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都の公家の娘といい、家人も怪しいと思いながら年が釣り合う息子と添わせ、「分付け」と称する土地分けをしてやる。
「分付」として子もできる頃になると、本家では、
「やれ、あの娘の言葉は、同じ京でも河原者の話し言葉よ」
などと素性が知れるが、元より推測しているため、そんなことはどうでもよくなる。
「まずはお乗りあれ」
沙耶は船へ誘った。
冬の雪解け水が満ちるこの時期の利根川は、流れが速い。
その濁流を船が漕ぎ行く。
「なあ、お侍よ。もし新田のお館様お泊め下さらんときは、わしの所に来い」
これから田植えだが人手が足りん、といった。
村人としては、この若者に好意を持ったのであろう。
屈強な体をしている。
武勇を鍛えたのだろうが、その体が数石の米を産むことを村人は知っている。
それを船の先頭に座って聞いていた沙耶は、
「本当の太郎さまの気が致します」
と川を渡る風に髪をなびかせていった。
「神様のお告げですか?」
村人がいうと、義平は、
「神の声が聞けるのか?」
と尋ねた。
「おうさ、沙耶様は森の神の声をお取次ぎあそばさる」
森の神といえば木霊であろうか。
そういえば、最近は都でも末法思想とかで仏教がすたれ、神仙思想を重んじる空気が広がっている。
大津に住む母も、琵琶湖の「水の精」とやらを崇拝しているではないか。
(神などはいない)
と義平は思っている。
所詮、神は人間が造ったものなのだと。
それを知っている一部の支配者が「神意」と称して、勝手に政治利用している。
父の義朝がそうだった。
源氏の神は八万大菩薩である。
ある出陣のとき、義平は聞いた。
「戦に望むとき、神前に馬揃えあるが、あれは本当に効くのか?」
義朝は笑っていった。
「アレは景気づけよ」
儀式だという。
「八幡大菩薩が勝つとご神託あれば、皆勝つ気になるのよ」
戦さは九割が気持ちだという。
気迫が圧倒するという。
「その気迫を得るために居もしない神に祈るのよ」
「ならば、おとどは八幡大菩薩はいない、といわれるのか?」
まだ幼い義平を抱き上げて、義朝はいった。
「わしの八幡大菩薩は、そなたの母よ」
軍旅の先々で抱く女々が、おれの菩薩様よ、とこの父は豪快にいってのけた。
なるほど旅の先々で抱く女どもこそが、義朝にとって安らげる「神」であったであろう。
それ以来、義平は神を信じなくなった。
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