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不自由の自由
桧佐には手足がない。
三歳の時に病気で両手足を失ったからだ。「突発性脱疽」彼女が産まれた1918年(大正年間)当時では、壊死した部分を切断するしか手段がなかった。
嘆き、絶望する両親。しかし桧佐が最初に直面したのは絶望ではなく、切断した箇所の痛みだった。大人でも耐えられないであろう激痛を、桧佐は三歳の幼い身体で受け止めた。
桧佐は両親と弟、祖母の五人暮らしだ。彼女は二歳の時に凍傷を起こし両手足を失った。それ程、桧佐の住む村は雪深かった。
「桧佐、桧佐、かわいいのう」
父は身体の不自由な桧佐を溺愛し、暇さえあればいつも抱き上げ、頬ずりをしてくれた。髭がチクチクと痛い時もあれば、頬と頬とが纏わりつく様につるんつるんの時がある。
「お父ちゃん、お父ちゃん」
桧佐は父親が在宅の時は常に父の膝の上にいた。
ふたつ年下の弟、才蔵は父親と桧佐の横にちょこんと座り、両手を父の腕に置いて、ふたりと交わり、笑っていた。
しかし最愛の父は、桧佐七歳の時に病気で死去。母は生きる為、子供を育てる為に再婚するしかなかった。しかし継父は桧佐を蔑み、その存在を隠そうと、屋根裏部屋に監禁してしまうのだ。
「お姉ちゃん、おむすび持って来たよ」
才蔵は十歳になっていた。学校から真っすぐ帰ると桧佐の為に、母が拵えたおむすびを持って屋根裏部屋へ上がる。
「ありがとうね才蔵」
肘までの手で才蔵の頭を撫でてやると、彼は照れくさそうに笑った。
「不便はない?」
「大丈夫よ、お風呂も三日に一回は入れるし、こうしてご飯も食べさせて貰っているし、それにここ、日差しがたくさん入るから気持ちいいんだー」
短い四肢を広げ、桧佐は仰向けになった。六畳ほどの板敷の屋根裏部屋には大きな窓がついていた。それが桧佐のお気に入りだったのだが、夏場は恐ろしく暑い。雨戸と障子だけで、網戸はなかったので蚊に刺されっぱなしになる。見兼ねた母がそっと蚊取り線香を置いてくれたのが桧佐は嬉しかった。
「才蔵、少し痩せた?」
横になったまま弟を見た。影のせいなのか、頬がこけて見えた。
「ちゃんとご飯たべてる?」
桧佐は起き上がった。
「うん、食べてる。成長期で痩せてるんじゃないかと、お母ちゃんがいってたよ。心配しないで」
「それより」
といって、才蔵は居住いを正した。
「なんね、そんな武士の子の様にきちんとして」
「お姉ちゃん」
「ん?」
「僕が大きくなったら」
ちがう!と、才蔵は首を振った。
「十六になったら働きに出る。そうしたらお金を貯めるから、お姉ちゃんをここから出してあげる」
「学校は?高等学校に進まんの」
「進まん」
唇を噛み締める才蔵を見て、桧佐はクスクスと笑い出した。
「なんで笑うん。僕は本気なのに」
「知ってる、知ってる。ごめんね。そんなら姉ちゃん、才蔵が十六になるのを楽しみに待ってるわね」
「約束」
才蔵の出した小指に触れた時、とても冷たいと思ったのだが、外が寒いせいだろうとあまり気にしていなかった。
しかしその通日後、雪交じりの雨が、桧佐の屋根裏部屋を激しく打ち付ける日の朝、弟は死んだ。病死だった。父の死から僅か、三年目の冬のことだった。
「おーいばばあ、そんなことして何になるというんや!」
才蔵の喪が明けた頃から、同居する母方の祖母が頻繁に屋根裏部屋に上がって来て、桧佐に書道や裁縫を教える様になった。
その様子が気に入らない義父は、わざと大声を上げて嫌味をいった。しかし桧佐は気にしなかった。祖母も母も厳しかったが、桧佐の将来を心配して手習いを仕込んでくれていることを桧佐は充分、理解していたし、祖母はいつも、
「桧佐よ、桧佐。その身体でも、おなごでも、ひとりで生きていける。ひとりで生きていくんよ」
口癖の様にいっていた。
それから十年の歳月が経ち、桧佐は二十歳になっていた。手足こそ不自由だが、根っからの明るさは、周囲の者を和ませた。
「本当に行くの?そんな身体で一人で生きてゆける訳ないやないの」
二十歳になったことで自立したいと申し出た桧佐を、母親は必死で止めた。
「お母ちゃん、変なこと言わんといてよ。お母ちゃんとお祖母ちゃんが、わたしを一人で生きて行ける様に躾てくれたやないの」
「そんなこというても、あんた」
「もうやめ、あやの」
あやのとは、桧佐の母の名前である。三人は屋根裏部屋ではなく、下の居間で話をしていた。義父は仕事で外出している。
「母さん、桧佐はここを出たことなんて、殆どないんよ。七つの時からずっとあの部屋に閉じ込められていたの。そんな娘がどうやって外の世界で暮らしていけるとゆうの。道を歩くの、ひとりで、這いつくばって。そんな無体な」
「ここにいたって同じやないの。上の部屋で一生を送るのは無体なことや。お前は母親として、それでいいんか?飼い殺しやないか」
三人は同時に二階を見上げた。そして母親と祖母は肩を落とし、深いため息をついた。しかし桧佐だけは違った。希望に満ちた瞳でふたりを見ていた。日焼けのしたことのない肌は絹の如くなめらかで艶やか。聡明な目元、いつでも笑い出しそうな口元。彼女にハンディーがなければ、どれだけ華やかな世界に身を置いていたことだろうか。
「お母ちゃん、お祖母ちゃん、わたしね、この居間で、こうやってみんなで円卓を囲むのはじめてなんよ。ううん」
桧佐は慌てたように首を振った。
「責めてる訳じゃないの、勘違いせんといてね。ただね、こういう暮らしというか、こういうことを普通にできる、そんな生活がしたいのよ」
「桧佐…」
あやのが口を挟もうとした時、祖母が手を振り落とし、首を振った。
「わたし思うの。無手無足は、仏様より賜った身体だって。こういう身体だからこそ、生かされている喜びと尊さを感じることができるんよ。お母ちゃん」
うつむいて泣き続ける母親の元へ行き、桧佐は母の膝に手を置いた。
「桧佐、ごめんね、ごめんね」
「なんで謝るん?おかしなお母ちゃん。いつも様に笑ってくれな、桧佐も悲しくなるやないの。誰がなんていっても桧佐はしあわせなんよ」
「あろがとう…」
顔を上げた母親の震える唇は、口角が少しだけ上がっているように見える。
「大丈夫、大丈夫。わたしはお母ちゃんとお祖母ちゃんの娘やもの。強いんよ」
桧佐は胸元をニ三度、叩いて見せた。あやのは慌てた様に立ち上がると、箪笥の中から茶封筒を取り出し、それをそのまま桧佐の着物の衿元に挟んだ。
「お金、ないやろ?どうやって生きるつもりやったの」
「ああ、でもね」
桧佐は祖母を見たが、祖母はゆっくり首を振っている。実は毎年正月、お年玉として、祖母は桧佐にお金を渡していた。それを使う術もない桧佐は、全て貯めていたのだ。
「うん、じゃあ、ありがたくいただくね」
「そうしてくれたらお母ちゃんも嬉しい。こんなことで、あいつの言いなりになり、あんたを閉じ込めた罪滅ぼしにはならんと思うけど」
あやのはもう泣いていなかった。桧佐のために仕立てた、梅の模様が散らばった丹前を箪笥から取り出すと、それを風呂敷に包み、桧佐に渡した。
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