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第二話 小柄な男
土曜日の朝にランニングに家を出て、三分ほど走ったところで胡蝶蘭が目に入った。その、小さめな胡蝶蘭はガラス張りの路面点の前に置かれている。
走り寄り、その店を見上げる。
「『美容院マグノリア』……あ、今週オープンしたんだ」
水曜日にオープンしたばかりの店らしい。だから店前に無造作に置かれた胡蝶蘭の花びらにも痛みがないのだろう。
中を覗き込むと、席が二席あるだけの、小規模な美容院だった。北欧風の店内は、電気がついていなくても、白い壁や無垢材の床のおかげで明るく見える。店の玄関近くに置かれた三人がけぐらいのソファーに置かれた子熊のぬいぐるみがやけにリアルでちょっとびびる。
壁にかけられた値段表を見ると、相場より少し高い。けれど、その分、カラーやカットにこだわりがあるようだ。多分、チェーンではなく個人事業主なのだろう。
「……ここで、いいか」
営業時間まであと二時間あった。俺はランニングを再開して、二時間後にその店の前に戻った。
店内には明かりがともされ、カウンターに一人の男性が立っていた。彼は俺に気がつくと、口元に笑みを浮かべた。薄い桃色の唇だ。俺は店内を見てから、ドアを薄く開けた。
「予約とかしてないんだけと、今日、いきなり切ってもらうことできるかな?」
二重の丸い瞳をしている。彼のその瞳がきょろきょろと動いたあと、俺に定まる。
「あ、えーと、……二時間後なら空いてます」
「じゃあそこで予約させて」
「……お名前うかがっても?」
「久住。久住、春。久しく住むスプリング。わかる?」
「はい、久住さま。お待ちしております」
「ん、よろしく、えーっと、……」
彼の胸元にあった名札の「『井上』くん」と呼ぶと、彼は「……つっ、太郎です」と言った。
「太郎? なにが?」
「あ、その、……井上朔太郎と申します」
「ふうん、そうなの? じゃあ朔太郎くん、また後で」
「あ、はい、お待ちしております。久住さま」
彼が深く頭を下げたときに見えるうなじがきれいだった。
俺は店の扉を閉めて、走って三分の家に戻りシャワーを浴びた。長い髪を適当に乾かしながら、鏡に映った自分の顔を見る。今日も一つ一つのパーツが気になって、全体がわからない。
「……井上、朔太郎……? 聞き覚えがないな……」
なのに、なんとなく、覚えがあるような気がした。俺がこう思うということは、多分、会ったことがあるのだろう。だけど、思い出せない。目を閉じても、こめかみをマッサージしてみても、さっぱりだ。
「……会ったことあるなら、向こうが言うだろ。どうせ、一回切ってもらうだけなんだし……」
俺は思い出すことは諦めて、着替えて予約時間までのんびりと海外ドラマを見て過ごした。
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