8章 ……一緒にいていいのかな?

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8章 ……一緒にいていいのかな?

 朝陽くんにアパートの前まで送ってもらうと、そこへちょうど一台のタクシーが停まった。バタンッと中から出てきたのは、最悪なことにお母さんだった。  どうしよう。朝陽くんがお父さんを冤罪で刑務所送りにした人間の兄だとわかったら、お母さんは逆上するに違いない。朝陽くんにも、手をあげるかもしれない。 「朝陽くん、送ってくれてありがとう。それじゃあ、また連絡するね」  その背中をグイグイ押して、早く帰らせようとすると、後ろから「陽菜じゃない」とお母さんが声をかけてくる。  私は静かに息を吐き出し、聞こえなかったふりをした。そのまま無視を貫こうとするが、嫌がらせなのか、足音が近づいてくる。 「こんな遅くまで男と遊んでるなんて、あんたやっぱり私の子供だわ」  はっと馬鹿にするように笑うお母さんに、いつもなら傷ついていたところだろう。だが、今はお母さんと朝陽くんを一刻も早く引き離さなければと、それしか考えられなかった。  私は目で『朝陽くん、早く帰って!』と訴える。察しがいい朝陽くんなら、お母さんに素性が知られることがどれだけまずいことなのか、わかるはずだ。  でも朝陽くんは逃げるどころかお母さんに向き直って、礼儀正しくお辞儀をして見せた。 「ご無沙汰してます」  朝陽くんは、なにを考えてるの?  ご無沙汰していますなんて、前にも会ったことがあると言っているようなものではないか。  ハラハラしながらふたりを見守っていると、案の定、お母さんは怪訝そうな顔をする。 「……私たち、前にも会ったことがある?」  お母さんの問いの答えは、私にもわからない。なんせ、中学一年生のときの記憶がないのだ。夜尋くんと仲がよかった頃の私が、彼を家に連れてきたことがあったかどうかなんて覚えていない。 「……はい、あります」  真剣な表情で頷いた朝陽くんに、お母さんは「いつよ」と眉を寄せながら尋ねる。朝陽くんは緊張を鎮めるためか、深呼吸をして、静かに告げた。 「四年前です」  おそらく、この場にいる私たちにとって『四年前』というのは、耳にしたくない単語だ。お母さんも、あからさまに身構えているのがわかる。険しい顔で朝陽くんのことを凝視したあと、瞳に激しい憎悪と恨みを焚たいて、大きく足を踏み出した。 「あなた……!」  お母さんは血相を変えて、朝陽くんの胸倉を掴み、突き飛ばす。 「なにするの、お母さん!」  なおも朝陽くんに掴みかかろうとするお母さんの腕を引っ張り、止めた。でも、お母さんは朝陽くんという赤旗目がけて突っ込んでいこうとする闘牛のように、鼻息荒く、血走った目をして抵抗する。 「覚えてるわ、その顔……! 青砥夜尋! あんたがこんなやつに関わったせいで、お父さんは……っ」  ──ああ、だから、〝私のせい〟だったのか。  お母さんに『つらい目に遭うのは、あんたのせいよ』と言われたとき、私はなんの根拠もないただの八つ当たりだと思っていた。  でも、本当に私のせいだった。でも、私が夜尋くんと関わったからからじゃない。私が青砥聖也さんの癇に障ることを言ったからだ。 「お母さん、違うんだよ。朝陽くん……夜尋くんは悪くないの!」  私は朝陽くんから聞いた真実を話す。でも、お母さんは聞く耳を持たず、私の手を振り払った。その勢いで尻餅をついてしまう私に、朝陽くんが「陽菜先輩!」と叫ぶ。  私に気を取られている間に、お母さんは朝陽くんの上に馬乗りになると、その首を締めた。 「なにがあったなんて、どうでもいいのよ! 確かなのは、あんたたちが出会ったから、あの事件が起きたってことだけ!」 「やめて!」  お母さんに体当たりして、私は「げほっ、げほっ」と首を押さえながら咳き込む朝陽くんの身体を起こす。 「朝陽くん、朝陽くん、大丈夫⁉」 「けほっ……平気、です……っ、それより陽菜は? 転んでたでしょ、怪我していませ……んか?」 「私のことなんていいから、もっと自分のことを気にして!」  自分よりも私のことばかり気にかけてしまうのは、弟が起こした事件に巻き込んでしまったという罪悪感だろうか。  私のそばにいる以上、朝陽くんは自分をいちばんには考えてくれない。それでも、そばにいてほしいと思ってしまう自分が嫌になる。 「ごめんね……っ」  泣きそうになりながら朝陽くんを抱きしめると、後ろで「まさか、あなたたち……」とお母さんの震える声がする。  振り返れば、お母さんはおぞましいものでも目の当たりにしたかのように首を横に振り、数歩後ずさる。 「駄目よ……そんなの認められない……だって、出会っちゃいけなかったのよ……あなたたちは……」  ──出会っちゃいけなかった。  それは私も、そして恐らく朝陽くんも一度は考えたこと。その事実を改めて突きつけられた私たちは、返す言葉を失っていた。 *** 「お母さんが……ひどいことしてごめんね……」  返す言葉が見つからなかった私にできることは、朝陽くんを連れてお母さんから逃げることだった。  アパートの裏手にやってきた私たちは、ふたりでしゃがみ込んで項垂れる。 「ああなることは覚悟してたから……。むしろ陽菜先輩は止めようとしてくれてたのに、勝手なことしてすみません」 「朝陽くん……謝らないで。けど、責められるってわかってたなら、なおさら、どうしてお母さんに自分が青砥夜尋だって話したの?」  朝陽くんは少し考えるように上を向き、黙り込む。暗がりで表情が見えないせいで、余計に朝陽くんが考えていることがわからず、不安になった。 「……本当は陽菜が大切な人を見つけるまでそばにいて、役目を終えたら姿を消すつもりだった。ひっそりと、あなたを見守っていければ、それでよかったはずだったんだ……」  朝陽くんの震える吐息に、私の心も揺れる。 「だけど……四年前から好きだったから……」 「……!」  迷いなく想いを口にした朝陽くんに、思わず息を呑む。どきんどきんと鼓動が脈打ち、歓喜が月明かりのようにそっと心を照らすのを感じた。 「陽菜先輩が真実を知って、その時が近づいてきてるのもわかってたけど……どうしても、陽菜先輩に『さようなら』を言えそうになくて……」  聞こえてきたのは涙声だった。黄昏時、私には朝陽くんが今、どんな表情をしてるのかがわからない。 「朝陽くん……?」  手探りで朝陽くんの顔に触れれば、頬が濡れていた。そこへ次から次へと、雫が手の甲に落ちてくる。 「悲しい、の?」 「……ん、悲しい。でも……陽菜先輩と離れたくないから、陽菜先輩のお父さんとお母さんにも許してもらえるように、ちゃんと話さなきゃって思ったんだ」 「それで、自分の正体を打ち明けたんだね……」  朝陽くんの覚悟がうれしかった。そして、それが朝陽くんのそばにいるために、私もしなくちゃいけないことだと気づいた。 「……お母さんとは、日を改めてまた話そう。だから今度は、私の番。朝陽くんのご家族に会いに行こう」 「会って……大丈夫……ですか? 特に聖也は、陽菜先輩を事故に遭わせただけじゃない、目を傷つけた張本人だ」 「……うん、わかってる。だけど、青砥聖也くんに会って、お父さんが冤罪だったってことを証明してもらわなきゃいけないし、私も……」  月明かりを浴びた朝陽くんの瞳を見つめる。  私が記憶を失くしたせいで、朝陽くんをひとりで悩ませてしまった。けど、もう彼だけに背負わせない。 「私も朝陽くんのそばにいることを、朝陽くんのご家族にも認めてほしい。家族って、いい意味でも悪い意味でも断ち切れない存在なんだってこと、身に染みてわかってるから」  どれだけ嫌いたくても、どれだけ憎みたくても、愛情を確かめずにはいられない。  頭を駆け巡るのは、お母さんに目が見えなくなることを告げたときのこと。私はあのとき、もう数か月もしないうちに失明すると知れば、お母さんはきっと悲しんでくれると、そう期待した。欠片でもいい、お母さんの中に残っているかもしれない私への愛情を探した。  朝陽くんもそうだ。家に居場所がなくて、悪ぶることでしか、自分を見てって訴える方法が思いつかなかったって言っていた。  いつだって人は、大人も子供も関係なく、誰かの中に愛を求めている。家族は、それを無条件に与えてくれるものだと、そう信じていたいのだ。 「だから、やっぱり家族に許してもらえないと、私たちふたりだけで幸せになるなんて、自分の心が許せないよね」 「……先輩には、わかってしまうんですね」  苦笑交じりにそう言う朝陽くんに、私もふっと笑みをこぼす。 「夜尋くんと出会った頃の私には、わからなかった。でも、今の私なら、朝陽くんの気持ちが自分のことみたいに伝わってくる。朝陽くんの感情が理解できるなら、苦しんだ時間も無駄じゃなかったなって、そう思えるよ」 「……陽菜先輩、変わりましたね」 「え……そうかな?」 「昔みたいに、どんな苦境に立たされても前を向いてる。だけど、前よりも芯があるっていうか……どっしり構えてるっていうか……強いなって」 「そりゃあ、十六年っていう短い人生の間に、いろいろ経験してますからね」  わざとらしく偉ぶってみると、朝陽くんは「本当にそうですね」と、また笑うのが触れている顔の動きから伝わってきた。 「怖いけど、向き合わなきゃ進めないって、あなたが教えてくれたんだよ。だから、一緒に乗り越えなきゃね」 「そうだな。いつまでも家族から逃げてられない……よな。名前も変えて、家も出たのに、頭の端にずっと居座ってるんだ。家族の存在が」 「じゃあ、会ってすっきりしよう。朝陽くんが私を助けるために警察に捕まってしまったってこと、ちゃんと話そう。大切な人に誤解されたままなのは、つらいから」  娘の私に犯罪者だと思われても、お父さんには弁解も許されなかった。世間の批判を受け、娘の信頼を失い、家族が壊れて……どれほど打ちのめされたことだろう。  お父さんと朝陽くんは、同じ痛みを味わっている。青砥家に行くことは、ふたりを苦しみから解放するために避けては通れない道だ。 「僕も、陽菜先輩にしたこと、陽菜先輩の家族にしたこと、なかったことにはさせない。聖也と、きちんと話をつけるよ」  朝陽くんは、私の手を固く握る。  簡単には、うまくいかないことばかりだ。でも、今できることを私たちはするしかないのだ。この手を離さずにいるためには──。 ***  閑静な住宅街の中にある立派な一戸建て。【青砥】と書かれた石の表札は厳かで、圧迫感を感じる。  深呼吸をする私の横で、朝陽くんはひと言も喋らない。正確に言えば、新幹線に乗っているときから、地元が近づいてくるにつれて、口数が減っていった。  私でもこれだけ怖いのだ、朝陽くんはもっともっと怖いはずだ。 「朝陽くん……」  その手をそっと握れば、びっくりするほど冷たかった。 「私たち、ふたりで分け合おう。うれしいも、悲しいも、怖いも、全部」  こちらを振り向いた朝陽くんの目をしっかりと見つめ返す。強張っていた朝陽くんの表情は少しずつほぐれ、ふっと笑みが浮かんだ。 「……ん、行こう」  覚悟が決まったらしい朝陽くんは、インターフォンに指を伸ばす。そのとき、「うちになにか用ですか?」と庭のほうから三十代後半くらいの女性が顔を出した。  女性は朝陽くんの顔を見るや眉をひそめ、忌まわしいものでも見るように顔を歪める。 「なんで……あなたがここにいるのよ。なんで、私たちの前に姿を現したのよ!」  会って早々、怒鳴りつけてくる女性に朝陽くんは唇を噛むと、一切の表情を消した。 「すみません、義母さん。あなたたちが僕に会いたくないのは重々わかってますが、話があって来ました」  お義母さん……この人が……若いお母さんだな。  そんなふうに思いながら、じろじろと眺めてしまったのがいけなかった。朝陽くんのお義母さんは私の存在に気づき、訝しそうに眉間のしわをいっそう深くする。 「あなたは?」 「あっ……私は──」  名乗ろうとすると、朝陽くんが先に答える。 「彼女は三葉陽菜さん。四年前、聖也を怪我させたっていう男性の娘さんです」  それを聞いたお義母さんは耳がキンとするほど「なんですって!」と、大きな声で叫んだ。 「犯罪者の娘を……それも聖也を傷つけた男の子供をなんでここに連れてきたのよ⁉ あなた、頭おかしいんじゃないの⁉」 「……陽菜先輩のお父さんは、聖也を傷つけたりはしてません」  お義母さんは不愉快そうに「はあ?」と、朝陽くんを睨みつける。それに怯みそうになる私とは反対に、朝陽くんは続けて訴えた。 「今日は聖也が彼女にしたこと、彼女の家族にしたことを話しに来ました」 「うちの聖也が悪いことをしたみたいに言うのね。言いがかりに付き合うほど暇じゃないのよ」 「言いがかりではありません。三葉さんたちの人生を壊しておいて、それでも足らず、また彼女の人生を壊そうとしてる。さすがに見過ごすことはできません」  そこへ「騒がしいぞ、どうかしたのか?」と、お義母さんの後ろから男性が顔を出す。朝陽くんの存在に気づくなり、男性の眉の辺りに凄まじい怒りが這った。 「どうして、お前がここにいる。うちには近づくなと言っただろ」  近所の視線を気にしてか、辺りをきょろきょろしながら、男性は目を尖らせて朝陽くんを見る。 「父さん、お久しぶりです」 「金か? ひとりで暮らしていけるだけの仕送りはしてるはずだぞ」 「今日は、聖也のことで話があって来たんです」  男性はお父さんだったらしい。親子の会話は、悲しいくらいにキャッチボールが成り立っていない。  幸せって、見かけだけじゃわからないものだ。刑務所にいても、自分を案じてくれているお父さんと、家に帰ってきた息子を歓迎する素振りがないお父さん。どちらか選べるとしたら、どんなに立派な家に住んでいたとしても、仕事に就いていたとしても、私は私を見守ってくれているお父さんがいい。 「聖也が三葉さんに怪我させられたって話、あれは全部嘘です」 「なんでそこで、あの男の話が出てくるんだ」  不快そうに眉を寄せたお父さんに、お母さんは「あの子、三葉さんの娘さんですって」と耳打ちした。  お父さんの視線がこちらに向き、思わずどきりとしてしまう。お世辞にも、その目は好意的とは言えなかったからだ。  朝陽くんはお父さんたちの視線から守るように、私を背に隠してくれる。 「聖也は僕──俺に家族を取られるのをずっと怖がってた。だから俺の大事なものを壊したり、俺に殴られたとか、物を盗られたとか嘘をついて、俺を悪者にして居場所を奪おうとしてきたんだ。でも、そのことに父さんたちは気づかない」  下がった声のトーン、陰った横顔……。朝陽くんの傷が薄っすらと透けて見えた気がした。 「俺がそれで、父さんたちから煙たがられてるうちは、聖也の矛先が俺にだけ向いてるだけで済んでたけど……」  朝陽くんがこっちを見る。 「彼女と出会って、俺が人との壁を少しずつ崩せるようになって、父さんたちとも少し打ち解けられてきたとき、聖也が彼女に目をつけたんだ。俺を変えた彼女が目障りだったって」  黙って聞いているお父さんの後ろで、お義母さんが「ただの言いがかりでしょ」と腕を組み、汚いものでも見るような目を朝陽くんに向けている。 「聖也は俺を傷つけたくて、俺と仲良かった彼女と、その家族を犯罪者家族に仕立て上げた。自分で意図的に転んで怪我をしたのに、三葉さんにされたって嘘をついたんだ」 「その証拠はどこにある」  お父さんの言葉に、黙っていられなかった。どうしても、そのひと言が許せなかった。 「証拠……息子さんの言葉ってだけでは、信用するに値しませんか? あなたの子供の言葉でも、信じられませんか?」 「うちの子を傷つけた犯罪者の娘の分際で、口を出すな!」  朝陽くんのお父さんに怒鳴られ、足が震えた。でも、犯罪者の娘だと世間から責め立てられ、居場所を追われる恐怖に比べたら、全然踏ん張れた。 「……朝陽くんが逮捕された事件、あれは……聖也さんから私を守るために、やったことなんです。私が聖也さんに殴られて、それで朝陽くんが……」  私の記憶には残っていないけれど、朝陽くんが私のために戦ってくれたこと。朝陽くんの話を思い出しながら、しっかりと伝える。 「逆に聞きます。朝陽くんの話が嘘だっていう証拠は?」  朝陽くんのお父さんはぐっと押し黙る。  お義母さんから「達者な口ね」と嫌味を言われるが、不思議と痛くはない。朝陽くんを守れるなら、その汚い言葉をいくら浴びせられようとも耐えられる。  朝陽くんの中に居場所を見つけた私は、きっと朝陽くんを自分と切り離しては考えられない。朝陽くんの痛みは私の痛み、朝陽くんの苦しみは私の苦しみ。それが誰かを好きになる──心を繋ぐということなのだと思うから。 「だいたい、あなたたちなんで一緒にいるのよ? 犯罪者の娘と被害者の兄なのよ? ああ、でも……」  朝陽くんを捉えたお義母さんは、酷薄な笑みを浮かべる。 「夜尋、あなたは聖也を殴り殺そうとした犯罪者だったわね。だから犯罪者の娘とも意気投合できたってこと」 「やめないか」  周りの様子を確認しながら、お父さんがお義母さんを止める。朝陽くんのためというわけではなく、懲りずに世間体を気にしているのだろう。 「この世でいちばん会いたくなかったのに、どうして現れたのよ! もう、うちを引っ掻き回さないで……!」  花やり用の散水シャワーを向けられ、ブシャーッと水をかけられる。突然のことに、私と朝陽くんは避けることもできず、水浸しになった。 「陽菜、平気?」  私の肩を掴み、顔を覗き込んでくる朝陽くん。私は「朝陽くんこそ……」と、その腕に手を添える。  それを見ていたお義母さんは「まさか……」と目を見張った。 「恋人にでもなったの? え、これってなにかの皮肉? 嫌がらせ? あなたち、馬鹿じゃないの⁉」  また水をかけようとするお義母さんから守るように、朝陽くんは私を抱きしめる。お父さんがお義母さんを羽交い締めにして止めれば、両手をばたつかせて「離してよ!」と暴れた。 「ねえ、騒がしいけど、なにかあったの?」  騒ぎを聞きつけて、ついに彼が姿を現した。青砥聖也、私の大事な人たちを傷つけるだけでは飽き足らず、存在すら消そうとした人。  無害そうに素知らぬ顔でこの様子を眺めている彼に、激しい怒りが胸の内に湧いて、一気に膨れ上がる。  でも、私が爆発する前に、朝陽くんが「聖也!」と叫びながら飛び出していた。この四年間のことが、一気に思い起こされたのだろう。恨みも、怒りも、悲しみも、孤独も、すべてが今、朝陽くんの中で荒れ狂っている。 「やめて、兄さん!」  怯えるように母親の背に隠れる聖也さん。朝陽くんが構わず拳を振るおうとしたとき、前にお父さんが立ち塞がる。そして──。  ドゴッと、勢いよく朝陽くんを殴りつけた。 「朝陽くん!」  地面に転がった朝陽くんに駆け寄る。でも朝陽くんは、肩で息をしながら私たちを見下ろすお父さんを睨み上げた。 「どうして、あんたたちは……真実を見ようとしないんだ。あんたら、本当は気づいてるんじゃないのか? 聖也がしたこと」 「え……」  驚いたのは朝陽くんの言葉にだけではない、反論しないご両親にもだ。まるで心当たりがあるとでも言うように、ばつが悪そうな顔をしている。 「聖也の周りで、頻繫になにかが起こるだろ。いつも聖也が主役の劇を見せられてるみたいで、周りの人間は決まって悪役になる。おかしいとは思わなかったか? ただの一度も」  追及されればされるほど、ご両親の顔は強張っていく。だが、お義母さんはキッと鋭い眼差しを朝陽くんに飛ばし、声を張る。 「ないに決まってるでしょ!」 「お前は疫病神だ……不幸しか連れてこない」  お父さんにも拒絶される朝陽くんを見て、ご両親の陰に隠れていた聖也さんが微かに口端を上げた。ぞっと寒気が走り、私は朝陽くんをいっそう強く抱きしめる。それに気づいた聖也さんの顔が〝余計なことをするな〟と露骨に歪んだ。 「俺たちより大人のくせに、見ないふり、聞こえないふり。都合が悪いことには蓋をする。そういうあんたたちには心底呆れるけど、それよりも許せないのは……」  朝陽くんの視線が聖也さんでぴたりと留まる。 「聖也、お前だ。お前はどこまで人の人生を踏みにじれば気が済むんだ? どこまで奪えば、安心するんだ。俺を家から追い出せて、お前の居場所を脅かす人間はもういないだろ」 「兄さんの言ってること、よくわからないんだけど」  聖也さんは困ったように、お義母さんを見上げる。お義母さんは「そんなに怯えて……かわいそうに……」と、その頭を撫でた。 「俺にはなにをしても構わない。でも……この子に手を出したら許さない。もう二度と、彼女に近づくな。それであんたたち全員、大事なことから目を背けて、嘘に塗れながら生きていけばいい。今までも、これからも」  無条件に愛情を与えてくれる家族という存在を人は簡単には断ち切れない。だから家族とも和解して、堂々とふたり一緒にいられるように、私たちの関係を許してもらいたい。そのためにここまで来たのに、朝陽くんを二度も家族に傷つけさせてしまった。朝陽くんに家族と決別することを選ばせてしまった。 「……行こう、陽菜先輩」  朝陽くんは私の手を引き、歩き出そうとする。すると、「待って!」と聖也さんに呼び止められた。 「母さん、義父さん、ちょっと兄さんたちと話がしたいんだ。先に家に入っててくれないかな」 「え……でも、危ないわ」  お義母さんから嫌悪の視線を向けられ、犯罪者にでもなった気分だった。 「なにかあったら、すぐに呼ぶんだぞ、聖也」  聖也さんのことは心配するのに、実の子である朝陽くんのことはどうでもいいのだろうか。高校生で一人暮らしなんて、私が言うのもなんだけど、危なくないのかなとか、親は不安になるものじゃないの?  ご両親が家に引っ込むと、この場には朝陽くんと私、そして聖也さんの三人が残された。事件の重要参考人がこんなふうに再会するなんて、おかしな話だ。  異様な静けさが私たちの間に漂い始めたとき、聖也さんがくすくすと笑いだした。 「突然来るから、何事かと思ったよ。それにしても、被害者の兄と加害者の娘が恋人同士って、笑えるんですけど。本気で一緒にいられると思ってんの? それをみんなが許すと思ってんの?」  言い返すことができなかった。真実がどうであれ、私たちがどうであれ、被害者の兄と加害者の娘が恋人同士なんて、世間からの風当たりは強くなるだろうから。 「……誰かの許可なんて必要ない」  朝陽くんはそう言い、私の手を引いて歩き出す。 「あ、伝え忘れてた。──三葉陽菜さん」  名前を呼ばれ、反射的に足を止めた私は聖也さんを振り返った。目が合うと笑いかけられ、背筋が凍る。 「お父さん、早く出られるといいね」  怒りというよりも、どうしてこんなことをするの?というショックが勝っていた。放心状態で立ち尽くしていると、朝陽くんが身を翻して、彼のもとへ足を踏み出す。 「朝陽くん!」  私は慌てて、繋いでいた手を引いた。聖也さんは「陽菜さん、さすが!」と拍手をしだす。ご両親の前と今とで態度ががらっと変わった聖也さんに、底知れない恐怖を感じた。 「兄さん、保護観察中でしょ? 今、問題を起こせば、また少年院に逆戻りだよ?」 「もしかして、わざと朝陽くんを煽ったの……? 居場所を守るために?」  心の底から、青砥聖也という人間が理解できなかった。なぜ、愛してくれる家族もいるのに、そこまで不安なのか。  聖也さんは実の父親からお母さんの愛を奪ったとか、お母さんに色目を使ってるとか、罵られて育ったのだと言っていた。実際には朝陽くんからそう聞いた。愛想を尽かしたお母さんは朝陽くんのお父さんと再婚し、それを見ていた聖也さんが愛は奪うものだと偏った価値観を持ってしまったのは、わからないでもないけど……。  家族から捨てられた朝陽くんと、父親が逮捕されただけでなく、男を連れ込み、目が見えなくなると聞いても反応ひとつ見せない母親に比べれば、どれだけ恵まれていることか。 「そこまでしないと守れない居場所なの?」  聖也さんは鬱陶しそうに「は?」と吐き捨てるように言った。 「もう十分、朝陽くんから奪ったはずなのに……奪っても奪っても、あなたは愛に飢えてる。ずっと、孤独のままなのね」 「……ねえ、あんた記憶ないんじゃなかったの? やっぱ、あんた……目障りだよ」  先ほどまで機嫌よく笑っていたというのに、聖也さんはスイッチを切り替えるかのように別人に変わる。 「陽菜先輩、気にしなくていい。行こう」  早くここから離れたい。そんな朝陽くんの気持ちを引かれる手から感じた。 ***  空が暮れ始めていた。濡れ鼠になった私たちは土手に腰掛け、目の前の黄金の絹糸が動くように流れる川を眺めている。 「ここ、俺たちが初めてまともに会話した場所なんだ」 「あ……うちの愛犬を探してくれたとき……だっけ?」  そうなんだ、と私は辺りを改めて見回し、頭ではなく心に刻む。また事故に遭って忘れたりでもしたら、朝陽くんを二度も悲しませてしまうから。 「……ごめんね、朝陽くん」  川から私に視線を移した朝陽くんは、静かに首を傾げた。 「堂々と一緒にいられるように、私たちの関係を誰よりも家族に許してもらいたかった。でも、そううまくはいかないものなんだね」  私と、それからきっと朝陽くんの頭の中にも、いちばん理解されたかった人たちに突き放されたときの言葉がこだましているはずだ。 『駄目よ……そんなの認められない……だって、出会っちゃいけなかったのよ……あなたたちは……』 『この世でいちばん会いたくなかったのに、どうして現れたのよ! もう、うちを引っ掻き回さないで……!』 『被害者の兄と加害者の娘が恋人同士って、笑えるんですけど。本気で一緒にいられると思ってんの? それをみんなが許すと思ってんの?』  私たちは夕日が反射して、無数の光の粒子が切なく飛び交っている水面を見つめながら、途方に暮れる。地面についていた手をお互いに近づけていって、そっと握り合った。 「……僕、家族はいちばん近くにいる他人だと思うんだ」  ふいに話し始めた朝陽くんを見つめる。悟ったようなその横顔と瞳には、諦めや寂しさが滲んでいた。 「別に、皮肉で言ってるわけじゃない。もちろん、家族は他の誰よりも特別な存在だとは思うよ。気に入らないことがあっても、喧嘩しても、まぁいいか、しょうがないよねって最終的には相手を許せたりする」  朝陽くんは立ち上がって、砂利のほうに歩いていく。石をひとつ拾って、手の中で転がしたり投げたりしている彼に私も近づいた。 「でも、あくまで許容できる範囲が広いってだけなんだ。しょうがないって割り切れないこともある。そういうモヤモヤが溜まってくると、どうしてわかってくれないの?って、苛立ちが湧いてくるんだ」  持っていた石を川に向かて投げる朝陽くん。石はぽんぽんと水の上を跳ね、どぼんっと川底に沈んでいった。 「子供は親の分身じゃないし、夫婦は血の繋がりがない本当の他人だ。わからないことはわからないし、理解できないことは理解できないのが普通なんだ。だけど、赤の他人に対してはそれで納得できるのに、相手が家族となるとそうはいかない。家族だからわかり合えるはずだって、そういう概念に縛られてしまう」  私も、そうなのかもしれない。お母さんにどれだけ邪険にされても、きっとわかり合えるはずだ。そう信じようとする間は苦しくて、家族という関係に縛られているように感じた。 「だから、ここに来てよかったです」 「え? 来なければよかった、じゃなくって?」 「はい。親を変えようとしたり、改心を求めるよりも、早く自立して自分の理想の家族を築く……それが自分が幸せになるための平和な解決方法なんだって気づけたから」  辿り着いた答えは悲しいものだったけれど、私はそれを間違いだとは思えなかった。何度も考えたことがある。お父さんが冤罪で捕まったと知るまでは、家族と縁を切ってひとりでも生きていってやるって。本気でそれしか幸せになる方法はないって思ってた。 「生き方は人それぞれ……だもんね。家族だからって、みんながみんな円満ってわけじゃない」  私も足元の石ころを拾い、川に向かって投げてみるけど、水面を一度も跳ねることなく沈んでしまう。 「はは、朝陽くんみたいにうまくはいかないな」 「コツがあるんだよ。こうやって、少し前屈みになって、低い位置からスライドさせるように投げるんだ」  そう言って、朝陽くんは石を投げて見せる。川の上を何回か跳ねながら、軽やかに走っていく小石をふたりで眺めた。 「こういう話、陽菜先輩にしか言えないな」  朝陽くんが言っているのは小石のことではなく、家族のことだ。 「家族は家族で、俺は俺だって言っても、たいていの人間は和解するべきだって説得してきたと思う。家族はこうあるべきとか、イメージを押し付けられる」 「和解できるように、私たちは十分頑張ったよ。だから、その上で朝陽くんが下した決断を他人がとやかく言う権利なんてない」  お互いに自然に向き合うように立つ。朝陽くんの真剣な瞳が強い意思の輝きを宿して煌めいていた。どんなに先が真っ暗でも、この輝きだけは見失わない気がした。 「陽菜先輩……僕は家族とはこれっきりだって決めた。だけど、聖也のことだけはこのままってわけにはいかない。陽菜先輩のお父さんが刑務所から出られて、できるだけ陽菜先輩の家族が壊れる前の形に戻るためには、あいつとは向き合い続けなきゃいけないから」 「朝陽くん……でも、私……聖也さんに会うの、怖いな。被害者の兄と加害者の娘である私たちが本気で一緒にいられると思ってんの? って……あれ、結構パンチがきいてたよね……」 「ごめん」  朝陽くんの目が悲しそうに萎み、私はその下瞼をそっと指先で撫でる。 「朝陽くんに謝らせたかったわけじゃないんだ、ごめんね……。それに、私のお母さんだって、あなたにひどいことを言ったよ。これじゃあ、延々と『ごめんね』のキャッチボールが続いちゃうね」 「そうだね」と、朝陽くんは苦笑いする。  ふいに沈黙が訪れ、川のせせらぎだけが迫ってきて──唐突に途切れた。辺りの音がすべて持ち去られたような静寂の中で、私たちは再び川のほうを向く。 「私たち……」 「僕たち……」  同時に声を発したあと、お互いに続くはずだった言葉は声にできなかった。 『一緒にいていいのかな?』  その言葉を口にしてしまったら、ここまで虚勢と維持だけで強がってきた私たちの心が崩れ落ちてしまう。  ふたり一緒にいるために、ここまで来た。もう、お互いの手を離さないと決めた。それでも迷ってしまう弱い心を守るように、私たちは固く手を繋いだ。  
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