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 芽衣の両親をホテルの部屋に送り、やっと我が家に帰りついた二人は、どちらからともなくソファに体を投げ出した。 「疲れた……」  呟きさえシンクロして静かなリビングに響き、肺の中の空気を全部吐き出してしまうような長い溜息を洩らす。 「なんていうか、むしろ厄介ごとを増やした気もするけど、取り敢えず一つ山を越えたかな」 「厄介ごとは確実に増えましたけど、まあそうですね」  覇気のない声で交わし、しばし二人とも黙り込む。 「厄介だよな」 「厄介ですね」  しん、と静まり返ったリビング。  静寂が耳に痛い。  ソファに体を預け、二人揃ってしばし呆然と空を眺める。 「……なんていうか、ちょっと現実逃避をしたいです」  ぽつりと呟いた芽衣に、一拍分の間を置いてから春海が頷いた。 「俺もだ」 「取り敢えず、お風呂の用意をしましょうか」 「じゃあ、風呂上りにゆっくりお茶でも飲もうか。用意しておくよ」  揃ってソファにだらりと体を投げ出したまま、天井に向けて気の抜けた声で交わす。  それぞれ次に起こす行動を口にしたものの、全身からすっかり力が抜けたようで指先一つ動かす気力が湧かない。  ああでも、お風呂に浸かって、ゆったりした部屋着に着替えてのんびりと寛ぎながら温かいお茶を飲みたい。  段々と湧き上がってきたその欲望に、芽衣は「よし」と呟いて勢いよく起き上がった。 「お風呂入れます」  それを目で追った春海が倣うように起き上がり、一つ伸びをしてソファを立つ。 「緑茶と紅茶、どっちにする?」 「緑茶がいいです」  即答した芽衣を見返して、春海は小さく首を傾げた。 「緑茶か……お湯を沸かして湯呑の用意をするから、淹れ方を教えてもらえる?」 「はい、喜んでー!」  元気よく答えると、春海は「居酒屋か!」と弾かれたように笑った。    入浴の後、並んでキッチンに立った二人は、茶葉と急須を並べる。  芽衣の指示のもと、慎重な手つきでお茶を淹れる春海の表情は真剣そのもの。  ぴったりと二つの湯呑にお茶を注ぎ切って、急須を置いた春海はふう、と息を吐き出した。 「うん。いい香りです。そうだ、お茶請けにめんべいを出しましょうか」  ふんわりと湯気と共に立ち上る香りを吸い込んだ芽衣がにっこりと頷くと、春海は「めんべい」と不思議そうに繰り返す。 「これです」  じゃん、と箱を見せると、合点がいったように「ああ」と目を大きくした。 「ラーメント一緒に貰ったお菓子だ」 「はい。ちょっとピリっとして美味しいですよ」  リビングのソファに陣取り、風呂上がりのゆったりとリラックスした気分で湯呑に口をつける。  ふんわりと香る緑茶の柔らかな青さに目を細めた。 「なんだか、やっと息を吐けた気がします」 「右に同じ」  隣でやはり一口緑茶を含んだ春海が、深い吐息と共に頷く。  箱の中に整然と並んだ一枚を取り上げ、矯めつ眇めつしてから個包装のフィルムを裂いた。  ぱりん、と良い音を立てて齧った春海が噛み砕く音を聞きながら、芽衣も一枚摘まむ。 「うん、明太子!美味しいね」 「美味しいですよね。今はいろんな味があるらしいですよ。ネギとかマヨネーズとか九州しょうゆ味……」 「へえ、面白いね」  数時間前のギスギスした空気が遠い過去のように思える。  ぱりん、と薄い煎餅を噛み砕く音が静かなリビングに思いの外響く。  それすらも心を和ませるようで、芽衣は僅かに緩む頬をそのままにぱりぱりと咀嚼して、熱いお茶を啜った。 「春海さん、お茶、美味しいです」 「ほんと?良かった。まあ、及第点ってところかな」 「いえいえ、免許皆伝です」  ほんわか、とはこういうことか、と頭の隅で思いながら、リビングを満たす柔らかい空気に身を委ねる。  美味しいお菓子と、温かいお茶。  気取ったり、顔色を窺ったりしなくていい会話。 「まだ十九時前ですね。春海さんは今からどうします?」 「何だか気疲れしたし、何も考えずに音楽でも聴きたい気分かな」  溜息というより、気持ちが緩んで思わず漏れたような吐息と共に言った春海に頷く。 「私も久々にログインしようかと思ってます」 「ああ、例の……オンラインサバゲー」 「はい。『白い残響』です」  真顔でこっくりと頷くと、春海が「もうスイッチ入ってるじゃん」とおかしそうに笑った。  夕飯はそれぞれにデリバリーでも頼もう、と意見の一致を見て、湯呑を洗った後は「おやすみ」を告げて、それぞれの部屋に引っ込む。  すでに入浴も済ませてパジャマであるし、寝落ちしてもいいようにエアコンは少し緩めてもこもこのカーディガンを着込んだ。 「……先に何かオーダーしておこうかな」
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