第一話 一人のジプシー

1/4
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

第一話 一人のジプシー

「え、おばちゃん、お店辞めちゃうの?」 「そうなの、辞めちゃうの。来月末に閉めるから次のお店探してね」  子どもの頃から通っていた理容院の閉業を告げられたのは、後頭部を刈り上げられているときだった。今日はやけに短くするなあと思っていたら、そんな爆弾発言。俺は途方にくれた。 「え、困る」  咄嗟に口をついて出た言葉はそれだけだった。おばちゃんは「あらー」と笑う。 「春くんだったらどこの理容院でも美容院でも大丈夫よ、顔がいいもの」 「いや、困るよ、おばちゃん。俺、人見知りなんだよ」 「三十にもなって馬鹿みたいなこと言わないの」 「三十になろうが人見知りは人見知りだよ。えー、まじで? まじで辞めちゃうの?」  おばちゃんは鏡越しににっこり笑った。俺はがっくりした。 「だから春くんの頭剃るのもこれが最後よ」 「じゃあ、なるべく長持ちするようにしてよ……坊主でもいい……」 「坊主はあんまり長持ちしないのよ。半年、なんとなくごまかせるようにはしとくわね」 「……えー、困るよ、おばちゃーん……」  途方にくれて俺が何度もそう言っても、おばちゃんは何度もにっこりするだけだった。俺は会計のときに「おばちゃん、好きな花とかお菓子とかある?」と聞くと「そうねえ、お米とお酒かしらねえ」と言う。こういうところがとても楽だ。  お金を支払ってすぐに百貨店に行き、日持ちするお菓子と四合瓶で日本酒を数本、米屋で新米をニキロずつ買い、最後にバラの花束を買って店に戻った。  おばちゃんはやっぱりにっこりした。 「春くんは大人になったねえ」 「おばちゃんはずっと変わんないよ」 「あら、そう? うふふ。ありがとうね、たくさん」 「俺ばっかりもらってたから、ほんのちょっとのお返しだよ。……で、おばちゃん、実は辞めないとか……ない?」  おばちゃんはにっこりした。俺はがっくりした。 「大丈夫だって、春くん」 「不安だよー……おばちゃん以外に髪任せられないよー」 「あらあら可愛い」  おばちゃんにハグをする。  そういえば、いつの間にか俺の方が背が高くなっていた。最初は子ども用の椅子で切ってもらっていたはずなのに、今じゃ大人用の椅子でも足が余るし、おばちゃんは台にのって俺の髪を整えていた。  そうなるぐらい長い間、お世話になった。 「だって二十五年切ってもらってたんだよ?」 「そうねえ。でも春くんの人生はここからが長いのよ」 「困るよー……」  そうして、……しかし、おばちゃんは店を辞めてしまった。俺は初めてネット検索で『美容院 おすすめ』なんてのを検索することになった。  おばちゃんのいうとおり、どの美容院でも俺の顔はもてはやされた。なんでも似合うなどと言われて無茶苦茶な髪型にされたり、変な色にされたり、美容院でしかセットできない髪にされたり、美容院から出た瞬間から無限にキャッチに声かけられたり……どの美容院も一度行くだけでいやになった。  結果、二ヶ月に一度は行っていた美容院からどんどん足が遠ざかり……そうこうしている内に気がついたらもう、二年。 「まいったな、……」  俺は伸びた前髪をかきあげて、ピンで止める。後ろ髪を結んで、セーターを着る。鏡を見て、ため息。  この二年の間に仕事のポジションが上がり、給与も上がり、部下も増えた。太らないように気を付けているから、告白されることも未だに増える一方だし、モテないってことはない。  しかし、『趣味』の方がすこぶる調子が悪い。  年齢が上がったのも要因だろうが、普段は告白されることを考えると、初見の見た目が悪いのだろう。ということは多分この、浪人生みたいな髪も要因だろう。  しかし、どうしたらいいのかさっぱりわからない。 「はあ……美容院苦手なんだよなあ……」  つまり、俺は立派な『美容院ジプシー』となっていたのである。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!