さようならくらい言わせてよ

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 三十年住んできた家は、鉄の槌と巨大な近代技術の賜物によって壊されていく。  長い間住んできた家は、老朽化によりもう住めなくなった。そこには亡き父と母との思い出がたくさん詰まっていた。  ベランダでは母とよく星を観察した。母は星が好きだったから。特に今でも覚えているのは蠍座の話。  その話は決してハッピーエンドとは言えなけれど、それでも母はその話ばかりをしてくれて、今でも記憶に残っている。  リビングでは父と相撲ととったことがある。毎回ボロボロに負けてたけど。  父は会社員だったけれど、会社員になる前は力士に憧れていたらしい。だから私はよく相撲に付き合わされていた。  子供と大人、その力の差は歴然で、いつも手を抜かれてたけど、楽しかった。  負けたのに楽しかったなんて、少しおかしな話かもしれないけど。  キッチンでは家族皆で料理をした。  初めて作ったのはカレーだったよね。あの時食べたカレーの味は今でも覚えている。  びっくりするくらい不味かったよね。  この家で過ごした三十年、ずっと楽しかった。  辛いことや苦しいこともあったけれど、この家で過ごす日々のおかげで、私は生きてこられたんだ。  毎日が、この家で過ごしてきた毎日が楽しかった。  だから最後くらい、見送らせてよ。  壊れていく家を、私は涙なしでは見れなかった。  もう少しくらい、一緒にいたかったな。  もう少しこの家で、思い出を作りたかったな。 「近くで見るのは危ない」  そう解体作業員の一人は言う。 「見ておきたいんです。思い出の家の最期を」  私は見ておきたかった。  三十年という長い間、私はここで過ごしてきたんだから。 「なら被っておけ」  そう言って作業員にヘルメットを被せられた。そのヘルメットには亡き父のにおいがする。  するわけなのにな…… 「さよなら……お父さん……」  流れる涙のにおいは、お母さんのにおい。  そんなわけなのにな…… 「さような……お母さん……」  ーーずっと楽しかった。  ーーずっと、ずっとずっと楽しかった。 「お父さん、お母さん。私はこれから精一杯生きていきます。だから……いってきます」
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