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泉岳寺ネガ
「なんだその名前」
「俺は小説野郎だ。お前さんの出る幕じゃねえんだぜ」
「なにが出る幕だ。そもそもお前には俺の相手になってもらうことなんてほとんどねえぞ」
そう言って、私は鼻を鳴らした。どうやら相手は、私のことを女だとは思っていないらしい。それならそれで好都合だった。
それから私たちは、しばしば公園で顔を合わせるようになった。彼が来る時間はまちまちだったが、たいてい夜中か明け方だったので、会うとなればその時間帯になったのだ。
最初は、お互いのことをぽつぽつと話しただけだったが、そのうちだんだん打ち解けてきて、彼も私に対して口数が多くなった。といっても、彼の言葉は決してやさしくはなかった。「いいからいいから。ほら、俺みたいに誰にも見せられない傑作を書きたきゃ他人の著作なら書かせるんだ」
とか、「いやあ、やっぱり女ってのはよくわかんいね。男が書くものと女が書くものはまったく違うよ。そりゃそうだよねえ、だって男同士なら裸になることもあるけど、女同士でそんなことしたら捕まっちゃうもんねー」
などと言うものだから、私はむっとした。しかし言い返すこともできず、「ふんっ!」と鼻息荒くそっぽを向いてしまうしかなかった。
あるとき彼は言った。「お前さん、まだプロになりてえんだろう?」
私が答えるより先に、彼は続けた。「だったらなおさら他人に頼るんじゃなくて自分で書いたほうが早いと思うけどなあ」
そのとき、私は答えられなかった。
そのとおりだと思ったからだ。だが、同時にこうも思った。「だけど……」
だけど、もし書いても認められなかったら「だから、俺の書きたい傑作を誰が読むんだよ」
彼はまた即座に言った。「誰も読まない」
私は愕然とし、黙りこんだ。彼の言うことはいちいちもっともだった。そして、私の心の奥底にあるものを的確に見抜いていた。
「だけど……」
反論しようとする私を遮るようにして、彼はきっぱりとこう断言した。
「だけど、俺だけは読んでやる。俺はお前の小説を読んでやる」
ーーーーー
「じゃあ俺が読ませてやるよ。ほら、読んでくれ!」
泉岳寺ネガが差し出したのは一冊だった。
泉岳寺ネガは詐欺師だと噂されている。何でも昔、この街で詐欺を働いたらしい。彼女が書いたのは、自分のキャラクターが出ている小説だった。しかも彼女はそれをコピーしてきたのではなく、わざわざ手書きしたものを持って来ていた。それはいかにも彼女らしかった。彼女のキャラクターはいつも生き生きとしていた。
読み終わったあと、私はしばらく何も考えられなかった。気がついたときにはもう日が落ちていて、公園の街灯がつく時間になっていた。いつの間にかブランコに乗っている子どもの姿もなくなっており、公園には私たちしかいなかった。
「どお? おもしろかった?」
泉岳寺ネガは無邪気に訊いてきた。
「ああ、とてもおもしろかったよ」
私は素直に認めた。悔しいけれど面白かったのだ。今まで読んだことのないタイプの物語だった。
「へへーん! どうだ参ったか!」
彼女は得意げに笑ったが、すぐに真顔に戻った。
「でもさあ、これ、あんまり売れなかったんだよねー」
「そうなのか?」
意外に思って尋ねると、泉岳寺ネガはこくんとうなずいた。
「うん。あたしもなんでなのかよくわからなかったんだけどさ、『これは女性向きじゃない』っていう意見が多くてさ」
「ふーん……」
私は腕を組んで考え込んだ。確かにこの物語は男性向けかもしれない。主人公は自分勝手で傲慢だし、ヒロインもわがままで意地悪そうだ。それに何よりもキャラクターがみんな不細工である。
私は改めて泉岳寺ネガのキャラクターを見た。
背が低くて痩せているところや、目つきが悪いところがそっくりだ。性格の悪さもよく表現されている。
しかし一方で、そのキャラクターには愛すべき魅力があった。彼女ならどんなひどいことを言われても許してしまいそうだし、彼女に振り回される男たちを見ていられなくなりそうだ。
なるほど。そういうことだったのか。
「ねえ、ちょっと聞いてる!?」
泉岳寺ネガが詰め寄ってきた。私は慌ててうろたえたふりをした。
「えっ……あっ、なんだっけ?」
「だからさあ、この作品を映画化しようって話があるんだよ!」
私は思わず噴き出してしまった。「それ、本気で言ってるわけじゃないでしょ」
その話はそれで気まずいまま終わった。
ーーーーー
「なんだよこれ。何々、俺は小説野郎の記者を名乗ってます。俺のような作家を紹介します。この小説の作者は、《ドブネズミ講》の記者、泉岳寺ネガとして本名とサインを書かせただけですが」
私は腹を抱えて笑い転げた。ゲラ刷りされた紙を握りしめたまま、ひーひーと苦しそうな息を繰り返す。隣に座っていた編集者が、「そんなに笑うことないでしょう」と口を尖らせた。
「だって、こんなことってあるんですね」
「まあ、一応プロですから」
「まさかこんなふうにして正体を暴かれるとは思わなかっただろうなあ」
「本当に思いませんでしたかねえ」
編集者は怪しむような目をこちらに向けた。「というか、どうしてあなたはそんなに詳しいんですか」
「え? ああ、実は私も小説家を目指していて……」
言いかけたところで、「おい、早く次の記事を出せ!」
編集長の声に遮られた。はい、ただいま! と答えながら、私は急いで机に向かった。
(了)
■泉岳寺ネガ
(いずがくうじ・ねが)
ペンネーム:泉岳寺ネガ 性別年齢等不詳 自称、元女優。現在は無職。
自他共に認める天才肌。
才能を買われていくつもの劇団を渡り歩いていたが、ある日突然ぷつっと連絡が取れなくなった。
その後、彼女はなぜか小説を書き始めた。
彼女の書いた小説はことごとく評判が悪く、特に女性からは嫌われていたが、熱狂的なファンも存在する。
彼女の小説の最大の欠点は、登場人物全員が不細工なことであり、それがかえって彼女の作品の魅力となっている。
彼女の小説を読むためには、一円玉を用意しておく必要がある。
彼女は詐欺師だという噂があるが、真偽は不明。
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