価値

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価値

 医師や看護師が病室のなかを動きまわる。心臓マッサージをし、点滴をなにやらいじる。それもこれもエヌ氏の父親のせいだ。  どう見ても病状が回復する見込みはない。医師からも、息子であるエヌ氏ですら、安らかに死を待つのがよいと本人を説得したのだが、父親はそれをよしとしなかった。指定の日時まで確実に生きたいといいだしたのである。  それが今夜の零時ちょうどだ。あと数十分もない。その時間をすぎればすぐに死んでもかまわないというのだから、こちらは意味がわからない。いったい、エヌ氏の父親はなにを目指しているのか。  病室のすみで壁に寄りかかりながら物思いにふけっていると、急に父親が目を開けた。てっきりもう目を覚まさないものだと思っていたから、医師や看護師がぎょっとする。父親の目線がエヌ氏を呼んでいた。ベッドへ近寄ると、なにかしゃべりたそうに口を動かしている。  エヌ氏は父親の顔に耳を近づけた。 「最後に言っておきたいことがある。ひとがいるとまずい」  予想外にはっきり意見を言うのでおどろいた。だが、文字どおり父親の最後の願いである。エヌ氏は医師たちに部屋から出ていってもらった。不測の事態が起きても父親の指定した時間まであと十数分だ。それくらいの誤差なら大目に見てくれるだろう。  静かになった病室でエヌ氏は父親の話を聞く。 「話したいこととはなんです」 「いまは何時だ」 「日付が変わるまであと十分ほどです」 「ちょうどいい時間に目覚めたようだ。われながら完璧だ」  父親が満足げに笑う。エヌ氏は時計を見ながらたずねた。 「それで、肝心の話はなんなのです。伝えたいことがあるなら急いだほうが」 「そうあわてるな。時間のかかることではない」  やたら流暢に言葉をしゃべる。ろうそくと同じで死ぬ直前の人間も一瞬元気になるのだろうか。 「じつはわたしには死ぬ前にやりたいことがあった」 「なんだ。そんなことならはやくいってくれればよかったのに。いまからじゃ協力できるかどうか」 「ばか。こんな死に際に頼むやつがあるか。すでにほぼ済ませてある」 「それはよかった。思い残すことなくこの世を去れますね」  エヌ氏の言葉に父親はすこし引っかかりを感じたようだが、時間がないので深く考えないようにした。 「そのやりたいことだが――」もったいぶって父親はたっぷりと間をとる。「完全犯罪だ」  思いもしない単語が飛びだした。いよいよ意識がもうろうとしてきたのではと、父親の顔を覗きこむ。 「ひとをじろじろ見るな」 「しかし、完全犯罪とは。なにをやるつもりで。ああ、もうやったのでしたっけ。その、いったいなにをしでかしたのです。わたしに迷惑が及ぶようでは困りますよ」 「盗みだ。ある屋敷に忍びこんで大金を盗んだ」 「や、なんてことを。捕まってもしりませんよ」 「心配するな。いまも自由の身ではないか。わたしがしたのは完全犯罪だ。ばれることもなければ捕まることもない」 「まあ、理屈の上ではそうでしょうが」  だれかに聞かれていないかと、エヌ氏が部屋を見回す。夜の静けさが逆に不安だ。 「しかし、さっき言ったようにわたしの計画は完全にすんだわけではない」 「どういう意味です」 「事件の時効が今日の零時なのだ。つまり、あと数分でわたしは完全犯罪を成しとげる」  父親が延命に執着していた理由がやっとわかった。時効まで生きて、はじめて完全犯罪の達成となる。手間のかかることをしてくれたものだ。 「このぶんだと、とくに障害もなくわたしの計画は完遂されそうだ」 「しかし、いつの間にそんな犯罪をしていたのです。そんなそぶりはありませんでした」 「ふふ、身内に気づかれるようでは完全犯罪など夢のまた夢。細心の注意を払ってすばやく行ったのだ。だが、お前にその手法を教えるつもりはない。自分の子どもを犯罪者にする親などほめられたものではないからな」  完全犯罪をたくらむ親も同類ではないかと思ったが、死を前にしているので黙っておいた。それにいまのところ父親が本当に犯罪をしたのか証拠がない。人生最後の妄想かもしれない。だとしたら、つき合ってやるのがせめてもの務めだ。 「盗んだ金はどうしたのです。景気がよくなった感じはしませんでしたが」 「それはそうだ。下手に使ったらそこから足がついてしまう。だれも知らないわたしだけの場所に隠してある。金が発見されていないところを見ると、わたしの考えた隠し場所は正しかったようだ。さて、そろそろ時間か」  父親がつぶやく。時計は零時まであと数十秒を示していた。そのことを父親に伝えると、これ以上話すことはないとばかりに目をつむった。おだやかに時効のときを待つ。  日付が変わった。めでたく時効成立だ。父親の鼓動がゆっくりになる。 「完全犯罪を達成した。心残りはなにもない」  いまにもあの世へ旅立ちそうな父親にエヌ氏がたずねる。 「そういえばいくら盗んだのです」  目的を達した父親は生気を失っていた。くちびるはわずかしか動かない。耳を近づけないと言葉が聞きとれなかった。ただ、エヌ氏が聞いた金額は衝撃だった。ひとひとりが一生楽に暮らせる額だ。そんな大それた犯罪をしていたとは想定外である。 「盗んだ金はどこに隠したのです。もう時効はすぎたのです。わたしになら教えてくれてもいいでしょう」  隠し場所を聞きだそうと必死になる。もし、父親の話が真実なら大損だ。その金を使って人生を快適にすごせるかどうかの瀬戸際である。  エヌ氏は覆いかぶさるように密着し、息を止めて父親の言葉を待った。しかし、聞こえてくるのはだんだんと弱くなる心臓の鼓動だけ。ついに隠し場所を話すことなく父親は亡くなった。 「そんな。起きてください。まだやり残したことがあるはずです」  エヌ氏の声に医者が入ってくる。動かなくなった父親を見て医者たちは察したようだ。しかし、エヌ氏にとっては察しがよくては困る。 「先生、どうにかして父親を蘇生させてください。まだ、生きてもらう必要があるのです」 「まあまあ、落ちついてください。親を亡くして衝撃を受ける気持ちはわかります。ですが、あなたも賛同していたではないですか。苦しまずに楽に送ってあげようと。いままでは本人の意思もあり、延命してきましたが、その期限はすぎました。静かに見送ってあげましょう」  理路整然と諭されては反論の余地もない。エヌ氏は引きさがった。それにまだ、父親の話が本当だと決まったわけではない。そう言いきかせて自分を納得させた。  それから数日後、エヌ氏はあと片づけの合間にとある新聞記事を目にした。そこには先日時効となった盗難事件が取りあげられていた。その被害額はあの夜父親が口にした額と同額だった。 「まさか、父親のいっていたことは事実だったのか」  体の力が抜ける。隠した金を探そうにも手がかりはない。なんといっても完全犯罪だ。警察が見つけられなかったものを、エヌ氏が発見できるわけがない。  あとすこし父親が生きていてくれれば、その場所を聞きだせたかもしれないと思うとやりきれない気分だ。 〈了〉
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