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「髪を切りたい、今すぐに、早急に、……」
「久住さん、今週それしか言ってないスよ」
職場の後輩の坂本くんにそうつっこまれて、もう限界だと理解した。ピンを外し、伸びた前髪を横に流す。前髪が耳にかけられる長さなんてもう最悪である。
「坂本くん、おすすめの美容院ある?」
「俺の頭を見てから言ってくれます? 俺のとこだと、バキバキのヤンキースタイルにされるスよ」
坂本くんの頭を見ると、反りの入ったリーゼントだった。
そういえば彼と歩いていると道を開けられることが多いのだった。彼のモフとした前髪に人差し指を挿し入れてみる。固い。
「ちなみにリーゼントじゃなくってー、ポンパドールつーんスよ」
「へえ、可愛いね。これどうなってんの?」
「お、セットしてみます?」
「俺でもできんの? じゃあやってー」
結果として、この後、俺たちは社内でも道を開けられるようになった。どうやら俺はポンパドールは似合わないらしい。坂本くんは俺を指差して「びびられてるじゃないすか」と楽しそうだ。
彼の左耳は耳たぶがちぎれていて、古い傷になっている。その首や腕にも薄く傷が残っている。
聞いたことはないけど前に何かあったのだろう。雨の日や気圧変化の大きい日は彼はいつも顔色が悪いから、今年一、気圧変化が大きい今日、楽しそうでよかったと思った。
だからとっとと帰すことにした。
「坂本くん、定時だからもう上がって」
「え、なんでスか?」
「残業たくさんさせると俺が怒られるから。あ、それでな、これあげるよ。使い捨てのカイロ。腹あっためて寝な。あと目にあてるやつ。これもあったかいから。あと、これもあげる。この間お客さんがくれたポプリ。よく寝れるんだって、ラベンダーで……あ、待て。そういえばよく寝れるっていうお茶ももらったんだよ……」
「いやいや、多い、多いスよ、そんないらねって……」
仕事は残っていたけど坂本くんは定時に上がらせて、ここ一ヶ月集めていた安眠グッズを持って帰らせた。今日は彼がよく寝れるといいなあと思いつつ、残っていた仕事を始める。仕事は大体、定時以降の方が進むのだ。
コーヒーを飲みながら残業を楽しんでいると「久住くん」と声をかけられた。振り向けば、同期の篠田さんだった。
彼女は俺と同じエンジニア職で入社し、今はマネジメント職に移った人だ。技術の話もできるし、金の話もできるから社内で重宝されている、俺の代の出世株だ。彼女は周りを見てから俺の耳に口を寄せた。
「今時間ある? 坂本くんがどうか、聞きたいんだけど」
「どうかって?」
「久住くんの下について半年でしょ。私、この事業部の一番偉い人だから、一応ね」
「あー、そういうこと。待ってて、会議室とるよ」
「忙しいときにごめんね」
「ンン、大丈夫」
俺がシステムから会議室予約をしていると、彼女がモフと俺の前髪をつついた。
「似合うっしょ、ポンパドール」
「え、リーゼントじゃないの、これ?」
「違うんだってさ、この前髪の部分はポンパドールって言うんだって」
「アハ、可愛い。久住くん、なんでも似合うね」
「そんなことないよ……まあ、うちの会社に服飾規定なくてよかったなあ……」
会議室の予約をして立ち上がる。
立ち上がると彼女は俺の肩より小さい。
彼女の頬に、抜けた睫がついていた。親指でぬぐうようにして取ると、彼女の奥二重の目が俺を睨んでいた。
「睫ついてたから……」
「マネージャー研修受けたでしょ。そういうのセクハラ。触らないで、『ついてますよ』って言うの。久住くん、ちゃんとして」
そういえばそうだった。頭を下げる。
「ごめん。ヤリチンなの滲み出してしまって……」
「反省してないでしょ。いつまでも私が叱ってあげられるわけじゃないのよ」
彼女が踵を返して歩きだしてしまうのでその後を追う。華奢な肩をしていて、骨張った足首をしている彼女の横を歩きながら、「待って」と言うと「反省しなきゃやーよ」と笑われた。
「反省してる、本当。ごめん。篠田さんに見捨てられたら俺マジで困るのよ……『見分けつかねえんだから』……」
「……会議室は、どこ借りたの?」
「Aの6」
「コーヒー取ってから行こうかな。久住くんは?」
彼女が俺を見上げて目を細める。
彼女のこういうところに、俺は、本当に助かっている。
「ありがとう、篠田さん」
「いいの。久住くん、大変なのわかってるしね」
「……ありがと」
「じゃあコーヒー取っていこう。坂本くんの話もだけど、久住くんの話もそろそろ聞きたかったから」
俺がもう一度お礼を言うと、彼女は「しつこいなあ」と笑ってくれた。その笑顔が判別できるようになったのは一緒に働いて、六年経ってからなのだから、本当に情けない話だ。
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