君と、もう少しだけ

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 早朝、まだ日がのぼりきらず、あたりは薄暗い。  白々とした空に空気もまだひんやりとしている。  田舎の朝は静かで、通りに車も走らない。  人の姿のない道を俺は、陽菜と二人で駅に向かって歩いている。  隣を歩く陽菜は何も話さない。ただ前を向いて背筋をまっすぐに大きな歩幅ですたすたと歩いている。  俺は早く駅に着きたくなくて、ついのろのろと歩みを進める。  けれど陽菜は早足で歩いているため、俺は彼女の後を追うような形になってしまう。 「なあ、本当に行くの?」  沈黙に耐えきれなくて、俺はつい言葉を発した。  俺の質問に陽菜は呆れかえった声をあげた。 「あのねえ。まだ言うの?」  そう言ってこちらを振り返った彼女は眉間に皺をよせ、心底嫌そうな顔をしていた。 「この話はもう何度もしたでしょう!」  陽菜はこの地を離れて東京へ行く。  一か月ほど前、東京へ行くと言われたときは本当に驚いた。  行かないでほしい。と再三言ったが、受け入れてもらえなかった。  陽菜の決意は固い。  話し合って、納得したはずだった。でも当日になってやはり行ってほしくないと思ってしまう。 「うん。でも……行ってほしくない」 「裕也。あなたねえ」  陽菜が腰に手をあて、目をつりあげて俺を睨みあげる。 「いい加減にして。子供じゃないのよ。あなた、もう20超えてるの。 お互い、別の場所でそれぞれ頑張るべきなのよ」  俺たちは学生の時から付き合っている。同じ地元で就職し、長い同棲生活を続けていた。  俺は俺たちの付き合いは順調なのだと思っていた。このままずっと付き合い続け、いつか時期が来たら結婚もするのだろうと思っていた。  けれど陽菜は違った。  俺たちの関係は依存だと、陽菜は言い切った。  私たちはお互いの存在に依存している。だから別れよう。  そう言った。けれど俺は思う。依存しているのは俺だけだ。  そして陽菜は俺を置いて、東京へ旅立ってしまうのだ。  目の前に橋が見えてきた。この橋を越えたら、その先に駅がある。 「……ここでいいよ」  橋の途中で急に足を止めて、陽菜が言った。 「見送りはここまででいい」  駅まで来るなということか。  あまり長く一緒にいると、また俺が何か言い出すかもしれないと警戒したのだろう。  陽菜はくるりと振り向いて、俺を見上げた。 「じゃあね。元気でね」 「……本当にこれっきりなの?」  情けない声が出た。  なんだか泣きそうになってきた。そんな俺を見て、陽菜が呆れたように大きく息をついた。 「そうよ。これっきり。これが最後」  そして冷たく突き放した。 「……」  だめだ。何を言ってももう陽菜は変わらない。これが最後。 「陽菜、お願いがある。最後に、……抱きしめさせて」  陽菜は驚いたように目を丸くした。そして少し考えると黙って両腕を広げた。  俺はその腕に導かれるように手を伸ばし、陽菜を強く抱きしめた。  これが最後。陽菜の体温を感じられる最後だ。  陽菜も最後だと思って気持ちが入ったのだろうか。強く抱きしめ返してくれた。  そして、何も言わずにすっと俺から離れた。  俺は彼女の表情に少しでも迷いがあることを期待した。  けれど彼女の表情は晴れ晴れとしていて、迷いなんて微塵もなかった。 「それじゃ。ばいばい」  彼女はくるりと身をひるがえし、駅に向かって歩き出した。  俺はその場にひとり残されて、橋の上から彼女の姿が見えなくなるのを見つめていた。  行ってしまった。  陽菜は俺の前から消えてしまった。  橋の欄干に手をついて、俺はうなだれた。  どうしてこうなってしまったのだろう。  別れたくなかった。  できるなら時間を戻してほしい。  朝日が昇り、あたりを明るく照らす。その光を俺は恨めし気に見上げる。  昇る太陽すら忌々しい。  橋から半身を乗り出して、俺は橋の下を見下ろす。  ここから落ちたら、どうなるだろう。  もういっそ、身投げしようか。  いやでも身投げなんてしたら、本当に陽菜と二度と会えなくなってしまう。  俺は橋の欄干を掴んだまま、ぎゅっと目を閉じた。  できるならもう一度、陽菜とやり直したい。  神様、もしいるのなら、どうか陽菜ともう一度会わせて。  そんなことを考えていると、唐突に俺の耳にどどどっと走る足音が聞こえてきた。  それはすごい勢いで近づいてくる。  なんだろう。  俺は目をあけ、そのほうを見ようとしたときだった。 「ばか~!!!」  すごい勢いで俺は横に突き飛ばされた。  地面に手をつき、何が起こったかわからずにいる俺に怒りの声が降ってきた。 「何考えているのよ!ばか!」  大きな声でののしられる。俺はしりもちをついたまま、見上げて茫然とした。  目の前に怒りで頬を赤くした陽菜がいる。  俺の前に仁王立ちで立つ陽菜は怒りまくっている。 「別れたからって、死のうとすることはないでしょう!あんた、本当にばかじゃないの!」  どうやら駅からこちらを見て、俺が橋から身投げしようとしていると勘違いしたらしい。  俺ははっとして橋の欄干を見た。  陽菜が帰ってきた。神様に俺の祈りが通じたのか。 「ちょっと聞いているの!」  陽菜がまだ怒っている。 「うん。聞いてるよ」 「いや、わかってないじゃない。何にやついているのよ」 「だって、陽菜がいるから」 「そりゃあ、いるわよ!あんたが身投げなんてしようとするから……って何抱き付いているのよ!」 「だって陽菜がいるから」 「意味わからないわよ!ばか!」  怒る陽菜をなだめながら、それでも俺は陽菜を抱きしめ続けた。  怒っている陽菜も、笑っている陽菜も、勝気で正直で、ストレートに物を言う陽菜も、みんな抱きしめたい。  通じた祈りに感謝して、俺は陽菜を強く強く抱きしめた。  どうか、どうかもう少しだけ、このままでいさせて。
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