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「生い立ち」
父は岐阜県羽島の生れで、十二、三才の頃、母と生きわかれをして二人の弟と一人の妹と共に苦労をして育ったらしい。(もちろん父親と一緒だが)
私の母とは二十五才位で結婚したらしい。学校へは一年位しか行かないらしいが、字を書かしたら何でも書いた。
父はワンマンで酒がすきで四十五才で世を去った。私の十八才の時だった。兄が二十才。
私は六人兄妹で女五人の長女。私の母は栃木県生れで家は百しょう。
働き者で、結婚してからも父は職人なので母はお菓子屋の店を出して、夏になれば女の子二人位使って氷屋を始めてずい分忙しかったそうだ。私が四才位の時、店をやめて裏長屋へ引っ越した。
タンスも何もない、がらんとした家の中に座って居ると何だかゾク〱して、こわくなった。それで又、外へととび出した。
広い原っぱにはだれも居ない。でも家へ入るのは、もっと淋しい。しばらくたたづんで居た。
昔は救世軍と言ふのが有った。アーメンなのでせう、十人位の人たちが大きなタイコをたゝきながら「ミサカヘわーあ エスニハレーエ スクイノミカを我はほめーエ」とサンビカを歌ひながら、にぎやかにやってきた。
するとどこからともなく、大人も子供も集まってきて丸く輪をつくるのだ。
私は、これは救いの神だとばかり其の輪の中に入った。
しばらくすると皆ちりぢりに家へかへってしまったので、又私は1人ぼっちになった。其の内、母たちもかへって来た。
もう一つおぼえて居ることが有る。
私が熱を出してゴロゴロしていたらしい。びんぼうで医者にかける金も無いのだ。
母が五厘くれてモンジヤキ(おこのみやき)でもやいて遊んできな、と言った。
行きたくもない、だるかったのだらう。其れでもだ菓子屋へ行ってモンジヤキをやいて居たが食べたくもなかった。
すると兄がやって来て、「ヨシ家へ行ってみな、玉子のごはんが出来たよモンジヤキは兄ちゃんが食べてやるよ」と言った。
だけど私は思った、家はびんぼうなのだ。玉子のごはんなんか出来るわけがない、きっと醤油かけたごはんだらうと。
今でも時々思ひ出すが、あの時のごはんが玉子をかけたごはんだったのか、ただ醤油だけのごはんだったのか わからない。
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