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プロローグ
一番、混雑する時間は過ぎているけれど、もともと乗客の多い路線だから、座れることはない。
隣人と肩が触れ合わない程度の隙間を開けて立っていると、急に下腹が子宮に吸い込まれるような痛みを感じた。
ああ、まずい。
私は、そっと下腹に手を当てると、お願いします、落ち着いてください、と自分の子宮におまじないをかけた。
まあ、そんなおまじないぐらいで言うことを聞いてくれる子宮じゃないことは長年の付き合いでよくわかっている。
痛みはどんどんひどくなり、私の下半身は相当縮んで、上半身を支えられそうもない。
崩れ落ちないように、つり革を必死で掴んでいると、ねえ、とまろ味のある声が聞こえた。
「どうぞ、座ってちょうだい」
薄目を開けると、ストックと大きなリュックサックを抱えた年配のご婦人が目の前にいた。これから山登りにでも行くのだろうか。私は痛みを堪えるのに必死ですぐに返事できなかった。
「遠慮しないで。見ての通り、私は元気だから」
ご婦人は福々とした笑顔で立ち上がると、私を席へ押し座らせた。若者が年配者に席を譲らせるなんて、事情のわからない人が見たら眉を顰めるだろう。
でも、たしかに今、私は体調が悪く、ご婦人は元気だ。
私は会釈をすると、カバンから常備してある痛み止めを取り出し、これまた常備してある水筒の白湯で喉の奥へ流し込んだ。生暖かい液体が胃を満たす。これで大丈夫。しばらくしたら、痛みもひくはず。
小声でお礼を言うと、ご婦人は莞爾して、私への気遣いだろう、もう今のやりとりはなかったかのように、地図を取り出して眺め出した。
ほらね。世界は優しさで溢れている。辛い時は弱みを見せても良いじゃない。
私はまどろみながら、ご婦人の登山靴を眺めた。
会社の最寄駅に着く頃には、すっかりとはいかないものの、だいぶ痛みが和らいで、歩けそうだった。
ご婦人に会釈して、電車を降りると、私はいつも通り、改札を出て整備された歩道を進む。
私の勤めるハニービー英会話教室は、関東を中心に20の教室を抱える新興の英会話教室だ。
帰国子女でもないし留学経験もないけれど、私は英語が好きで、大学まで英語を学び、希望通りに英語に関わる仕事につけた。今は本社で広報担当だけど、いずれはテキスト開発に関わりたい、という夢もある。カバンにつけているハニービーのマスコットキャラクター、ミツバチのハニたんの限定チャームも誇らしい。
そう言えば、今日から新しいCOOが来るとか言っていたな。今までは創業者の五代乙士氏がCEOで、長男である五代桂史さんがCOOだった。でも、乙史CEOが勇退することになり、桂史COOがCEOに、そしてアメリカで働いていた次男が帰国してCOOに就任することになったらしい。
そこまで大きな会社じゃないから、私みたいな平社員でもCEOに声をかけてもらえることもある。乙史CEOは、若い時に世界一周の旅をして、外国語学習の楽しさに目覚めたという経歴の持ち主で、今でもヒッチハイクする旅人のように軽やかに若手の社員に話しかけてくれた。
桂史さんも同じように気さくな人だけど、二代目の重圧か、肩の力が抜け切らない雰囲気で同じ場にいると、とても緊張する。
新COOも兄の桂史さんと似ているのだろうか。だとしたら、会社の空気も少し変わるかもしれないな。
会社の手前の横断歩道で信号が青に変わるのを待っていると、後ろに殺気を感じた。武道の経験なんてないけれど、ど素人の私にも感じられる殺気。
何々?
恐る恐る振り返ると、目の前にはスーツを隙なく着込んだ背の高い男性が立っていた。年齢は30代半ばくらい?
全てのパーツが薄くて細いけど彫りが深いから、とてもエキゾチックな顔立ちで、一瞬、目を奪われる。
「おい、おまえ最低だな」
険のある言い方に、私はすぐ身構えた。ど素人さえも振り返らせる殺気は間違いなく、この人から出てる。
「高齢者に、席を譲らせて恥ずかしくないのか?」
あまりの言い方に、喉の奥がぎゅっとしまって、言葉が出ない。
「どうせ、ダイエットでもして、立ちくらみでも起こしたんだろう?」
違う、違う。子宮が痛くて立っていられなかったんだって。
「多少の不調くらい、自分でなんとかしろ。席を譲られたって固辞するべきだ」
自分でなんとかできるレベルな訳ないじゃない。
「あまつさえ、譲られて当然、なんて顔しやがって」
そんな顔、してませんけど?
「一体、あなたは、なんなんですか?」
矢継ぎ早に繰り出される非難に、やっと声が追いついた。
「確かに、私はご婦人に席を譲っていただきましたけど、なんで、あなたにそんな言い方されなきゃならないんですか? あなたに迷惑かけた訳じゃないのに」
「迷惑なら、しっかり被っている」
まさかの返答に、またもや、喉の奥がぎゅっとしまる。
「おまえ、ハニービーの社員だろ?」
無礼な男は、私のカバンにぶら下がるチャームを指さした。
え、このチャームがわかるってことは……。
「俺も今日から、ハニービーの社員だ」
無礼な男はスーツの内ポケットから携帯を取り出した。そこにはハニたんのストラップが付いている。
「おまえのようなクソ社員が一人でもいると、会社の評価はガタ落ちになるんだよ。まったく、久しぶりに日本に帰ってきて、勤務初日に、こんなクソ社員と出会うとはな。親父もなんでこんなクソ社員を雇ってんだよ」
え? きょうから? 日本に帰って? 初日? 親父?
「もしかして、あなたは」
「そうだ。俺は、今日からCOOに就任する、五代零士だ」
全身の毛穴から汗がどっと吹き出した。
「お前、名前は?」
名乗りたくない! でも、敵意剥き出しの声は、それを許さないだろう。
「な、半井、夏です」
「所属!」
「こ、広報です」
「半井夏、広報のクソ社員。覚えたからな!」
そう、吐き捨てると新COOは、横断歩道を渡り、本社の入るオフィスビルへ消えていった。
それから私は、青信号を3回ほど見送るまで動けなかった。
こうして私は、本来なら好印象を持ってもらわねばならない新COOに、クソ社員の烙印を押されたのだった。
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