3人が本棚に入れています
本棚に追加
関東に行けば食えるという。
その噂だけを頼りに、若者ははるばる都より落ちてきた。
関東は、その平野広々とし、泥濘地が広がり、稲を放り込めば、たちどころに育ち金色の稲穂をたらすという。
それらの土地の大半が、まだ手つかずであり、奥州も西国も景気がいいため人は来ないという。
自然流れてくる人間は全てが豊穣の大地に吸収され、農夫となりえる。
が、この若者は耕し手になりにきたわけではなかった。
若者は名を源太郎義平という。
父は源氏の棟梁源義朝である。
義朝の武人としての生涯は忙しく、その最初は九州へ行き、その半ばは関東と京都を往復し、末期は京都と東海道の中途で終えた。
その半ばの時代、東海道を往復する義朝は、また宿場のおんなどもの間も往復し、多くの子を残した。
そのひとりが義平であり、彼は橋本の遊女を愛して生まれた子である。
母の素性卑しいため、後継者は、母を熱田神宮大宮司藤原季範の三女の由良に持つ三男頼朝に定められ、義平には所領の一辺も与えられなかった。
いや、義朝は、清和源氏嫡流の血をくれた。
累代の甲冑「源太の初衣」は頼朝に与えたが、源氏の血は等しくくれた。
それを挨拶状に関東の豪族に食い込め、という。
源氏の血を求める豪族が、あるいは娘を献じて、その間に子も成せば、あるいは私墾地の一町歩も割き与えて、土着の源氏の一家が生まれるであろう。
義平は、まず三浦義明を訪ねた。
義平を産んだとき、その母は三浦義明の養女となっている。
名ばかりであるが、公的には自分の祖父である。
飯の一杯も盛るであろうと思った。
たしかに、義明は飯は盛った
だが、一杯だけだった。
その後、いんぎんに、
「相模は早や開墾し尽くされ一丁上がりの土地である。が、北へ参られれば、まだ手つかずの土地あまたあり、ご活躍の機会もありましょう」
と退けた。
この若者を数日泊めれば、それだけで「源氏の嫡流三浦館にご滞在」の噂が流れる。
されば、その高貴な血を求めて、あるいは、地元の地侍が娘を献じないとも限らない。
もし子を成せば、ただの若者でないから、かなりの土地を割かねばならないであろう。
その子の数が多ければ、源氏の血が三浦を圧倒することにもなり、相模中央部に広がる三浦荘はことごとく義平の係累にのっとられるであろう。
そのことが義平を遠ざけた。
やむなく北へ向かった。
最初のコメントを投稿しよう!