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深夜の熱
近藤がお風呂に入ってる間に済ませればいいと思っていたけれど、予想より早く出てきていた彼がドアを開けた私を睨んだ。
「……ただいま」
「今何時だと思ってるんだよ」
チラリと壁掛け時計に目をやる。
「――22時」
私がぶら下げている袋を見てはぁと大袈裟な溜息をつく近藤は、そして顔を顰めた。
「コンビニなら俺が行くから次から言えよ」
「どうしてもプリン食べたくなって……ごめん」
束縛屋の彼氏と言いなりの彼女みたいな会話になっているが、近藤と私は当然恋人同士ではないし、友達と呼べるのかも怪しい。クラスメイトで、元隣人で、現ルームメイト。それだけ――と言うには関係がある人物ではあるが、色っぽい関係では断じて無い。強いて言えば過保護で過干渉な父親のような厄介な存在だ。
とはいえ私一人で食べるつもりもなく、買ってきた二つのプリンをテーブルに置いた。
「食べよ」
「……ありがと」
過保護だけど素っ気ない近藤のこの態度は、一緒に暮らし始めて暫く経つが日に日に酷くなっている気がする。
最初の頃のほうがもう少しマイルドな対応だったと思うから、きっと共同生活の中で私に不満でも抱いているのだろう。
基本的に食事の時や共有スペースを使う用事がある時以外は自室に篭っていることが多い近藤。私もなるべく近藤が気を遣わないように割り当てられた個室で過ごすようにしているが、たまにはこうして交流も試みている。
元はと言えば私から嫌な態度をとっていたのだから今更仲良くしろだなんて都合のいいことを言うつもりもないが、同じ家に住む以上、そしてバイト先が一緒で修学旅行では班も一緒なのだから最低限の付き合いはこなしたい。人付き合いは苦手だからどうしても不器用になってしまうが、拒絶したい訳ではないのだから。
「試験勉強進んでる?」
何気なく、を装って訊いてみる。
この試験が終われば晴れて夏休み。そこまで範囲は広くないけれど、苦手な所がテストに出そうで憂鬱だ。
「まぁ、それなりには」
「……あ、もしかして、勉強してるの? 部屋に篭って」
スプーンを口に運びながらそう思い至ったが、近藤の反応を見るにこれは間違いでもないと思うが正解でもないようだ。
「これから私も勉強するけど、一緒にする?」
私なりにかなり努力して関わろうとしているのだが、テーブルに身を乗り出して向かいに座る近藤に提案してもフイッとそっぽ向かれてしまった。
「部屋でするから」
「……ねぇ、私何かした?」
「なんで?」
どんどん近藤が冷たくなっている気がするというのをオブラートには包めず直接問うと、何か言いたげに頭を掻いた。
「……悪かったな、感じ悪くて」
「それは別に……私も人のことは言えないけど」
でもこれから関わっていく以上、日常生活に支障をきたさない程度には仲良くしたい。
「私と暮らしてて、嫌な所あったんでしょ? 直すから言ってよ」
「――――……」
言い渋り散々目を泳がせた挙句、近藤は観念したように小さく呟いた。
「服のチャックを上まで閉めろ」
私が家の中で着ているこのルームウェアのことだろうか。今現在も着ているこれは、確かにルームウェアだけどコンビニくらいには着ていける程度にはパジャマ感はないと思う。実際さっきもこの服で出掛けたが問題はなかったと信じている。
「そんなにだらしない?」
「遠山はそれも制服も前開け過ぎなんだよ」
「は? 何急に風紀委員みたいなこと……そもそもウチの学校別に制服着崩しててもいいじゃない。コレだって、家でくらい好きな格好させてよ」
家でくらいと言ったが、まぁ学校でも好きな格好はしているか。
「近藤だってそのサルエルとTシャツラフな格好じゃん。私のと何が違うって――」
「気になるんだっつーの!」
グッと私に近付いてきた近藤は、そして勢い任せにパーカーのファスナーを上まできっちり閉めてきた。
「ぅん!?」
驚きと窮屈さに思わずおかしな声を出してしまい、近藤も一瞬動きを止めてから謝ってきた。
「……悪い」
胸元に触れてしまったことへの謝罪かと思い「別に」と答えたが、近藤は気まずそうに続けた。
「それはそれで目に毒だ、楽にしていい……」
珍しく、というか初めて耳まで赤くして焦った様子の近藤を見た。これの何が駄目なのかはわからないけれど、どうやらその話振りから胸元が開いたファッションが気になってしまうようだ。確かに一応異性と暮らしているのだから互いに意識すべきところだったかもしれない。
「あぁ……ごめん」
ボタンもファスナーも一番上まで上げるのは苦しくて得意じゃないのだと説明し、気にしないでと元の位置に戻した。
「別に嫌なところはない。好きに生活してくれていい」
二口程でプリンを食べ切ってしまった近藤はそのままキッチンにごみを捨てて自室に戻ろうとした。
「待って」
「……何?」
「夏休み、8月7日……出掛ける」
中野との花火の予定をこの過保護にどう伝えようかと悩んだ結果、片言になってしまった。当然のように近藤が難色を示す。
「どういう?」
「あ、大丈夫。一人で出歩く訳じゃないから。中野に花火見に行こうって誘われて――」
「え? ルイと? ……行くの?」
心底意外そうな顔で私を見る近藤は、そしてすぐしかめっ面になった。
「二人で?」
「そう誘われた。特に予定もないし、バイトで多少なりともお世話になるしその時屋台とかで何かご馳走しようかと……思って」
言いながら、そのつもりで中野からの誘いを受けたがこれだと近藤にも何か礼が必要だなと思い至った。むしろ中野よりもよっぽど世話になっている。現在進行形で。
「――そうね。近藤にも何かお礼をしなきゃ。気が回らなくて悪かったわ」
「そういうのは別に……――でも、じゃあ」
海の撮影に行く前にそれ用の買い物に付き合って欲しいという近藤の提案で、テスト最終日に学校の後そのまま行く約束をした。
「んぁ~、この週末終わったらテストかぁ~」
最近の定位置となった中庭の木陰でいつものようにお昼を食べていると麻衣が嘆いた。
「勉強してるの? 流石にバイト休みでしょう?」
「うん、テスト前シフト入れてもらえないから。勉強はまぁ……あはは」
麻衣は昔から頭は良いのに勉強は嫌いなようで、テストの度に何とも言えない苦い顔をしている。私だって勉強は好きじゃないけれど、両親が死んでから無理を言って施設に入らず自活してきたことで学費は奨学金に頼っている。大学にも行くことを視野に入れると成績はある程度キープしておかなければいけない。
「あえかはいつも通り?」
「うん。ちょっと躓いてるけど……土日で何とか克服したい」
テストの話には近藤も中野も然程興味がないのかあまり話に入ってこない。噂では二人共成績は悪くないと聞いているが実際はどうなのかわからない。ウチの学校はテスト順位を掲示するようなこともないし、誰がどれ程の成績なのかは本人達の自称と授業中の解答から計るしかないのだ。
「そういえばさ、今度の買い物で――」
何気なく近藤が私に話し掛けてきて、すかさず中野が面倒くさい反応をする。
「え!? 何それ恭ちゃんとあえかちゃんデートすんの!?」
面白がってニヤつく麻衣の顔が目に入る。デートという大袈裟なものではないと否定しようとしたけれど、その前にあろうことか近藤は「そうだけど」とサラリと肯いた。
「恭ちゃんもやっぱりあえかちゃん狙いだったの?」
「狙いも何も。ただ二人で買い物に行くだけだ。でも二人で出掛けたらデートかなって」
「それは間違いなくデートだね」
麻衣が即答する。
「で? ルイ君はあえか狙いじゃないの?」
挑発するような麻衣の目に中野が変に張り切って声を上げた。
「オレだってあえかちゃんとデートするし!? 花火大会行くし!」
どうだ、と何故か胸を張る中野に「知ってるけど」と近藤。デートでも何でもいいからそんなに周りに聞こえるように盛り上がらないで欲しいものだけれど、この三人を止める力は私には無い。
「……もう教室戻る。次移動教室よ」
強制的に解散しようと立ち上がると、麻衣が慌てた様子で広げていた昼食のごみをまとめ始めた。つられて残り二人も荷物をまとめ立ち上がる。そして私の隣に並ぶ近藤が続けた。
「何処に行く? って聞こうと思って」
「……今じゃなくていいじゃない」
「それもそうか」
「――頭が痛いわ」
確かに歩み寄ろうとはしているけれど、あまり目立つようなことはしたくない。黙っていればいいのに、とズンと重たいこめかみを押さえた。中野や麻衣に知られたらこうやって騒ぐのはわかり切っていた筈なのに、今言う意味が分からない。そんなにも試験の話はしたくないものなのだろうか。
後ろでは中野と麻衣が何やら密やかに話し込んでいる。悪巧みしていなければいいけれど。
試験前はバイトが入らない所が多い。それはモデル業も社長の配慮でそうなっていて、近藤も中野も私も等しく休みになっている。もっとも私は事務仕事をさせてもらっているだけで“私じゃないと出来ない仕事”はないから休みやすいけれど、近藤達くらい雑誌だCMだと仕事があると二週間程の休みは影響もありそうなものだ。社長は「モデルの仕事が無くなった時に学もないと詰むからね~」なんて笑っていたし、事務所の方針なのかもしれない。
「ごちそうさまでした」
交代制の食事当番は今週は私が担当している。二人揃って夕食を食べ終え、食器を運ぼうと重ねていると急に手元がブレて見えて手を滑らせてしまった。
ガチャンという大きな音に驚いて目を見開くと視界は戻っていて、派手な音の割に何も割れていないことに胸を撫で下ろした。
「大丈夫か?」
近藤が私の手にある食器を奪い取る。
「ごめっ……ありがと……手滑っちゃった」
「顔色良くない」
心配そうに覗き込んでくる近藤に礼を言い、驚いただけだと答えて先にお風呂に入って来るよう促した。
「何かあれば呼べよ? 疲れてるなら俺が食器洗うけど」
「大丈夫。割らなくて良かった」
あえて共同生活のために買い直さなかった食器類はそれぞれ一人暮らしで使っていたものを寄せ集めただけで、不揃いなそれらを統一する予定もない。私達はただ同じ箱にいるだけで、同棲のように二人の生活を楽しんでいる訳ではない。100円ショップで適当に買った皿だから思い入れがあるものでもないけれど、こういうことをきっかけに万が一にも揃いの物を買おうなんて話になったら二人の絶妙な距離感が崩れてしまいそうで怖いから、これまで以上に気を付けなければ。
クラッとしてしまったのは暑さのせいで、暑いのはきっとエアコンの設定温度が高いせいだ。
電気代と円滑な家事を秤にかけ、そっと室温を二度下げた。
「置いといてもよかったのに」
お風呂から出てきた近藤は、片付けを終えてソファで教科書を読んでいた私にそう告げた。いつも思うけれど近藤はお風呂の時間が短い気がする。男子なんてそんなものなのだろうか。
「部屋涼しいな」
「あ、ごめん。暑くて」
「……今日いつもより暑くないと思ったけど。遠山も風呂済ませたら?」
そうしてしまおうと立ち上がった瞬間、目の前が真っ白で何も見えなくなって体に力が上手く入らず、足元から崩れ落ちるよう倒れそうになったところで私の意識は途切れた。
姉さんと二人の生活が始まって少ししてから、三人の生活みたいだと思う日が増えた。聖也さんは姉さんの恋人で、私にとってお兄ちゃんみたいな存在だった。姉さんは私には甘くない人だったからよく叱られたけれど、聖也さんはただただ優しくて、そして姉さんにもそうするようにいつも言ってくれていた。
ある日熱を出した私は、聖也さんと久々のデートだったのにと面倒くさそうに文句を言いながらも雑炊を作ってくれた姉さんに何度も謝っていた。
「ごめんなさい、姉さん、ごめんなさい」
姉さんはホントにねと溜息混じりに食事の用意だけして家を出た。私は食べようと思っていたが力尽きていて、キッチンの前で行き倒れていたみたいだった。気付けばベッドに眠っていて、目覚めると姉さんと聖也さんが私の顔を覗き込んでいた。
「……姉さん?」
冷たい姉さんと優しさの塊みたいな聖也さんの姿が同時に目に飛び込んできたけれど、私の口から最初に出たのはそれだった。結局は二人きりの姉妹、私は姉さんが好きだったのだ。その姉さんを困らせて、迷惑掛ける自分は駄目な子だと泣きながら謝った。
「ごめんなさい姉さん……もう大丈夫だから。聖也さんも、ごめんなさい。折角のお休みなのに……」
だけど私の言葉を聖也さんはいつもの笑顔で諭すように訂正した。
「違うよあえかちゃん。お姉さんも――勿論僕も、謝って欲しくて此処にいるんじゃない。あえかちゃんが心配で可愛いからいるんだよ。こういう時、ごめんって言われるよりありがとうって言われたいな」
姉さんはその横でそっぽ向いていたから本音はわからない。だからつい謝ってしまうけれど、聖也さんの言葉は嬉しかったし、姉さんもそう思ってくれているといいなと思っていた。ずっと。
でも姉さんは姿を消した。
私のせいで聖也さんを失って、いよいよ姉さんは私が邪魔になったんだろう。きっと感謝の気持ちなんかよりもとにかく謝罪が欲しいに違いない。私も出来ることなら謝りたい。
「――――……さい……ごめんなさい……」
自分の言葉にハッと現実に引き戻された感覚に襲われ目が覚めた。
見慣れた天井は私の部屋のそれで、上半身を起こそうとして頭痛と目眩にふらついてしまい慌てた様子の近藤が背中に手を回してきた。
「大丈夫か……?」
「えっと……?」
イマイチ状況が掴めずに上手く働かない頭をなんとか回転させたけれど、整理する前に近藤が説明してくれた。どうやら私は熱を出して倒れてしまったらしく、近藤が部屋まで運んでくれたそうだ。勝手に入って悪かったと謝られ、こちらこそ迷惑を掛けたと頭を下げた。
昼間から頭が痛いと感じていたのは風邪が原因だったのかもしれない。
「熱、結構高いけど大丈夫か? 頭痛以外に症状は」
「特には……迷惑掛けて、本当にごめんなさい……」
「……泣くことないだろ」
躊躇いがちに私の頬に触れた近藤の手には私の涙がついていて、初めて自分が泣いていたのだと気付いた。昔の夢を見ていたせいに違いない。
「それに、ごめんじゃないだろ?」
――そうだった。
近藤はこの前も私の言葉を訂正した。聖也さんみたいに。似たような顔で。
「ありがとう」
「ん」
冷却シートを貼られた額が気持ち良い。
差し出されたペットボトルの水も乾いた喉に染み渡る。私はいつも周りに助けられてばかりだ。
「……どうして」
「……何?」
上手く感情がコントロール出来ずに涙が溢れてくるのを止められずにいると、近藤は頭を撫でてきた。それに甘えて言葉を続ける。
「しっかりしなきゃって……思ってるのに。私が駄目な子だから一人になっちゃったのに……やっぱり駄目で。良い成績取らなきゃって頑張っても思うように理解出来ない、体調崩してる場合じゃないのにこうして倒れて……近藤の世話になって……ありがとう、でも、やっぱり迷惑でしょう……?」
詰まらせながら吐き出した思いを黙って聞いていた近藤がいつになく穏やかに答えた。
「全部抱え込んで、その上あんな怖い目に遭って環境も変わって、そんなの体調も崩して当然だろう? 遠山が心配だからこうしてるだけ……これは俺が勝手に世話焼いてるだけだ。迷惑だったらそもそも関わろうとしない」
頭に乗せられた近藤の手は大きくて、その言葉はただ優しくて、あの日の聖也さんとどうしても重なってしまう。
聖也さんはもういないし、この人は彼じゃないのに。
「……もう空だろ、それ。冷たい水持ってくるよ」
部屋を出ようとする近藤の背中に思わず声を掛けてしまった。
「やだ……」
「遠山?」
「やだよ、どうしていっつも私一人にするの……? 本当は寂しいのに……やだ、行かないで、置いてかないで」
それは本当は両親に言いたかった言葉で、同時に姉さんにもいつも伝えたくて飲み込んでいた言葉。
近藤に言ったところで困らせてしまうだけだ。わかっているのに紡いでしまった言葉は止まらず、制御出来ずに涙は溢れ、幼い子どもみたいに我儘に泣いた。
「……寂しかったな」
近藤は私の訴えに疑問も抱かず側に戻ってきてベッドに腰掛けると、子どもをあやすみたくギュッと抱きしめて背中をさすってくれた。
熱に浮かされた私は眠ってしまいそうな程近藤の手と言葉に心が落ち着き、そのままそっと瞼が閉じていった。
「ゆっくり休めよ、おやすみ」
優しいその言葉に安心して眠気に身を委ねた私は、最後に言葉を間違えたことには気付かなかった。
「……おやすみなさい――聖也さん」
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