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「……あなたは、相手が冬樹でも同じことを言うんですか」  僅かに片目を眇めて問う春海に、は、と顔を歪めて嗤う。 「冬樹だったら、こんな無意味な言い争いなんてしてませんよ。あの子はちゃんと分かっていました」  そんな菊枝を、壮真が意味ありげな目を向けた。 「ちゃんと分かって?そうですか?」 「そうよ。あの子がいれば……誰もが納得するような久世に相応しい家柄のお嬢さんを迎えたはず」  無意識なのか親指の爪を噛む菊枝を、どこか憐れむように見つめて春海は殊更にゆっくりと告げた。 「あなたは、自分の息子のことすら、ちゃんと見ようとはしなかったんですね」  菊枝が口の端を歪めて笑う。 「見ていたわよ。自分のお腹を痛めて産んだ子よ。ずっとその成長を見てきたわ」 「外見の話じゃない。中身の話ですよ」 「中身?私が小さい頃から躾けて育てたのよ。中身だって」 「冬樹さんが今も生きていたら、あなたの思うような相手を連れてきたとは、とても思えません」  淡々と告げる春海を憎々しげに睨み据えて、菊枝は爪を噛みながら唸るような声で吐いた。 「あなたに、何がわかるというの。――――― あばずれの血が混じった汚らわしい」 「やめなさい」  菊枝の言葉を、壮真が鋭く遮った。 「いい加減にしないか。お前が今やっていることは、久世に泥を塗る行為だとは思わないのか」  眦を吊り上げ、いつになく菊枝に対し厳しい声で叱責をする壮真を、春海は意外な想いで見ていた。 「重ね重ね申し訳ない。せっかくの料理を不味くしてしまって」  呆気に取られたように菊枝を見ていた千寿留が、はっ、と我に返って「いえ」と取り繕った笑みを浮かべる。 「ちょっと驚いただけですから。お気遣いなく。ね、お父さん」 「……ああ」  眉を顰めたまま頷いた竜太郎をこっそりと肘で突いて、千寿留は粗方食べ終わった器に目を落とした。 「でも……不躾なようですけど、その冬樹さんという方は、どうして亡くなったんですか」  その問いに、虚を突かれたように息を詰めた壮真が「ああ」と気の抜けた声を漏らし、次いで言葉を探すように視線を斜め下にやった。 「二十六の時に、事故で」 「それは、お気の毒でしたね。……でも、だから春海さんを迎えたんですよね?」  千寿留の声がやや棘を帯びるが、壮真は気付かないようだった。 「ええ。私と菊枝の間に子供は冬樹だけでしたので」  いっそ軽く聞こえる壮真の言い様にも、千寿留は軽く頷いて続けた。 「私も、世間体を気にしていました。いつまでも結婚しない娘にやきもきして、ご近所や親戚と顔を合わせるたびに、結婚はまだか、早くしないと高齢出産になるぞ、なんて言われて。それをそのまま娘にぶつけていました」  竜太郎がちらりと千寿留を見やり、けれど何も言わずに小鉢をつつく。 「それが正しいと思っていました。人並みに結婚をして、子供を産んで育てることが幸せなんだと。親として娘には『人並みに』幸せになってほしい」  ふ、と自嘲するように微笑んだ千寿留は、芽衣に目を向けた。 「自分の価値観で、娘の幸せの選択肢を狭めようとしていたんだと、気付きました」  噛みしめるような口調の、穏やかな声音に、芽衣は僅かに目を大きくする。  こちらを見る母の目に、微かな後悔と深い慈愛を見た気がした。 「……昨日。春海さんはご自身の出自を明かしてくださいました。私はさっきの菊枝さんのように、お母様が水商売だったと聞いて、正直結婚をやめさせようと思いました。世間の目は厳しい。わざわざそんな自分から誹謗中傷を受けるような道を選ばなくても、と」  僅かに眉を寄せた千寿留が、口の端を歪める。そっと伸びてきた手が、芽衣の膝にあったそれに重なった。 「でも……娘が子供を産めない体だと知って、それでもいいと選んでくれたと知って、分からなくなりました。……世間体って何なんでしょうね。なんて現金な、と思ってくれて結構です。私は、娘が幸せならそれでいいんです」  千寿留の目が、芽衣の向こうにいる春海に向けられる。 「春海さんとであれば幸せになれるというなら、もう、それでいいんだと思えたんです」  口を噤んで千寿留を睨むように見ていた菊枝が、押し出すような声で問う。 「つまり、幸せを決めるのは親ではなく本人だと言いたいんですか」  ゆっくりと目を瞬かせた千寿留が、静かな表情で菊枝を見返した。 「――――― そうです。親は、何かあった時に手を貸してやれるようにしておけばいい。あなたは、恨まれたいですか、自分の子に」 「恨まれたい?」  細い眉をぐっ、と顰めて問い返した菊枝を、挑むように見て千寿留が続ける。 「親の言いなりに結婚して、そこにいつまでも幸せが見出せなかったら……その選択を後悔するようなことがあれば、子供はその選択を押し付けた親を恨みますよ」  ふ、と菊枝が目を瞠る。 「自分で選び取ったものなら、後悔も自分のもの。人生を左右する大きな選択は、本人にさせるべきです」  きっぱりと言い切ってから、千寿留は僅かに眉を寄せて微笑んだ。 「……なんて、偉そうに言いますけど、私も今回のことで気が付いたんです」  菊枝から、隣に並ぶ芽衣と春海に視線を移す。 「怪我をしないように、間違いがないように、前もって諭して正してやるのが親の役目。ずっとそう思ってきました。でも、本人がどうしてもと望むなら、ただ見守るのも親の役目なんですね」  ふっ、と笑って「それが悪いことでない限り」と茶目っ気たっぷりに付け加えた。 「お義母さん……」  少し目を潤ませた春海が溜息のように呟くのが耳に届いて、芽衣もなんだか目の奥が熱くなるのを感じた。 「お母さん、ありがと」  噛みしめるように言った娘を見つめて、千寿留は目を細める。  その表情は「母」の慈愛に満ちていた。
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