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走り出す
銭湯を出ると、帰り道にある焼き鳥屋に寄った。
「さあ、きょうは桧佐の歓迎会だからね。明日は定休日だし、みんな飲んで食べて無礼講で行こう」
お虎はそういってビールの入ったグラスを高々と上げた。桧佐も器用に瓶を持ち上げ、両手の肘でビールを飲んだ。
「はあー」
「桧佐ちゃん飲める口なの?」
雪が屈託のない笑顔でそういった。
「いいえ、はじめてよ。でも美味しいわね」
「そっか、はじめてなんだ。わたしはほぼ毎晩飲んでるよ。っていうか、ここにいる人みんな飲兵衛なんだ。あそこのてっちゃんなんて普段はおとなしいんだけど、酔うと癖が悪くて、暴れたりはしないんだけど、グチグチ言い出すの。だからみんなとの飲み会ではジュースを飲んでるのよ」
17歳の雪は笑いながらビールを流し込んだ。てっちゃんというのは、運転手をしてくれた人で、裏方全般を請け負ってる。小柄だが筋肉質で冬場でも上半身裸の50代だ。
「雪ちゃん、あの方、美祢子さんでしたっけ」
美祢子の方を見て桧佐は聞いた。
「うんうん美祢ちゃんね。あの人は無口だし、愛想ないけど、美人だからお客さんに良くモテて。おひねりたくさん貰ってる。口にね、火のついた蝋燭を何本も一気に入れて消したり、溶けたロウを口の中に流し込んで火を吹いたりする技を披露するんだよ」
「そうですか。蝋燭を……」
「その隣にいる人は愁くんで、25歳。美祢ちゃんの想い人かな。だからずっと隣にふっついているでしょう」
「愁さんですか」
「ちなみにわたしは何をしてると思う」
「えっ、ん-なんだろう」
うふふふと雪は手で口を覆って笑い、ペロッと舌を出した。
「わたしはただのモギリ。入口で入場券を販売してるの」
「そうか、そうなんだね」
「ここにいる人で舞台に立っているのは、お母さんと、美祢ちゃんと、さきちゃんだけ。お母さんの旦那さんは、お客さんに催しの説明したりね。あとはみーんな裏方なんだ。だから人を募集してたの。そうそう、お母さんの芸はね、牛おんなとか言うんだ。良くわからないけど牛おんな」
「うし、おんな?」
「うん、下着姿でただ四つん這いになってるだけ」
「それが牛?」
「ところで、桧佐ちゃんは何をするの?」
「わたし、ああ、わたしは。書道と手芸が得意だから、それを永遠と披露するのよ。芸名は、だるま娘だって」
それから3年の月日が過ぎた。
桧佐の書道や手芸は雑誌等でも紹介され、賞賛された。桧佐はいまやちょっとした有名人だ。
そしてその頃、桧佐は小さな恋をしていた。相手は裏方として働く愁だった。愁とは休みになると、歌舞伎や落語などを鑑賞した。しかしそれはあくまでも友人としてであり、それ以上の関係を桧佐は望んでいなかった。
ある日、美祢子から呼び出され、桧佐は楽屋に行った。美祢子は腕組みをして立っていた。背が高く、骨格のしっかりした美祢子はスタイルも抜群だった。舞台以外ではいつも洋装だったが、それも良く似合っていた。
「ふてぶてしい」
美祢子はそういってしゃがむと、突然、桧佐の頬を叩いた。
「その身体で恋人とか、冗談でしょう」
「恋人なんて……」
「最近ずっと愁くんに纏わりついて、どういうつもりなの。愁くんはね、あんたになんか勿体ない。あんたは五体不満足で子供だって産めるかどうかもわからないのに、ほんと図々しい。あんたは愁くんを不幸に導いてるんだよ。あんたなんかと一緒にいたら、愁くんまで変な目で世間様に見られる。それがわからないの。ねえ、ねえ桧佐、早く出て行って、早くここを出て行って。もう消えてよ」
「やめろよ美祢、もうやめてくれ」
楽屋に向かう桧佐を不審に思い、愁が追って来ていた。
「愁さん」
「桧佐ちゃん」
愁は桧佐の肩に手を置いた。桧佐は震えていた。美祢子の恫喝に驚いた訳ではなく、自分が少しでも愁との将来を夢見ていた事への懺悔の様な気持ちからだ。
「美祢、俺はね」
愁は立ち上がり、美祢子の前に立った。
「桧佐ちゃんを好きだ。桧佐ちゃんといると愉しいんだよ。これまでの自分の苦労を忘れちゃうんだ。ここにいる者たちはみんな何かしらの苦労を抱えてここに集まってきた。美祢だって親に捨てられ、養護施設を逃げ出してここに拾われたみたいなものだろう。そんなお前が、どうしてそんな汚い言葉を桧佐にぶつけられるんだ。俺から見たら、五体満足なお前の方が、よっぽど不自由だ。俺は桧佐と走り出す。もう恐怖から目を背けず走り出すと決めたんだ。桧佐、いいね」
涙を瞳いっぱいに溜めた桧佐は、じっと一点を見つめていた。
「ばっかみたい」
美祢子はそういうと、楽屋を出て行った。
「桧佐?」
愁は腫れものでもさわるように、桧佐に近づき、目の前で正座をした。
「どうしたの?」
「ううん」
首をふった時、涙が溢れ、頬を伝った。
その翌朝早く、桧佐は上野駅に来ていた。
「寂しいな」
「うん」
付き添ってくれたのは雪だった。桧佐を台車から降ろし、ベンチに座らせた。
「本当に帰っちゃうんだね」
「うん、ごめんね。昨年実家の義父が急死して、半年前には祖母が亡くなり、母、ひとりきっりだから、帰らないとって、ずっと思っていたのよ」
「それにしても夜逃げのように、こんな朝早くじゃなくても。みんなに送って貰えたのに。送迎会もできたのに」
「これでいいの。小屋のお母さんには昨夜話して納得して貰ったし、みんなに見送られると、気持ちが揺らいでしまいそうだったから」
それを聞いた雪は、なにやらモジモジしている。
「どうしたの?雪ちゃん」
「愁さんにはいった?」
「ううん、でもわかってくれると思ってる。友達だから」
「そっか、それならもう何もいわないよ」
暫くして汽車がホームに入って来たので、ふたりは別れを告げた。
桧佐を地元の駅で待っていたのは、与志朗だった。
「おーい」
ホームから桧佐に大きく手を振る与志朗は台車を引いていた。真夏のことだったので、台車には手作りの傘が掛かっている。
「桧佐、お帰り」
「もう、大きな声を出さないでよ与志朗さん」
「だって、嬉しくて」
台車に乗った桧佐を、与志朗はまじまじと眺めた。
「なーに?」
「お帰り、おばちゃん待ってるよ」
「うん」
「本当に、お帰り」
そういうと与志朗は全速力で台車を引き、走り出した。
この後、ふたりは結婚し、子宝にも恵まれた。
愁に打ち明けられ、流した涙の意味は、桧佐自身にもわかっていない。
ただひとつ、時折、彼を思い出す時、愁の桧佐への気持ちは、一時だけの物だったのではいかと、そんな気がしていた。
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