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 すでにデスクに戻っていた社長は、応接セットへ移動することはなく、ちらりとデスクの隅を目で示した。 「失礼します」  茶托ごと取り上げて、そっと示された場所へ置く。  春海はすかさず手を伸ばして湯呑を取り上げ、口をつけた。  ゆっくりと味わうような間の後、「うん」と頷く。 「君はお茶を淹れるのは上手いな」 「ありがとうございます」  朝の日課もお茶にしてくれないだろうか、と思っているのだが、何も言われないから毎朝とりあえずコーヒーを淹れるという試練が続いている。  当の春海は、どうもそれを楽しんでいる節があるから質が悪い。  表情にあまり出ない人だから、本心はわからないけれど。  今の「上手いな」の一言だって、にこりともしない。  誰に対しても媚びるということをしないのだ。  人によって態度を変えないのは大変好ましいと思っている。  自身が媚びないからこそだろうが、媚びてくる相手にも手厳しい。  普段滅多に笑うことのない春海だが、相手がわかりやすく媚びてくると、にっこりと笑みを見せる。  あんな絶対零度の微笑は、今まで見たことがなかった。  自分に向けられたわけでもないのに寒気を感じたほどだ。  もしかしたら室内の温度も下がっていたかもしれない。  整った顔立ちをしているから、その冷ややかさが余計に恐ろしかった。  綺麗な人が怒ると怖い、というのは本当だ。身をもって知った。  絶対に怒らせないようにしよう、と固く誓った瞬間だった。  自分のデスクのパソコンが立ち上がるのを待ちながら思い出して、思わず二の腕を摩る。  三十九歳で未だ独身。加えてあの顔立ち。  社長に就任したのが六年前の三十三歳の時だから、きっとその頃は縁談が後を絶たなかったはずだ。  でも結婚はしていない。 「女に興味がない、とか……?」  女どころか、人に興味がないのでは、と思われることがしばしばあった。 「ま、いいか。社長が結婚していようがしていまいが、仕事に支障がなければ私にはどうでもいいこと」  自分に言い聞かせるように呟いて、仕事仕事、と開いたファイルに向き直った。    九時からの各部門長を集めた会議は、なかなか見物だった。  芽衣は部屋の隅に控えていたが、配られた資料を元に各部署の長が報告していく中で、質疑応答に移るたびに春海が痛いところを指摘するのだ。  この場には担当者ではなく、担当者の纏めた資料しか持ち合わせていない部門長しかいない。目標値に達していない部分の対策がいくらか濁してあるのを、芽衣ですら気づいた。  なあなあで済ませようというのが透けて見えたが、そもそもこの社長がなあなあで済ませるはずがない。  効果があるかどうかは置いておいて、対策案が付記されているものには、特に言及しなかった。  要は、その問題点に気づき、あやふやなままで放置していないか、否か。  実現の可否は二の次。  社長は頭ごなしに駄目は出さない。  どんな若手でも、入社1年目の新人でも、アイディアは等しく吸い上げて、優秀だと思えば採用する。  だから、概ね社員に人気がある。  古参は面白く思わない人が多いようだけれど。  今日の部門長会議も、集まっているのは古参ばかり。  本当なら、人事を入れ替えたいところなのだろうと思うけれど、理由もなく左遷するわけにもいかない。前社長のシンパで構成されているという噂も耳にしたことがあって、それだと余計に下手なことをして反感を買うのは避けたいところだろう。  前社長の久世壮真氏は、現社長である久世春海の父。  現在は会長の役職に就いているが、実質隠居生活だという話。  芽衣は会ったことがないからわからないけれど、なかなかの剛腕だったらしい。  そういう人はえてしてある程度のカリスマ性を持っている。  前社長のシンパである古参からしたら、今の社長は細かいことばかり指摘して、面倒くさく思えるのかもしれない。  でも。  膝に置いたタブレットPCで議事録を作成しながら考える。  長いスパンで考えるなら、誤魔化しやその場しのぎでやり過ごそうとする体質は改めた方がいい。  現社長は、仕事に対する姿勢を叩きこもうとしているのかもしれない。 (……ここにいる人たちからしたら、今更、って感じなんだろうけど。なんだかんだで頭が固い人たちばかりだし)  そっと溜息を漏らして胸中で独り言ちる。    予定より十分ほど早く会議は終了した。  社長は無駄に長い会議も嫌うから、大抵予定時間を大幅に超過することはない。  集まっても意見が出ず、沈黙が続くようなら10分待って切り上げる。 「次回までに意見を纏めておくように」  秘書になって初めて立ち会った会議で、そう言い残してさっさと席を立った時には、芽衣も驚いた。 「時間の無駄だ。あの場でいくら考えたところで建設的な意見は望めない」  尤もだと思った。
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