裕福な家庭

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台所に立つ女性が、シンクの中で忙しく手を動かしている。 その目の前では、焼き魚を口に含み、スマートフォンを操作して白飯を食べる男の姿がある。 どこにでもある朝の夫婦の光景。 いや、見てわかるが、この家の女性――妻は専業主婦という今の時代では珍しく受け止められる立場だ。 二人に会話はなかった。 男――夫のスマートフォンから聞こえるニュースの声だけが、二人のいるリビングルームに聞こえている。 「あいつ、今日も部屋から出れないのか?」 スマートフォンの画面を見ながら、夫が何気なく訊ねた。 あいつとは、二人の息子のことだ。 今から数ヶ月前、二人の息子は不登校児になった。 小学五年生になった四月から、それまでと同じようにランドセルを揺らして家を出て行ったが、帰りのホームルームが終わるまで学校にいることができなかった。 両親も教師から見ても、特に息子がいじめられてるということなく、本人もそれを否定していた。 では、何故授業を受けられないのか? なんでも息子は、学校にいると疲れてしまうのだという。 何が疲れるのかを妻が問うと、息子は唸りながら、なんとなく、としか答えなかったようだ。 「うん。やっぱりまだ無理みたい」 「そうか」 訊ねておいて話を広げない。 そんな夫のことを、妻は無関心だと感じた。 実際に夫は、息子と向き合うことなく、今日も仕事へと行き、帰宅しても食事をして風呂に入って眠るだけだ。 妻が相談しようとしても、夫も息子と同じで、疲れているとだけ口にする。 全くよく似た親子だと、自分の家族ながら妻は思う。 「ねえ、あなた。こないだ話していたことだけど」 「なんだ? 話なら帰ってからにしてくれよ。朝は時間がないんだから」 そういって夜は疲れているというくせに。 妻はそう思いながらも、夫を無視して話を続けた。 彼女が口にしたこないだの話とは、もちろん息子のことだ。 このところ息子は、夫が仕事へ行くと部屋を出てきては妻のスマートフォンである動画サイトを見続けている。 息子は、そのサイトで見た動画に感化され、妻にこう言ってきた。 「これからの時代、学校なんてもう通う意味はない。個人がやりたいことをやって生きていく時代だ」 突然何を言い出すのかと、妻がきょとんとしていると、息子は彼女に動画を見せた。 そこには、麦わら帽子を被った息子と同年代くらいの男の子が、学校に行かない理由を革命家気取りで主張している。 大人気マンガの主人公を意識しているのか。 その麦わら帽子を被った男の子は、しきりに自由という言葉を口にしていた。 “好きなことで、生きていく”というこの動画サイトのキャッチコピーをまさに体現しようとでもいうのか。 妻から見ると、男の子の主張が正しいとは思えなかった。 だが、これが息子のいった“これからの時代”というものなのかもしれないとも考える。 それと、学校へ行かなくなってから息子が初めて元気を見せたので、妻はそんな我が子に反論することができなかった。 妻は夫に言葉を続ける。 「動画を作ってネットにあげたいから、パソコンをほしいって……。ねえ、あなたはどう思う? 私はいいかなって思っているんだけど」 「なんだそれ? ……あぁ、最近テレビでやってた子供のマネか。バカらしい」 夫は呆れながらテーブルから立つと、部屋を出て行こうとする。 妻はそんな夫の背中に話をかける。 「せっかくあの子もやる気になってるし、このまま引きこもったままでいるよりもいいかなって」 「お前までバカなこと言うなよ」 夫は、話しかけるなと言わんばかりに玄関へと歩いて行く。 そんな冷たい夫の背中を妻は追いかける。 「でも、あの子が自分から何かやりたいって言い出したのって初めてじゃない? 私は協力してあげたいって思うの。だからパソコンのこととか、他のこともいろいろ考えておいてよ」 「その前に、お前はあいつが学校へ行くように言えよ。ネット配信やりたいなら学校に行きながらでもできるし、あと動画を撮るだけならお前のスマホで十分だろ」 呆れた様子で革靴を履いた夫は、バタンと扉を閉めて家から出て行った。 残された妻は、誰もいない玄関を見つめながら肩を落とす。 「なんで……なんで何もしてくれないの……」 そう呟きながら妻は思う。 友人の中で誰よりも早く男性からプロポーズされ、その後に皆に祝福された結婚式を行った。 それから夫が高収入だということもあって、専業主婦として家をいることになった。 共働きが当たり前のこの時代に、なんて幸福なのだろうと家族からも友人からも羨ましがられた。 その後に、今の夫との子を無事に出産。 妻の周りにいる人間たちは皆、絵に描いたような幸せな人生だと、彼女と顔を合わすたびに口にしていた。 しかし、本当は彼女は仕事を辞めたくなかった。 けして給料が良いとはいえない会社だったが、妻にとって出版社で働くことは、自分のやりたいことだったのだ。 結婚前に、なんとか仕事を続けていけないかを夫に相談したものの、女性には家にいて欲しいという彼には逆らえず、彼女は仕事は辞めた。 そのことに後悔はない。 専業主婦になれるのは恵まれているのだからと、夫を支えて息子を、家を守るのだと、何度も自分に言い聞かせた。 それでも何か問題が起きても対処してくれない夫や、自分勝手な息子と暮らしていると考えてしまう。 あのとき――。 結婚式のときに、ウェディングドレスを着ている自分に、皆が口々にしていた言葉。 “おめでとう”とは、これからの自分の人生を縛る呪いの言葉ではなかったのかと。 幸福を味あわせ、思考を麻痺させる言葉ではなかったのかと。 「お母さん」 部屋のドアが開いた音が聞こえたと思って振り返ると、いつの間にか息子が彼女の真後ろにいた。 寝起きなのか、その両目には光がない。 そんな死んだ目をした息子を見て、妻は思わず身を震わせてしまう。 「お父さんには言ってくれた?」 「う、うん。でも、お父さん、今仕事で大変みたいだから、パソコンのことは夜にまた話してみる」 「えーまだちゃんと話してなかったの? もうっしっかりしてよぉ」 妻がまだ話をつけていなかったことに呆れている息子。 その顔を見た妻は、まだ小学生である息子の顔が夫と同じものに見えた。 了
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