その山

1/1
前へ
/1ページ
次へ
小さな村に子供が産まれた。 季節は春だったが、その村は百年も前からずっと冬だった。「春」子供を抱く母親が声をかける。四月に産まれたその男子は、春という名前を貰った。春が産まれてから、不思議と吹雪は威力を増していた。 「もう許さない」ある日一人の老婆が言った。「火をつけてやる、あの蛇め」老婆は太い木枝に火を灯すと、吹雪の中を歩き始めた。「ばあちゃん、駄目だ、どうしようもない。」村人が首を振るが、老婆の怒りで火は大きくなり炎となった。「いや、許せん、あれは神ではない。」村人はもう何も言わなかった。皆同じなのだ、老婆が歩く先にある、ひとつの山へ、皆の怒りが炎となり、向かっていた。 それは白ヶ岳と呼んだり、神ヶ岳と呼んだりした。平坦な村にある、唯一の山だった。 春になれば桜を纏い、夏になれば川を寄越し、秋になると実を落として、冬には静かに眠る山であった。村人が望めば温かい風もよこしたし、美しい雨さえ呼んでくれた。百年前までは。 百年前、七千回目の冬の時、何があったか、山は心を閉ざした。村の最年長は、九十になった今、その時を知るものはいない。ただ、村人には、山への怒りが残り、山には静かに眠り続ける白蛇がいるだけであった。 「燃えて永遠に消えるがいい」老婆の嗄れた声が山の根に響いて村が揺れる。投げた炎は生きるように山の中腹に泳いでいき、枯れ木に火をつけた。途端、吹雪が細く高く天まで舞い上がり、炎に向かってまっすぐと落ちてきた。 「蛇」老婆が睨みつけた先には、どぐろを巻いた白蛇が山の穴の中で眠っている。「蛇!」声に反応したのか、白蛇は薄らと目を開けたが、瞬間、吹雪が山を囲い何も見えなくなった。 「おばぁ!」村人が叫ぶ、老婆の身体が宙に投げ出された。冷たい風が、遠くから見守る村人の身体を突き刺すように吹きついた。何も見えなくなり、次に目を開けると、すぐ側に老婆が倒れていた。 「生きてる?」「ああ、危ない、誰かお湯を」皆が一斉に慌てるように動き出す。二歳になった春が、不思議そうに山を見つめていた。 「最近変な夢を見ます。」三歳で随分はっきり喋る子だと大人は思った。「夢ではないと思います、とにかく山に行かなくては。」春は理由も夢の内容も話さなかった。大人の反対を振り切り、その日から毎日、家の中で育てた小さな緑の草をひとつ持って山に入った。 不思議な歌をくちづさみながら、春は毎日山に入り、ひとつ、またひとつと草を埋めた。春が草を埋めると、決まって山は苦しそうに鳴くのだった。 それからまた七年も経ち、春は十歳になった。ひとつの家を一人で持ち、沢山の植物を育てた。そして不思議な歌で紙を染めて、小さな風車をつくるのだった。 風車の数が百になったある日、春は母親の元を尋ねた。「お母さんさようなら。」不躾に恐ろしいことを言うので、母親は必死で我が子を抱きしめた。「どんな夢を見たの?」「沢山の記憶を見ました。そして思い出した。」母親は春の顔を覗き込み、一体何を思い出したのかと見透かそうと必死になった。「沢山の色がありました。皆の笑顔もありました。」 そう言うと、春は立ち上がり、母親にひとつ風車を持たせ、歌いながら山まで歩き始めた。山に入るとひとつ、ひとつ、と袋から風車を取り出し、山に挿していく。吹雪の中、風車は回ることなくしっかりとたっていた。「何をしに来た」途中、春の隣を歩いていた蜘蛛が聞く。意思のやどった強い幾つもの目が、春を捉えていたが、ふとそれも吹雪に消えて見えなくなる。 山の中腹、小さな穴の中に、白蛇はいた。 しっかりと目を閉じて、春を視ていた。 「どうぞ」春は残りの風車を全てその場にさしていく。「もっと色を知っていれば良いのですが忘れてしまいました。なんせ百年も前なので。」 白蛇は何も答えず、雪を振らせているようだった。 「私はですね、春といいます。十年前に春という名前を頂いて産まれました。不思議と父はおりません。母が突然身ごもりまして、私が産まれました。」春が話し始めると、風車がゆっくりとまわり始め、雪を溶かしていく。白蛇は目を開いて春を見た。 「私は忘れていましたが、すぐに思い出しました。ずっと産まれてきたかったのですが、どうも簡単ではなくて、一人狭い暗闇の中で迷子になっておりました。」白蛇がゆっくりと穴からでてきて、近くの木に絡みついた。「暗闇は寂しい。冬の暗闇は寂しい、私はあの日、いつものようにあなたに風車を届けました。」 「私は、桜ですよ。」途端、白蛇は口を開けて春を飲み込もうと凄んだ。「帰り道、私の不注意で転びまして、死にました。それを見つけた母親はあなたのせいだと思ったんです。私は春を運ぶ子供だったので、大切にされていました。勘違いした村人はあなたに火をつけました。」 「ごめんね。」 春の姿が愛らしい少女となり、白蛇は口を閉じて身を引いた。 「わたしは春をうしなった」白蛇の声は風のようだった。「人がうばった」少女の姿をした春は首を振ると困ったように声を上げて笑った。 「私よ、私が転んでしまったのに。」そしてうっとりと輝く目で白蛇をみて、手を差し伸べた。 「人はあなたを愛していたし、あなたも人を愛していたのにね。」白蛇はその手に絡みつく。 「百年も待たせて、ごめんね。」 山が一瞬息をとめたかと思うと、大きな身震いをして雪を飛ばしてしまった。吹雪はやんで、風車が激しくまわり始める。白蛇は、大きく口を開けると、「みのれ」と、大地を揺るがすような音をだしてみせた。 少女と白蛇は浮くように倒れ、それはもう目にも止まらぬ速さで、大きな桜の木となっていく。回る風車からは春の風が吹いて枯れ木を起こした。 「ああ、春が…春が、山と人を、繋いでくれた」 母親の手元で風車が回る。足元の大地から、青々とした草が家を持ち上げるほど茂っていく。山から一雫、水滴が落ちるとそれは美しい川となった。 「なんとまぁ!しようも無い喧嘩を百年も!」桜となった白蛇と少女が高らかに笑うと、風に乗った桜の花びらが山を包んだ。 「復活祭だあ」 老婆が叫ぶと、村人が湧いた。春が歌っていたあの不思議な歌を、何故かみんな知っていた。 山の中から二人の歌う声がする。 白ヶ岳とよんだり、神ヶ岳とよんだ山があった。 山は人に恵をあたえ、人は山に季節を届けた。助け合い、愛し合い、命をめぐらせた。一年に一度、春の訪れには山を囲んで歌を歌った。 何千年も昔から変わらない歌を。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加