二十.逃避

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二十.逃避

 どうしようもない現実から逃げたくて、たまらなかった。オットセイのように与えられたことをこなし、潤いのない時間だけが過ぎていく。  この生活に意味はあるのだろうか。  それとも端から求めてはいけないのだろうか。  分からないまま、浪費していく時間が耐えきれなくて、退職願を用意した。  新しい自分になりたかった。ここに留まっていては、決して掴めない未来を想像しながら、今夜も眠りについた。  駅前にこじんまりとしたコーヒーショップをやっている。会社的役割から言えば社長だが、コーヒーショップではオーナーという言葉がよく似合う。だからお客様やスタッフには「オーナー」と呼ばれている。  日の出と共に起き、開店準備をすると一気に忙しない朝がやってくる。通勤通学時間には、急ぎ足でお客様が立ち寄り、店内で楽しむことなく持ち帰る。  それもまた私の役割である。店内でまったりと楽しむだけがカフェブレイクではない。ただ一時の安らぎを与えることが役目だと自負している。  それが通勤時間だったり、出勤した会社のデスクだったり、学校だったりと場所は関係ない。ただ一杯のコーヒーに何かぬくもりを感じてもらえればそれでいい。 「オーナー、いつものオリジナルブレンドください」 「今日は少しお早いんですね」 「会社で待ってる人がいるんです」 「では、その方と朝食ですか?」 「はい、そんなところです」  バッグの片手に持たれた人気のサンドイッチ店の紙袋につい、目がいってしまった。  毎朝寄ってくれるこの女性は、お洒落で品があってキャリアウーマンという言葉がよく似合う。職業も勤務先も知らないが、この踏み込みすぎない距離感がどうにも心地いい。  ブラックコーヒーが好きな彼女は、スリーブを付けたカップだけを受け取り、戦場へと旅立っていく。  こうして何人も送り出し、朝のピーク時間が終わる。    一息つくために自分用のコーヒーを淹れると匂いにつられて、見慣れた顔が現れる。 「今日もいい香りですね」 「あれ? 出張じゃなかったの?」 「今朝、帰ってきました。これ、お土産です」 「ありがとう」  紙袋を開けると中にはダークチョコレートの外装が見えた。さすがに彼女は好みを理解している。  毎回、コーヒーのお供には、ダークチョコレートをつまむ。これは会社員時代から変わらない。すぐ隣で働いていた彼女は何度も目にしていたことだろう。 「秘書も大変ね。辞めたいとは思わないの?」 「性に合っているんでしょうね。副社長も優しいので困ってません。ただ……」 「これ、よければどうぞ。チョコのお礼」  言葉を遮るようにキャラメル・マキアートを渡す。甘いものが好きな彼女には、コーヒーも甘いものがいい。  昔からそうである。一緒に働いていたときも彼女はいつも甘いコーヒーだった。彼女の職場環境が変わっても好みまでは変わらない。  頬が緩んだ表情を緩めながら飲んでいる彼女は、愛くるしくていつまでもここに留めておきたくなってしまう。  この欲深さに毎回、戸惑いながら口にすることはない。そうしなければ、この歪で絶妙な関係は崩れてしまう。  細く長く続けばいい。  彼女には現実を生きていて欲しい。  会社から逃げた私を追い求めるのではなく、現状で輝いていて欲しい。逃げた私に資格などない。 「また、来てもいいですか」 「もちろん、待っているわ」  彼女も何かを抱えているに違いない。それを言葉にしないのは、わずかばかりの気遣いである。  秘書という仕事柄、悩みも多いことは知っている。元同僚として聞いてあげたいが、私には決して話せないことが多い。  取締役会で社長を解任された立場では、むやみに突っ込むことでもない。  ただ彼女が幸せならば、それで十分だった。  一息つける場所、それを提案することが今の役割である。  どうしても溢れ出してしまいそうなとき、彼女からきっと話してくれる。そう期待しながら、苦いチョコレートをかじった。  まだマスターではなく、社長だった頃、日々が分単位で動いていた。プライベートな時間はほとんどなく、ワーカホリックだった。  業績が伸びることが楽しくて、のめり込むには時間はかからなかった。  それも当然のことだった。 自分で立ち上げた会社が大きくなっていくことは、捨て猫を愛猫として育てていくことと同意だった。愛着が生まれ、快感さえ覚えていた。  それでも傲慢な経営者ではなかったと思う。きちんと部下の話を聞き入れ、形にしながら一歩一歩進んでいった。  リモートワークは加速していったし、職場環境も整えていった。部下にも恵まれ、順風満帆だった。  そんなとき、不穏な空気が流れ始める。 「これから業務提携を進めていく。そうすれば、業界シェアの上位に一気に食い込める。それに弱点だった利便性も解決できる」 「しかし社長。他の取締役は、慎重な姿勢です」 「知っているわ。だからこそ、反対できないくらいの利点が欲しいの」  そう言いながら、作り笑いをしたことは、今でも忘れることはできない。  思えば、このときが最後だったのかも知れない。もう後には引けなくなっていた。  しばらく硬直状態が続き、一向に決まることがない雰囲気の中、取締役会が開かれることになった。  保守的なメンバーである。業務提携の話は流れるかもしれない。派閥などは存在しないが、忖度は存在する。  案の定、業務提携は白紙になった。  私の力不足だった。肩を落としているともう一つ議題が上がった。それは内々で進めていたものらしく、反論の余地はなく、正式な書類に取締役のサインが並んでいた。表題は私の解任請求である。  見ただけで否決できないことを悟った。薄々と感じてはいたが、ここまで強硬手段を取るとは考えてもいなかった。  これで終わりか。  何か一言、ぶつけてやろうと意気こんでみたが、怒鳴ることさえできなった。深い溜め息と嫌悪感、屈辱が入り混じり、平常心を保つことが精一杯だった。取締役会が終わると早々に社長室へと戻った。  解任請求が可決されたからといって、すぐに社長職を奪われるわけではない。  表向きには経営方針の一新を掲げ、株価の暴落を防がなければならない。そのために周辺にも念入りに根回しをし、挨拶回りもしなくてはいけないだろう。  会社のために必要な半年間の猶予である。 「あなたはどうするの?」 「許されるのであれば、あなたについていきたいところですが」 「ありがとう。でもここに残って支えて欲しい」 「社長のいないこの会社にいる意味はあるのでしょうか」 「今は動揺しているだけ。すぐに慣れるわよ」 「……承知しました」  当初はあんなにも屈辱的で落胆していたのに今となっては安堵感さえある。やっと肩の荷が下りた。そう思うとどこか気楽だった。  会社が好きだった。学ばされたことは多かったし、ワーカホリックも進んでした。愛着も人一倍あると自負している。  それなのに私はここには残れない。代わりに秘書を残していくなんて、最低である。追い出されたようで、逃げたようでもあった。  この怒涛の半年間は、今でも鮮明に忘れることはできない。  裏切られたのに安堵している自分は、何か欠落しているのだろうか。  そう思い悩んだが、結論が出ることはなく、思考をやめた。かけがえのない居場所を奪われた、ただそれだけだった。  この先、どうしようか、  考えたとき、私に存在していたものは虚無だった。新事業を立ち上げるだけの気力もなければ、アイディアもない。  誰かの下で働くことも悪くないが、今更会社員に戻れるほど甘くなかった。それは心持ちだけでなく、あまりにも巨大化した企業の元社長を雇いたいなんて思うはずもない。  お陰と十分に暮らしていけるだけの貯蓄はある。このままセミリタイアして、外国で暮らそうか。  早急に下さなくていい決断は久しぶりで、こんなにも時間を持て余しても誰にも責任を問われない。  そんなとき、秘書から連絡があった。  もう引き継ぎは終わっており、今更聞くこともないはずである。そもそも新体制になったのだから、私の意見なんて必要もないはずである。  そこに書かれたメッセージは、いつぶりかの人の温度を感じた。 『お久しぶりです。社長が退職されてから一ヶ月が経ち、社長の存在の大きさを痛感します。もし可能ならば、プライベートとして、一度会っていただけませんか?』  なんてずるいのだろう。これでは断ることなんてできるはずがない。  本来は会わない方がいいのだ。もし誰かに見られたら、彼女の立場が危うくなる。私がまた何か画策してるとも捉えられかねない。  失っていく情が、また移ってしまう。迷いながらも送信ボタンをクリックした。 「おまねいただき、ありがとうございます」 「まさか、退職してまであなたと会うなんてね。不思議なものね」 「部下にプライベートへ踏み込ませないタイプですからね」 「何もないけどどうぞ」 「広い部屋ですね。ここに一人ですか?」 「セキュリティも兼ねてるわよ」 「これ、最近日本でも手に入るようになった貴重なチョコレートです。よければどうぞ」 「ありがとう。久しぶりにコーヒー淹れてくれない?」 「かしこまりました」  彼女が口元をほころばせながら、オープンキッチンへと向かう。初めて立つキッチンのはずなのに彼女にはしっくりと馴染んでおり、違和感はない。  いつもならプライベートな部分に触れられることを嫌うのに彼女に対しては嫌ではない。  どうしてだろう。  考えては見たものの、考えるだけ無駄だった。それだけ心を許している証拠以外何者でもない。  コーヒーを嬉々と用意している姿は、会社では見ることができなかった。  丁寧にコーヒを挽く音は小気味よく、芳醇な香りが部屋中に広がっていく。ある種のエンターテイメントが繰り広げられている。  その姿を窓際に置かれたコクーン状のハンギングチェアから眺める。  彼女を会社に残してきたことは正しかったのだろうか。ふと湧き上がってきた罪悪感が、蝕んでいく。  おそらく、相当な重圧がのしかかっているだろう。  守ってくれる人はいない。  もしかしたら私が背負う分も請け負っているのかもしれない。  そう思うとどこか憂いを感じた。 「ねぇ、仕事は楽しい?」 「そういえば最近、考えたことなかったですね。毎日が忙しすぎて」 「そう……ごめんね」 「なんで謝るんですか。心配しなくても休みはきっちり取得できているので、安心してください」  トレイを持って歩いてくるとテーブルにコーヒーとチョコレートを置いた。 「さぁ、冷めないうちに飲みましょう」  コーヒー豆は以前と違うはずなのに彼女の味がする。毎日飲んでいたそれに懐かしさを覚えながら、差し入れのチョコレートをつまんだ。  それは香ばしいカカオの香りと苦さが際立っていた。  このままでは、腐る。元秘書と会ってから、常々考えるようになった。  これはおそらく進展である。働いていた分、休息も必要だが、ワークホリックだった私には向いていない。  必要以上の贅沢をしなければ困らない生活ができるが、それではやはり物足りない。動き出さなくては。  そう決意したとき、彼女とのコーヒーが脳裏に浮かぶ。  極めてみようか。  そんな些細な好奇心から、人脈をたどってバリスタの師を探した。  都合が付けば、何度でも訪れ、プライベートレッスンを受けた。家でも暇さえあれば勉強をした。  コーヒー豆の産地や特徴、香りを引き立たせる淹れ方やラテアートまで学んだ。  どっぷりと浸かった。日常が染まった。いつでもコーヒーのことを考え、コーヒー中心の生活になった。美味しい店があると聞けば、外国まで足を運んだ。  高級なコーヒー豆にも惜しみなく財を注ぎ、納得するまで淹れ続けた。  そうして一年が経とうとした頃、師からある提案を受けた。 「珈琲店をやらないか?」 「お言葉ですが、どうして私に?」 「あなたなら経営の知識があるし、人を動かす力もある。コーヒーのセンスも悪くない」 「私はもうただのコーヒー好きですよ」 「それがいいんだよ。出会った数年前に比べて、憑物が落ちたようだ」  確かにあの頃はがむしゃらで、何もかもから逃げたかった。逃げてしまえば、重厚な責任を追わずにすむ。  忙しすぎる毎日に飽き飽きしていた。  私の言動ひとつで、巨額のお金が動き、数え切れないほどの人が動く。扱いきれないほどの影響力に蝕まれていた。  もう辞めてしまいたい。  勢いそのままに辞表を書いた。  しかしそれは使うことなく、シュレッダーへと飲み込まれた。  この話を受けたらまたあの責任を追わなければいけないのかもしれない。  規模は小さいが、何人かのスタッフや師の期待を裏切らないよう努めなければならない。  それでもこのビジネスチャンスを逃してはいけないと脳内では騒がしいほどの警鐘を鳴らしている。  コーヒーを仕事にする。趣味だったものが、ビジネスに変化する。  それからおおよそ二ヶ月後、珈琲店の社長になった。  慣れない業務に手一杯で、休日はあってないようなものだった。それなのに想像よりも忙しい日々に思わず笑みがもれてしまう。  やっぱり仕事が好きなのだ。  与えられた役割を全うすることに喜びを感じているのだ。  怠惰に過ごしていた日々に別れを告げ、仕事に明け暮れてた。  そんなとき、元秘書から連絡があった。 『先日はご連絡いただきありがとうございます。店舗にいらっしゃる日に顔を出したいと思います』  珈琲店をやるときになぜか、知らせなくてはいけないと思いたち、彼女にだけ連絡をいれた。  今の彼女は知らない。それでも彼女にはここが必要に思えた。  それはただ罪滅ぼしのエゴなのかもしれない。  全部、置いてきてしまった。  解任が決まった以上、やれることはやったが、辞めたあとが大変なことは容易に想像ができた。空中分解しそうな取締役たちをまとめられるのは、もう誰もいない。  本来、私と付き合うことも怪訝されるかもしれない。それでも知らせずにはいられなかった。  あとは彼女の判断に任せた。もしかしたら広い業界にいたせいで、噂は流れているかもしれない。それでも社長の肩書が消えた今、誰も連絡をよこすこともない。人は肩書に魅力を感じ、利害がなくなった途端離れていく。  コーヒーを淹れながら、客足が引いた店内を俯瞰する。  私はこれからここで勝負していく。いや、勝負していくのだろうか。  やりたいことをやっていくだけ。  できることをしていくだけ。  それだけで十分のように思えたし、満たされていた。  店の入口に人影が見える。その懐かしさと愛おしさに頬が緩む。  僅かに疲れの色が見える表情には、自然な微笑みが浮かんでいる。  ここに来てくれただけで、私は嬉しい。  これからは、私が淹れる番だ。
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