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「菊枝さん。久世家ほどの御家柄になれば、確かに柵も多いのでしょうけど、今はもうそんな時代ではないと思いますよ」
にっこりと笑みを向けて言った千寿留に、けれど菊枝はその鋭い眼差しを緩めることはしなかった。
それどころか、口の端を歪めて嗤う。
「片田舎のお茶屋さんに言われても、ねえ。……久世をあまり舐めないでくださる?」
千寿留と竜太郎が目を瞠り、次いで不愉快そうに眉を寄せた。
そんな二人を意に介した様子もなく、菊枝はつい、と顎を逸らして冷やかに言い放つ。
「私はこの結婚を認めません。家にも入れない、跡継ぎも産めない嫁なんて、言語道断。春海さん。……覚悟はよろしいわね」
睨めつけてくる菊枝の鋭い視線を受け止めて、春海も睨み返す。
「もちろんです」
菊枝は微かに目を眇めると、すっ、と席を立った。
「お先に失礼します。皆さんは、どうぞごゆっくり」
棘を含んだ口調で言うと、さっさと部屋を出ていく。
それを見送った全員が、襖が締まると同時に息を吐いた。
「随分、家に縛られた人なんですね」
呆れたような空気を滲ませて千寿留がぽつりと呟く。
それに小さく片眉を上げた壮真が、口の端を僅かに歪めた。
「あれは、昔からそうです。子供の頃から久世の嫁となり、久世を支え、久世の存続のために尽力するようにと言い聞かせられて育った女ですから」
それを聞いて千寿留と竜太郎は顔を見合わせる。
今時、と零れそうになった言葉を呑み込んで、千寿留はそっと息を吐いた。
「……幸せって、何なんでしょうねえ」
ぽつりと呟いたその声は、酷く室内に響く。
ふ、と虚を突かれたように壮真が目を向けた。
芽衣も母を見て、それから隣の春海へと視線を移す。
彼は父親の様子を窺っていたけれど、視線に気づいたのか春海の目が芽衣に向けられる。
僅かに首を傾げ、問うように目を瞬かせた春海に、芽衣は口の端で微笑んだ。
竜太郎がすっかり冷めてしまったお茶を一口飲み下してから、静かな声で言った。
「そんなもの、自分が幸せだと思えば、幸せだ」
春海が竜太郎に目を向け、柔らかく微笑む。
「ええ、そうですね」
噛み締めるように言って、首肯する。
先程までとは打って変わって、穏やかな空気がそこにあった。
壮真は目の前に並ぶ彼らを見る。
これは、絵に描いたような家族の姿だ。
坪庭を有する個室に、直接陽光は入ってこないのに、なぜか眩しさを感じて眉を顰める。
春海は間違いなく息子だった。
その成長を見てきたわけではないが、その面差しに微かに美香の面影を見て目を逸らした。
息子として愛しているかと問われれば、恐らく否、だ。
それは春海だけではなく、冬樹にも言える。
そうして改めて気付く。
愛されたいと願いながら、自らは周囲を愛してこなかったことに。
―――――ああ、そうか。
舌の根に苦い物を感じながら、密かに我が身を嘲笑する。
渡り歩いた女も、本気で愛してはいなかった。
その場限りのじゃれ合いで、愛した気になっていただけ。
それでも、美香だけではなくかかわった女たちに援助を惜しまなかったのは、ひと時でも愛してくれた彼女たちへの恩返しのつもりだった。
美香が入院したと聞いたときは心配はしたものの、会いに行こうとは思わなかった。
『あなたは結局、母親を求めていたんじゃないですか』
いつかの春海の言葉が、まるで耳元で囁かれるように脳内に響いた。
無条件に愛してくれる無償の愛。
彼女たちの愛は決して無償ではなかったけれど。
それでも母性の賜物か、彼女たちは包み込むように愛してくれた。
壮真の選んだ女たちはそれぞれに外見的な共通点はなかったが、一様に金に対する執着がなかった。
くれるというなら貰うが、要求することはしない。
壮真が選んで、その愛を享受する代わりに援助をしてきた女たちは、彼が振り込む金に頼りきって生きることはしなかった。
ビジネスを割り切った当然の報酬であるとはいえ、それに甘えて仕事を辞めた女はいない。
一人だけ、壮真からの援助を元手に起業した女がいた。
シングルで子育てをする男女を多くスタッフに採用し、育児のバックアップをするビジネスは数年で軌道に乗り、今まで壮真が援助してきた金をきっちり耳をそろえて返してきた。
曰く。
「もう助けなんていらないわ。でも感謝はしてる。今の私があるのはあなたのおかげ。だから、先々もし困ることがあれば、一度だけ手を貸してあげるわ」
そう言った彼女は、壮真を愛してくれた頃の深い愛情をそのままに、あの頃よりもずっと輝いたいい女だった。
耳をそろえて返した、といえば、もう一人。
今目の前にいる、春海もだ。
早々に逝ってしまった女が残した息子は、壮真が見込んだ以上の才覚でもって、やや下降気味だった会社の運営を上向かせ、その売上はとっくに援助してきた額を超えている。
何より、久世の家に入った時に、美香の口座に残っていたという金を通帳ごと壮真に叩き返してきたのだ。
「母が使った分はこれから返していきますから」
あんたの施しなんて、なかったことにしてやる。
低く吐き出した春海の、冷え冷えとした眼差しの奥で、青い炎が見えた気がした。
青い炎。
だがそれは、赤よりもずっと温度が高いのではなかったか。
いっそ冷たく見える色で燃え上がる激しい炎。
それは、愛情ではなく、憎悪。
壮真は思い出したように肺に酸素を取り込んで、誰にも気づかれないよう、細心の注意を払ってそろりと吐き出した。
愛してこなかった。
だから当然だ。
今、目の前に並び、柔らかく笑みを交わす彼らに混ざることなどできないのは。
お門違いだというのもわかっていて、それでも、抱いてしまうのだ。
まるで置き去りにされた子供のような疎外感を。
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