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一度、家に帰ってから夜に出直した。先にカフェを覗いた。閉店間際で客が少ない。歩に「メニュー開発の参考にと思いまして」と、抹茶ティラミスを渡した。歩は、すぐに人気店の物だと気づき「買うの大変だったでしょう?」と言った。龍馬は大したことではないと伝えた。サロンの客が全員出たので、オーナーが迎えにきてくれた。
将棋教室を開いている関係で、熱心な子が、月極の会費を払って放課後に来る。子供が来た時はオーナーが将棋盤を運ぶらしい。
「うちの将棋盤は、そこそこの値段のものにしてあるんですよ。駒も手彫りなので数万円します」
龍馬が思っていたより、ずっと高価だった。分厚い板にマス目があるだけなのに、スペックのいいPCと変わらない値段だ。
「値の張るものは、やはり良いんです。数を揃えるために妥協しました」
オーナーはかなりの資産家のようだ。だから、呑気なのかもしれない。
追加の情報収集も終わり棋譜も受け取った後で、紹介したい人がいると言われた。常連の中に現役の刑事がいるらしく、自分が動く訳にはいかがないが、行き詰まったら相談にのると申し出があったらしい。
悪いことをしていなくても、刑事とは会いたくないものだ。龍馬は「今のところは大丈夫です」と、断った。
翌日も、龍馬は俊也の家に行った。話をする前にラーメンを食べ、俊也は機嫌がよい。マンションに戻ってすぐに、棋譜に目を通したいというので、クリアファイルごと渡した。
俊也が棋譜を確認している間、龍馬は今までに集めた情報をもう一度、整理してみることにした。調査内容のメモも見返した。やはり疑わしいのは、サロンに来る回数が多かった人物だ。動機も重要かもしれないが、やはり実行可能でなければならない。夜中に忍び込んで作業をしない限り、一日ですべて抜き取るのは無理なのだ。
サロンの中の様子を思い浮かべた。オーナーが将棋をさすときは、常に受付から一番近い席で、入り口が目に入る側にいると聞いた。受付を済ませ、棚から将棋盤をとって好みの席に移動する。相手がいなければ、人の対局を見て過ごしたり、棋譜を再現しながらだれかが来るのを待つ。龍馬は一つの可能性を思いついた。使った駒をしまう際に銀を抜いて、棚に返すときに下段の駒箱と入れ替えれば、それほど時間がかからない。
棋譜を確認していた俊也が「これか」と呟いた。銀の使い方で勝敗が決まってしまった対局を特定したらしい。
「まさに、銀は成らずに好手ありやなあ」
龍馬は智久が語った銀の特性を思い出した。
「ああ、斜め後ろに行けるままの方が良かったんか」
俊也が頷いた。
「銀不成なら、詰めろがかかっていたのに、そこに気づかなかった」
銀を成らせてしまった人物は『F』だった。入退店の記録を確認すると毎営業日来ていたうちの一人だった。
「Fが怪しいけれど、問題は、そんなことくらいで、銀を盗んだりするかってことやな」
俊也の意見はもっともだった。俊也が「そっちも見せて」と、龍馬の持っているメモ帳を指さした。
俊也は難しい顔をして、メモをめくっていく。
「なあ、龍馬。将棋盤の収納棚は見たまま描き取ったんやな?」
俊也が顔を上げた。見たこともない鋭い目を向けられ龍馬は一瞬息をとめた。頷く。
「オーナーは、ええ人か?」
数回しかあったことはないが、人は良さそうだ。龍馬は「多分」と返した。
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