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 その目の端で、カーソルが動き出す。 『普通って、結局誰かの物差しでしかないんだな』  普通。  普通って、難しい。  何をもって『普通』と呼ぶのか。  『普通』『平均』『マジョリティ』  これらは等しいのか。それとも違うのか。  大多数の大まかな統計でしかないそれに、気付かないうちに引っ張られて、それが『基準』だと思い込んでしまう。 「普通の幸せ。……それって、別にみんな同じじゃなくてもいいと思うんだ。何をもって幸せというのか、それは人それぞれなんだから。大多数の思う『普通』っていうテンプレートに押し込もうとしなくたって、自分が幸せだと思うなら、そのカタチは正解なんじゃないかな」  テーブルに置いたカップの縁を人差し指で撫でながら、独り言のように呟いたそれを、マイクがしっかり拾って文字にしてゆく。  ややあって、画面の中のイオが動いた。  視界の隅でそれを認めて、画面に目をやる。  プライベートモードは、画面上も他のプレイヤーがいない。  ファンタジー系RPGでおなじみの木造の酒場に、シンプルなテーブルと椅子があるだけの空間で、獣頭が華奢な女性を抱きしめた。    ――――― 彼、やっぱり君のことが好きなんだと思うよ    不意に耳元に蘇る、春海の声。 『俺、サツキのこと好きだよ』  自分のキャラクターを動かすことも忘れて、ただ画面を見つめていた芽衣の目に、その文字列が飛び込んでくる。  口を付けようとしたカップが途中で止まる。  うっかり口を半開きにしたまま、その一文を凝視した。 『でも、俺がサツキと同棲なんてしたら、すぐケンカになりそう。今の話聞くと』  ぴく、と片方の眉が上がるのを自覚する。 「―――――は?」 『だってさ、どっちが家事をやるかで絶対揉めるじゃん。三日と経たずに大ゲンカだよ、多分』 「それは否めない」 『だろ。なんか、むしろ旦那さんを尊敬するわ』 「そうでしょ。崇めよ」  ふふん、と鼻で笑って言うのを完全にスルーしてイオが続けた。 『俺、あの時に俺の方が絶対サツキのこと大事に思ってる、なんて言ったけど』  駅前のカフェの景色が蘇る。  向かいに座った、キャスケットの似合う、線の細いK-POPアイドルみたいな大学生。 『好きだとか、大事にする、なんて気持ちだけじゃ、超えられないものってあるんだなって』 「どこでそんな大袈裟な話になった?」  ほんの数分の会話でイオの価値観を変えてしまったらしい。 「まあでも、みんなそれぞれに考え方があるってことを知るのは大切だと思うよ。結局は他人なんだから、嫌なことも好きなこともみんな違うってこと」  とはいえ、早々には変わらないだろうけど。  頭の隅で思いながら締めくくるつもりで言った。 『離婚の理由でよく「価値観の違い」って言ってるのが、何となくだけど分かった』  思わず噴き出した。 「常套句だね。でもそう、諸々ひっくるめて一言に集約しようとすると、しっくりくるのが『価値観の違い』なんだよ」  実際、離婚に至る内情なんて、どちらかの不貞とか、モラハラとか、生易しいものじゃないだろうけど。それでもきっと根底にあるものはその一言に尽きる。  そこからスタートして、進むうちにどんどん互いに離れて行く。  私とイオが合わないように、自分とぴったり合う人を見つけるのは難しい。  お互いがどこまで譲歩できるかなんだろうと思う。 『サツキと社長はどうやって分担してるの』 「私たちは、どっちも料理をしないから、基本はそれぞれで調達することになってるけど。出る時間も帰る時間も大抵同じだから、何となく一緒に食べてるっていうのが現状かな。デリバリーだったり、簡単なものをどっちかが作ったり。相手も食べるなら、ついでだしね。洗濯もそれぞれ。自分の部屋は自分で掃除、共用スペースは気が付いた方がやる。ハウスクリーニングも利用するよ。ごみ捨ては週替わりで交替制。……これくらいかな」 『へえ……割と大雑把な感じだね』 「そうね。あんまりガチガチに決めてしまうと、上手くいかないだろうって社長が。私もそれは同意した」 『確かに。ガチガチに決めて、やらなきゃって義務感に駆られるとストレス溜まりそう』 「でしょ」 『社長すげえな』 「そこに落ち着くの」  イオの感想に思わず吹き出す。  でも、そうだね。 「出会えてよかったと思う」 『急に惚気んな』 「てへぺろ」 『古い』  この子、本当に私の事好きだったの?  半眼で文字を見つめて、すっかり冷めてしまったミルクティーを飲み干した。 『そうだ、ログインした時にポップアップ広告が出たと思うけど、月末から始まるイベントでさ……』  するりとゲームの話題を切り出したイオに乗っかって、互いの装備や所持アイテムの話で盛り上がり、久しぶりの勘を取り戻すために受けた依頼に付き合ってもらった。
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