる。強く拳を握りしめる俺に、職員に気づかれないよう鼻で笑う聖也。この檻の中で俺にできることなど、聖也を睨みつけることくらいしかなかった。
『なんで兄さんはそう、血の気が多いの? まだ話は終わってないのに』
『これ以上、なんの話があるってんだよ』
まだ、俺を追い詰め足りないのか? 家から邪魔者である俺を追い出せて、父親と義母の愛情を独り占めできるというのに、他になにを望んでいるのか。
聖也はアクリル板に指を置くと、俺の目をなぞるように動かす。キュウッ、キュキュキュキュキュッと不快な音が面会室に響いた。
『んー、でも兄さん、態度が悪いからなあ。話すの、やっぱやーめた。また今度ここに来たときに……いや、もっと面白い話題ができる予定だから、そっちの話をしてあげるよ』
言いたいことだけ言って立ち上がり、面会室を出て行こうとする聖也。俺は立ち上がり、縋るようにアクリル板に手をつく。
『待て! 今度ってなんだよ、なにする気なんだよ!』
『またね、兄さん』
笑顔で手を振り、聖也は扉の向こうに消えていく。俺は『くそっ!』と叫びながら、その場に崩れ落ちる。
こんなところにいたら、陽菜を助けられない! 俺はなにもできないのに、あの狂人は野放しなのか? 手の届かないところで陽菜が傷つけられた。また、同じことが起こるかもしれないと思うと、生きた心地がしなかった。
それから一か月後、朝の余暇時間に自室で毎日十分だけ見ることができる新聞の文字に目を走らせているときだった。ある記事に目が釘付けになる。
『小六男児殺人未遂事件……四十歳男性逮捕……?』
記事の内容は【口論の末、小学六年生の青砥聖也くん(十二)を突き飛ばし、怪我をさせたとして、会社員の三葉雅人容疑者を殺人未遂容疑で逮捕した。容疑については認めたものの、詳しい動機に関しては沈黙を貫いている。殺意があったことについては認めており、法廷で説明責任を果たさなかったことから、五年以下の懲役を言い渡された】というものだった。
『ああ、あ……』
──俺はどうして、彼女に関わってしまったのだろう。
新聞を持つ手が震え、俺は俯く。
三葉雅人は陽菜の父親だろう。聖也がなにかしたんだ。俺を庇ったから、その仕返しに陽菜の幸せを壊した。太陽のような彼女を無理やり空から引きずり下ろし、地を這って生きさせるつもりなんだ。
『ああ……ああっ……うあああああああっ!』
激しい怒りと罪悪感で頭がおかしくなりそうだった俺は、気づけば叫んでいた。涙で視界がぼやける中、部屋に『どうした!』と職員が何人か飛び込んでくるのが見える。
『あああああああっ、俺のせいだっ、俺のせいだ……っ』
『落ち着きなさい!』
職員に壁に押さえつけられた俺は、仰いだ天井をキッと睨みつける。
『もっと面白い話題ができる予定って、ことだったのかよ! もう、欲しいもんは手に入れただろ! それなのになんでっ、なんで陽菜なんだよ!』
光に群がる蛾(が)と同じように、俺は彼女の眩しさに惹かれていた。彼女のようになりたいと思った。彼女のそばにいると温かくて、やっと見つけた拠り所だった。そして、欲深くも自分だけの光であってほしいと願った。彼女に抱いたすべての感情こそが罪だ。
俺と聖也の間にある確執に巻き込み、家族も健全な身体も壊された陽菜を想うと、自分の犯した罪の重さに目の前が真っ暗になる。
『陽菜……っ、ごめん……ごめんっ……俺は、どうやって償えばいい? どうすれば……っ』
その問いの答えは簡単だった。この場所で俺にできることなど、惨めに嘆く以外にはない。俺はあまりにも、無力で、両手で顔を覆い、『ああああああっ!』と断末魔の声をあげるしかなかった。
***
事件のことを知った日から、俺の世界は先の見えない暗闇に閉ざされたようだった。
朝目覚めた瞬間から一日中、父親を失ったばかりか、犯罪者の娘になってしまった陽菜への罪悪感に苛まれていた。
ここにいては謝ることもできない。ここを出てから謝ろうにも、陽菜は記憶を失っている。俺のことなど覚えていない。
それに、会いに行ったところで陽菜にとって俺は、偽りの被害者家族ということになる。会いに来られても、迷惑になるだけだ。
そして、幸か不幸か陽菜は俺が逮捕されたときのことを忘れている。聖也のしたことが明るみに出るまでは、俺が許されたいがために彼女のつらい記憶を呼び起こしてはいけない。
少年院で過ごした一年間、ずっと陽菜のことばかり考えていた。食欲も出ず、睡眠も満足に出来ない状況で、吐き気すらしていたが、どんなに頭が重かろうと、ときどき脳が限界を迎えたように意識が遠のこうと、自分はなにをすべきなのかと自問自答して過ごした。
晴れて出院(しゅついん)したあと、両親から告げられたのは『家族に迷惑がかかるからと改名しろ』という冷たいひと言だった。
苗字と名前のどちらも変えられ、青砥夜尋の存在と過去を消された俺は百瀬朝陽と名乗ることになった。
もし彼女が暗闇の中で泣いていたら、自分がそうしてもらったように、彼女を照らそう。明けない夜も朝日が昇らない世界もないのだと、そう証明するために名前を朝陽とした。
『夜尋くん、覚えててね。どんなに真っ暗な世界の中でも、私はきっとあなたを見つけて、幸せになるために頑張るあなたを見守ってる。離れていても、遠くにいても、ひとりじゃないよ』
彼女がそう言ってくれたように、今度は俺がどんなに真っ暗な世界の中でも彼女を見つけ出して、幸せになるのを見届ける。他の誰が彼女を見放しても、俺だけは離れずそばにいて、遠くにいても彼女を見守り続ける。
でも、そのためには青砥夜尋では駄目だった。父親を陥れた人間の兄だと知られたら、陽菜は俺に心を許さないだろう。だから時が来るまで絶対に気づかれないように、名前だけでなく振る舞いも言葉遣いも別人になりきる。そして再び彼女に出会い、守ると決めた。
***
俺──僕は彼女に恋していたこと以外の事実をすべて話した。
驚いている彼女の顔を複雑な気持ちで見つめる。僕と関わったせいで人生を狂わされたのだ、憎んだっておかしくはない。
「あの日、図書室で陽菜先輩がお父さんのことを話してくれた日、本当は陽菜先輩が図書室でお父さんの新聞記事を探しに行くだろうって勘づいてたんだ」
陽菜先輩がお父さんの罪に向き合うと決めた日のことだ。陽菜先輩から話してくれるのを待っていたら、きっと僕に打ち明けるまでに物凄い時間がかかってしまう。ただでさえ陽菜先輩の目は見えなくなっている。少し強引な手段だとは思ったが、踏み込んだ。一歩間違えば、永遠に彼女に拒絶されるリスクも承知の上で。
「だから時間差で図書室に行って、偶然を装って記事を見た。陽菜先輩が話さなければいけない状況を作ったんだ。陽菜先輩には……時間がなかったから。見えているうちに、お父さんと和解してほしくて……」
「だったら、なんで初めて会ったときに全部話してくれなかったの⁉ 早く教えてくれてたら、こんな遠回りすることもなかったのに!」
それは違うと、僕は首を横に振った。
「それじゃあ、たぶん駄目だったんだ。突然、現れた後輩に『あなたと四年前に会ってます。あなたのお父さんが起こした事件は、実は僕の弟のせいなんです。苗字が違うのは、僕が名前を変えたせいです』……もう、この時点で有り得ない話だと思いません?」
陽菜先輩の顔が「それは……」という顔になる。
「朝陽くんの話が本当なら、私たちは同い年だよね? なんで学年が違うの?」
「一年、少年院に入ってたって言いましたよね。中学には基本的に留年はないんですけど、少年院上がりの俺がもとのクラスに戻るより、学年を変えたほうが当たりは多少弱まるだろうって先生が」
「それで一学年下なんだ……わざわざ、私がいる高校に来たの? 偶然ってことはないよね」
「はい、陽菜先輩がいるから今の高校に入りました。少年院を出てからは、戻る場所がない子どもが入る自立準備ホームにいたんですけど、そういう施設はずっといられるわけじゃないので、親が高校の近くに部屋を借りてくれて……。まあ、それだけ僕を家に寄せつけたくないってことなんだろうけど」
目を伏せつつ、自嘲的な笑みを浮かべる。
「もろもろ僕の話を信じてもらうには、まず陽菜先輩に信頼してもらわなきゃならなかった。それに……陽菜先輩は、あの事件のことを必死に隠してたから……簡単に触れるわけにはいかなかったんだ。あなたをこれ以上……壊してしまいたくなかったから」
「壊す……?」
「あなたの家族も、あなた自身も、僕と関わったことで壊れたでしょう?」
自分の言葉が鋭い棘となって、自分の胸に返ってくるようだった。
「だから、陽菜先輩が自分で向き合うことを決めてくれるのを待ってた。どれだけ残酷な真実が待っていたとしても、受け止められるくらい心が回復するのを待ってるつもりだったんだ。でも、陽菜先輩の目のことを聞いて、そうも言ってられなくなったから……」
聖也に突き飛ばされて起きた事故の後遺症で、陽菜がいずれ失明すると聞いたときは頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
聖也、お前は……僕は、あの人から記憶だけでなく、目さえも奪うのか──。僕よりも世界を美しく見られる彼女の瞳は、僕のものよりも、聖也のものよりも、比べようがないほど価値があるものなのに。
そう心の中で、何度も自分と聖也を呪った。
許される許されないに関わらず、僕もお前も一生幸せにはなれないだろうな。僕を救ってくれた人だったのに、恩を返すどころか、償うことしかできない。
「三葉陽菜さん、本当に申し訳ありませんでした」
駅の前だということも忘れて、陽菜先輩に深々と頭を下げる。本当ならば、もっと早く謝罪しなければならなかったのに、とても長い時間がかかってしまった。
「本当に、うちの家族は……あなたの家族のせいで、私のせいで、私が朝陽くんに関わったから……っ、壊れたっていうの?」
〝私が朝陽くんに関わったから〟という言葉がいちばん胸の奥深くまで突き刺さる。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「……っ、ごめん。朝陽くんにはたくさん助けてもらったけど、私……どうしたらいいのか、わからない。これから、朝陽くんとどんなふうに接していけばいいのか、わからない……!」
僕を振り切るように背を向け、走り去っていく陽菜先輩。遠ざかっていく背中が人混みに紛れて見えなくなると、僕はガクッと地面に膝をついた。
もう、今までみたいに彼女のそばにはいられないのだろう。そう思ったら、涙が頬を伝っていった。
このまま、真実を知らせずに一緒にいられたらと考えたこともあった。でも、それは僕の身勝手な願いであって、それに陽菜先輩を付き合わせるわけにはいかない。
「傷つけてごめん、泣かせてごめん。……っ、それでも、あなたを見守らせて欲しい。それだけはどうか許してくれ、陽菜──」
***
視界が悪くなる夕暮れ時。うまく人を避けきれず、ときどき肩がぶつかって、舌打ちされながら闇雲に歩く。
許す、許さないとか……もう、そういう次元の話じゃない。ただただ心の中がぐちゃぐちゃで、私は朝陽くんの前から逃げてしまった。
私は夜尋くんを知らない。彼とどんな時間を過ごしたのか、思い出を重ねたのか、想いを通わせたのか、なにも覚えていない。
私が知っているのは朝陽くんだけだ。彼の見返りのない優しさの理由がようやくわかった。これまで助けてくれたのは、私への罪悪感や贖いからだったのだ。
──私と朝陽くんは、出会ってはいけなかったんだ。
そうすれば、お父さんは刑務所に入らずに済んだし、お母さんもあんなふうに壊れたりしなかった。それに朝陽くんも、少年院に入れられることはなかった。
「こんなに胸が苦しくなるなら、いっそ出会わなければよかった……っ」
私にとって朝陽くんは太陽……失えば、私の世界は暗闇に閉ざされてしまう。その瞬間がくるとわかっていたなら、朝陽くんという光に焦がれたりしなかった。
なんで私に話したの? 知らないままなら、今まで通りでいられたのに。
そんなふうに思って、私は自分を嘲るように笑う。
私はさっき、朝陽くんになんて言った?
『なんで初めて会ったときに全部話してくれなかったの?』
『早く教えてくれてたら、こんな遠回りすることもなかったのに』
そう責めたくせに、もう意見を変えてる。
私はどうしたいの? これから、どうすればいいの?
誰かに相談したくて、鞄からスマホを取り出してみるけれど、かける相手がいないことに気づいた。
お母さんに援交をさせられそうになったときと一緒だ。全身擦りむいて傷だらけになりながらスマホを持ったはいいが、誰に助けを求めればいいのかわからなかった。あの時の私には、味方なんていなかったから。
でも、今は頭の中に浮かぶ顔がある。私には初めて自分と同じ孤独やひとりになりたくなくて誰かを傷つけてきた過去を共有した友がいる。
彼女の名前を表示して、発信ボタンに指を翳す。でも、どうしても押すことができなかった。
父親が犯罪者だと学校中の人間に知られた日、薫から言われたことを思い出す。
『あんなの気にしちゃ駄目だよ? なにかのデマでしょ? 私、そういうの信じないから!』
後ろめたいことばかりある私には、そういうの信じないから、が……『噂が本当なんて信じたくない』に聞こえてしまう。
ああ、薫も犯罪者の娘である私から離れていくんだなと、そう思ってしまうんだ。
私は結局、スマホを握り締めたまま帰路につく。暗くなる前にアパートに辿り着くと、扉の前に彼女が立っていた。
「薫……なんで……」
「陽菜っ、あの、勝手に来たりして……ごめんねっ」
俯き加減の彼女はプリントが入ったクリアファイルやらノートやらを抱えている。それをじっと見ていたら、視線に気づいた薫がこちらに走ってきて、私にそれらを差し出してきた。
「これ、陽菜が学校を休んでいる間に配られたテストとか、あと……授業のノート」
「え……私のぶんもノート、とっておいてくれたの?」
「う、うん。私にできること、これくらいしか思いつかなくて……」
悲しそうに眉を寄せ、薫はぎゅっとノートを持つ手に力を込めた。
「本当なら陽菜に電話するなり、先生に住所聞くなりして、もっと早く会いに来るべきだった。だけど……」
唇を引き結び、思い詰めた様子の薫。しばらくして深呼吸をした薫は、覚悟を決めたように口を開いた。
「正直に言うとね、犯罪者の娘だったって聞いて……動揺した」
当然の反応だと納得してはいるが、納得しているからといって傷つかないわけじゃない。胸がちくりと痛んだが、こうして面と向かって正直な気持ちを伝えに来てくれたのは今までの人生で薫だけだった。
聞いてみたい……彼女の思いを。そして、私とのこれからを望んでいるのかも。その答えを知って、永遠に友達なんて作らないと思うかもしれない。でも、彼女との出会いはこれまでとは違うのだと、その繋がりの強さを信じてみたかった。
「事件のこと、私も図書室で新聞を探して、調べてみたの。……詮索したりして、ごめんね?」
私は首を横に振る。彼女が興味本位で事件のことを調べたわけじゃないとわかったから、不思議と嫌な気持ちはしなかった。それよりも、その記事を見て、彼女が私をどう思ったのかを知ることのほうが怖かった。
「記事を見て、『小学生を傷つけるなんて』っていう気持ちにはなった。だけど、その事件はお父さんが起こした事件であって、陽菜はなにもしてないんだよね? だったら、身内が起こした事件で、陽菜が責められるのは……きっと、おかしいんだと思う」
「薫……」
「だけどね、それがわかってても、陽菜のお父さんが小学生を殺そうとしたのかもしれないって、陽菜の顔を見るたびに頭に浮かぶ。事件と陽菜が結びついちゃう」
薫だけではなくて、皆がそうなのだ。お父さんが事件を起こしたとき、ネットには私たち家族まで過去に犯罪を起こしたことがあると、あることないこと書かれた。事件に関係のない私やお母さんも、まるで当事者であるかのように『家族の責任』という言葉で繰り返し責め立てられ、報道された。
「それでね、それってなんでだろうって考えてみたんだ」
だから、やっぱり陽菜とはいられない。そう言われてしまうのだと思っていたのに、私は想像していなかったセリフに「え?」と目を瞬かせる。
「たとえば友達があの子嫌いって言ったら、一緒に嫌わなきゃいけないとか、友達が掃除当番でも一緒に帰らなきゃいけないとか、連帯責任、集団行動……そういう日本特有の考え方がある限り、陽菜たち加害者家族も攻撃の的になるんだってわかった」
私もそれを知って、一生誰かに後ろ指さされる生活を受け入れるしかないのだと思った。だから、誰も私を知らない、どこか遠くの世界にいつも行きたいと思っていた。
「私は……学校でそういう集団行動とか、連帯責任とか、そういう考え方に苦しめられてきた。クラスでひとりでいるのはおかしくて、二次元キャラとか、声優とかが好きなんて恥ずかしい。そういう価値観を押し付けられるのが、誰よりも嫌だったはずなのに……私は、陽菜にそれを押し付けてたんだって、気づいたんだ」
眉を寄せ、瞳を潤ませながら、薫は痛みを堪えような顔をしていた。
「ようは私も他の人たちと同じように、陽菜を犯罪者の娘だからっていう理由だけで近寄りがたいって思ったってことだよね。家族が犯した罪への連帯責任、みんなが犯罪者の娘を嫌わなきゃいけないっていう集団行動……。周りに流されてる自分に、心底軽蔑した」
こんなふうに自分の気持ちに向き合える人は、そういない。もしかしたら相手を傷つけたかもしれないと、自分を振り返る行為はとても恐ろしい。だって、そこで本当に自分が間違っていたとわかってしまったら、それは一生消えない自分の罪になるから。
犯罪者の家族というだけで、私やお母さんを罵倒した人たちの中に、その言葉がどれほど私たちの心を抉り、痛めつけてきたのかを考えてくれた人がどれだけいるだろう。
もしかしたら、ひとりもいないのかもしれない。犯罪者の家族は責められて当然くらいに思っているかもしれない。
でも、薫は逃げないでいてくれた。自分と私に向き合ってくれた。それだけで、私は救われている。私たち家族を理解してくれる人もいるんだってことが、わかったから。
「陽菜、私はここに話を聞きに来たんだ。事件にどんな事情があったのか、どんな助けが必要なのか、教えてもらいたくて」
まっすぐな薫の想いに背中を押されたような気分だった。今までなにをそんなに怖がっていたのだろうと思うくらいに、心が軽い。
「……実はね、聞いてもらいたいこと、たくさんあったんだ。さっきも電話をかけようとしたんだけど、なかなか勇気が出なくて」
苦笑する私に、薫は「聞くよ、どんな話でも」と強く頷く。それからぽつりぽつりと、これまで私に起きたことを話し始めた。
「薫には話してなかったと思うけど、私ね。事故に遭ったことがあって、中一のときの記憶がないの。事件は、そのすぐあとに起きたんだ」
私が車に撥ねられたのは、実は事件の被害者である小学生の仕業だったこと。それを知ったお父さんが小学生のもとへ行き、問い詰めると、自分で怪我を負ったのにも関わらず、お父さんにやられたと訴えたこと。それで逮捕されたお父さんを、私の恥ずかしい写真をばらまくと言って脅し、冤罪を着せたこと。お父さんは私の名誉を守るため、真実を明るみにできなかったことを薫に話した。
「そして、今日……朝陽くんが私たち家族を貶めた人のお兄さんだったことがわかったんだ」
薫は息を呑んでいた。朝陽くんも関係者だったのかと、驚きを隠せない様子だった。
「覚えてないんだけど、私は中学一年生のときに朝陽くんと仲がよかったみたいで……。それで、朝陽くんを目の敵にしてた青砥聖也さんが私を傷つけようと、こんなことをしたみたいなの」
「なにそれ……その子、なんでそんなこと……。朝陽くんは、つらかっただろうね。朝陽くんと陽菜は同じなんだ」
「え?」
「家族の罪を朝陽くんも背負ってるでしょ? 朝陽くんは弟がしたことで、大切な陽菜を傷つけられた。きっと陽菜のそばにいながら、巻き込んだのは自分だって、自分を責めてきたんじゃないかな」
その言葉で目が覚めた。朝陽くんは、『あなたは僕に……巻き込まれたようなものなんだ』と言っていた。私が朝陽くんにとって、大切な人になってしまったから、青砥聖也さんに目をつけられたのだと。
「……どうしよう、私……取り返しのつかないこと、言っちゃった」
へなへなとその場に座り込む私に、薫が「陽菜⁉」と駆け寄ってくる。目の奥が熱くなり、肩に載る彼女の手に縋るように触れ、ずっと鼻を啜る。
「うちの家族は……あなたの家族のせいで、私が朝陽くんに関わったせいで壊れたの? って……言っちゃったの。わ、私っ……自分がされてつらかったことを朝陽くんにもしてしまった……っ、どうしよう……!」
「落ち着いて、陽菜」
「でもっ、今頃……朝陽くん、きっと泣いてる。私の目が見えなくなるって聞いたとき、朝陽くん……泣いてた……泣いてたんだ……っ」
両手で顔を覆い、私は嗚咽をこぼしながら泣いた。すると、「目が見えなくなるって……?」と薫の動揺する声がする。
そういえば、失明のくだりは話しただろうか。
そんなふうに考えていると、薫がそっと私の手を顔から外させる。薫も今にも泣きだしそうに、顔をくしゃくしゃにして、私を見つめていた。
「見えなくなるって、なに……?」
「薫……私、そのときの事故で角膜に傷がついちゃって、数か月後には……失明するんだ」
そう打ち明けた瞬間、薫は私を強く抱きしめた。すると耳元で「なんで陽菜ばっかり、大変な目に遭うの!」と、涙に濡れた声がする。
私は薫の背中にゆっくりと腕を回し、とんとんと叩いた。
「ありがとう……薫がそう言ってくれて、なんか……私の人生、悪いことばっかりじゃないなって、そう思えるよ」
「……っ、そうだよ、悪いことばっかりじゃないないよ。少なくともこれからは、いくらでも幸せになれるよ!」
朝陽くんも似たようなことを言っていたな。『今まで経験したつらかった過去よりも、これから作る過去のほうが多くなるんだから、自己満足でもいい、罪を昇華しながら生きていこう』って。
過去を振り返ってばかりで、今も未来も見られない私をふたりはいつだって照らしてくれる。まるで標(しるべ)のように光って、進むべき道を教えてくれる。
「薫、私……過去の罪を思い出して、つらくなるってわかってても、そばにいてくれた朝陽くんの想いから目を背けたくない。だから会わなくちゃ、あの人に」
「うん」
「それで、私……暗くなると、道がよく見えなくなるの。だから……」
「わかった。私が朝陽くんのところまで連れていく。私が陽菜の目になる」
私の手を強く握り、立たせてくれる薫に、また涙がこぼれた。
「ありがとう、薫。薫にすべてを話せてよかった。隠し事ばかりで、ずっと胸が重たかったんだ。だけど今は、胸がすっきりしてる」
「私も、陽菜のことを知れてよかった。ときどき、なにかを押し殺すみたいに、悲しそうに笑うのが気になってたの」
「薫……そうだよね。薫は私の親友だもん、わかってたよね。それでも、私が話すまで知らないふりをしてくれて、ありがとう。待っていてくれて、ありがとう」
朝陽くんも薫も、私がつらい現実や過去を受け止めて、向き合えるようになるまで待ってくれていた。決して急かしたりせず、私のペースで歩いてくれていたんだ。
「いいんだよ、親友なんだから」
私は『私たち、友達だよね』『親友だよね』と確認する人間を心のどこかで、軽蔑していた。そう確認しなきゃ、友達だという確信が持てないんでしょう? そんなふうに思ってた。
でも、繋がりを確かめ合ったっていいんだ。だって、人の心は見えないから、気づかない間に離れていることもある。だから、相手の想いが自分と同じかどうか、それを知りたいと思う。否定しがちだけど、それは人間なら誰にもある弱さだ。ひとりがいいと、心の底から思える人間なんて、きっといない。だから言葉にして、お互いに安心したっていいんだ。
私たちは顔を見合わせて笑い、走り出した。心と一緒に、固く手繋ぎながら。
***
薫にバイト先のカフェまで送ってもらった私は、雨が降ってきたので軒下で朝陽くんを待つことにした。
店内に入らずにいる私を不思議そうにチラ見しては、客が横を通り過ぎていく。
前と逆だな。前は清掃員の仕事をしていた私を朝陽くんが待ってくれていた。私を貧乏だとからかった友達の代わりに謝るために。
そんな彼を私は簡単に切り捨てた。彼がなにかしたわけでもないのに、私たち家族を貶めたあの人の兄だからというだけで。私がされて、いちばん許せなかったことを彼にもしてしまった。
だから私は甘んじて、この胸の痛みを受け入れる。朝陽くんの負った傷を想像しながら、自分がしてもらったみたいに待っていると、チリンッとベルが鳴り扉が開いた。
「疲れ様でしたー」
店内に頭を下げながら出てきたのは、待ちに待った人だった。振り向いた彼は私に気づくなり、目を見開いて固まる。
「こ……こんな時間に危ないじゃないですか!」
私にひどいことを言われたのに、第一声がそれなのかと拍子抜けしてしまう。
「……私、朝陽くんを傷つけた。ものすごく、傷つけた。本当に……ごめんね……」
目を閉じて、膝に額がくっつくほど頭を下げる。会って最初の言葉は『ごめんね』にしよう、そう決めていた。
「もしかして……先輩、それを言うためだけに、僕を待ってたんですか?」
朝陽くんは下から私の顔を覗き込み、困ったように笑う。
『もしかして……朝陽くん、それを言うためだけに私を待ってたの?』
あのとき、私がかけたセリフをそっくりそのまま返されたのだとわかった。それに小さく笑ってしまうと、朝陽くんがそっと私の手を取る。
「ここじゃあれなんで、移動しましょう。先輩、傘は?」
軒下から顔を出して、朝陽くんは泣いている夜空を仰ぐ。
「持ってない。天気予報でも言ってなかったから」
「じゃあ、忘れ物の傘を借りていきましょう。一本しかないから、相合傘で」
傘立てから一本だけ傘を抜き、バッと開く。それから、さりげなく手を引いて傘に入れてくれる朝陽くんに、私はまたくすっと笑ってしまう。すると朝陽くんが不思議そうに振り返った。
「あ……ここまで連れてきてくれた薫も、こうして手を引いてくれたから……なんだか私、子供みたいだなって」
繋がれた手に視線を落としながら、笑った理由を話した。
「もしかして、平良先輩に話せたんですか? いろいろ……」
歩きながら「うん」と頷く私に、朝陽くんは目を細めて柔らかな笑みを浮かべた。
「よかった」
たったひと言だったけれど、私の胸を温めるのは、そのひと言で十分だった。
雨音と足音だけが響いている夜道は、私にとって暗闇と同じ。ひとりならどこへ進めばいいのかわからなくて、怖くてたまらなかっただろう。
でも、朝陽くんがいるから、行く先がわからなくても、なにも見えなくても、怖くなかった。
「あの……朝陽くん。今さらだけど……真実を話してくれて、ありがとう」
デリケートな話題に触れているからか、微かに朝陽くんの手が震えた。
「それから、やっぱり……ごめんなさいって言わせて。朝陽くんも、弟さんのしたことで苦しんできたんだよね」
また、びくりと震えたのが朝陽くんの手から伝わってくる。
私のお父さんは冤罪だったけれど、本当に罪を犯したんだと思っている間は罪悪感でいっぱいだった。家族のしたことで、いくら自分とは関係ないと言い聞かせていても、いつの間にか自分が償わなければいけないという思考にシフトする。
「朝陽くんは、私を巻き込んでしまったって自分を責めてるんだろうけど、昔の私はそうは思ってなかったと思う。もちろん、今の私も」
記憶がなくなる前の私と朝陽くん──夜尋くんがどんなふうに過ごしたのかは知らないけれど、朝陽くんは私を大切な人だと言った。今だからわかる、朝陽くんがたびたび口にしていた〝大切な人〟が誰のことなのか。
「お互いに失いたくない、守りたいっていう想いが重なって、相手が特別になって……誰かを大切に想う心は、一方通行じゃないと思うんだ」
この握り合った手のように、きっと心を繋いで初めて生まれる感情だ。朝陽くんにとって私が大切なら、私にとってもそうだったはず。
「私の記憶ね、事故の後遺症ってだけじゃなくて、すごいショックな出来事があったから、なくなったんじゃないかって、お父さんに言われたんだ。だって、中学一年生のときの記憶だけなくなるなんて、おかしいでしょ?」
中学一年生のときの記憶には、私と朝陽くんが出会ってから別れるまでの時間のすべてが当てはまる。
「だから朝陽くんの話を聞いて、考えたの。私が忘れたかったのは、朝陽くんが……夜尋くんが、自分を守るために捕まってしまったこと。その事実が耐えられないほど、悲しかったからじゃないかって」
精神がボロボロだったところに事故に遭って、衝撃的な出来事が重なったことで、私の心の受け皿が溢れてしまった。だから、記憶を失ったきっかけは夜尋くんを守れなかったことなのではないか。
「僕が……っ、陽菜先輩の心を壊してしまったんです!」
誰もいない夜道の真ん中で足を止め、下を向く朝陽くんの前に回り込み、私は首を横に振る。
「記憶がないから、これは想像でしかないけど……私は、夜尋くんが大切だったんだと思う。心が壊れてしまうほど、大切だったんだよ」
私は朝陽くんの手を両手で包み込んだ。朝陽くんに近づいて、まっすぐその瞳を見つめる。
「これから作る過去のほうが多くなるんでしょ?」
「……!」
朝陽くんは息を呑み、驚いたように目を見張る。
「夜尋くんがくれた思い出はなくしちゃったけど、そのぶん朝陽くんと思い出を作っていきたい。だから一緒に、朝陽くんの中にある罪悪感を昇華しながら生きてく道を探そう」
暗がりの中にある澄んだビー玉のような瞳が薄っすら透明な光を浮かべる。その光は遠い町明かりを映し、頬を滑り落ちていく。
「朝陽くん、逃げずに向き合ってくれてありがとう」
彼の頬に手を添え、涙を拭う。その胸の中に、どれほどの痛みを抱えて生きてきたのだろう。私はきっと、朝陽くんの傷そのものでもあったはず。
大切な人が離れていくのは怖い。それでもそばにい続けることがどれだけ苦しいことなのか、素性を隠してでも居場所を求め続けた私にはわかる。
「でも、もう自分を許してあげて。罪滅ぼしで、私と一緒にいる必要はないよ。朝陽くんは、朝陽くんの人生を歩いて」
ときどきでいい。ときどき、朝陽くんが会いたいと思ったときに私の前に現れてくれれば、それで。私は朝陽くんを縛りたいわけじゃない。
一緒にいられる時間が減ってしまうのは悲しいけれど、私は笑って手を離そうとした。
「……違う」
朝陽くんは引き留めるように、繋いだ手に力を込めた。
「陽菜先輩が僕の大切な人だから、どんな形でも……一緒にいたかったんだ。それが青砥聖也を捨てることになっても、構わなかった」
その覚悟の重さに、私の心は激しく揺さぶられていた。目を見開くと、その拍子に涙がこぼれ落ちていく。
今度は朝陽くんの手が私の頬に触れた。
「前に僕のこと、平良先輩にどんなふうに話してるんですか? ……って聞いたときに、陽菜先輩、言いましたよね。『大丈夫だよ。朝陽くんはいつだって、誰かを明るく照らす言葉しか言ってないから』って」
「うん」
「でも、僕はいつだって、陽菜先輩が教えてくれたことをあなたに返していただけなんです」
あのときは聞き取れなかったけれど、朝陽くんは『全部、陽菜先輩が教えてくれたことなのに……』と、そう言いたかったのだと、今ようやくわかった。
「陽菜先はなにげないひと言で、そばにいる人を照らしてしまえる。眩しくて、ずっと僕がなりたいと焦がれた人なんだ」
朝陽くんはたまに、眩しそうに目を細めながら私を見つめる。その眼差しの理由は、そういうことだったのかと納得がいった。
「それが陽菜先輩の本当の姿だってことを思い出してほしかった。再会した陽菜先輩は、必要以上に自分を卑下してるように見えたから……」
「私は……朝陽くんが焦がれてくれたときの自分のことは覚えてないけど、あなたがいてくれたから、少しずつ自分に向き合えた。感謝してるの」
私たちは見つめ合って、自然と抱きしめ合う。傘がふわりと地面に舞い落ち、雨の中でお互いの体温だけを感じていた。
「小さくてもいい、遠くてもいいんだ。どこに向かっていけばいいのか、その道標を見つけてほしい。それがあれば、どんなに苦しい道でも、希望を見失わずにいられる。僕がそうだったように」
「朝陽くんにとっての道標って……」
「陽菜先輩だよ」
少しの迷いもなく言い切る朝陽くんに、私は「ふ、うっ」と咽ぶ。震えながら身を縮こまらせ、私は泣いた。
あるはずがないと思っていた居場所を見つけた。そして、私を居場所にしてくれていた人もいた。私から奪っていくだけの大嫌いな神様に、今日初めて感謝した。
「また会えたら、もう二度と離れないって決めてた」
朝陽くんの手が背中を優しく撫でる。顔を上げれば、そこに見えない引力でもあるかのように、私たちは唇を重ねた。
──私も今この瞬間、決めた。また会えたから、もう二度とあなたと離れないって。きっとこの人は、この先なにがあっても手放してはいけない人だって、わかったから。
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