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「……洋食みうら……」  年季の入った看板にペンキで書かれた文字を口の中で読み上げる。  庇はピンクと白の縞模様だったけれど、恐らくそれは赤と白だったのだろうと思われる。長年風雨に晒されて色が褪せているのだ。  壁も窓枠もガラスの嵌まった格子ドアも白で、ところどころ塗装が剝がれてしまっているけれど、きっと当初はとても可愛らしい店だったに違いない。  昔ながらの洋食レストラン。  中に入ると、こちらは日々きちんと手入れされているだろうことが窺えた。  床は飴のような深い色合いで明かりを鈍く返しているし、テーブルにかけられたクロスも真っ白。子供の頃連れて行ってもらったレストランを思い出す。アイロンがけされたクロスがあまりに真っ白で、汚してはいけないと緊張していたものだった。 「なんだかちょっと意外です。可愛らしいお店で」  席に通され向かい合って腰を落ち着けてから声を潜めて言うと、すでにメニューを広げていた春海がちらりと目を向ける。 「そうか?ここはよく来るんだ。立ち食い蕎麦も多いけど」 「立ち食い蕎麦なんて食べるんですか」  驚いて問い返すと、春海は気にする様子もなく頷いた。 「早くて美味くて安い。最高だろ」  値段を気にするタイプだったとは。 「何にする。ここはナポリタンが絶品だぞ」 「ナポリタン。いいですね。そういえばここ最近ナポリタンなんて食べてない」  目の前に広げられたメニューに載っている写真も美味しそう。 「あ、でもコロッケも美味しそう……」 「コロッケなら、こっちのカニクリームコロッケが美味い」 「カニクリームコロッケ!」  思わず目が輝く。  しかしナポリタンも捨てがたい。  ナポリタンとカニクリームコロッケでは多すぎるし……。  一人で悶々と悩みながらメニューを睨んでいたが、芽衣は恐る恐る春海に訊ねた。 「あの、社長はシェアとか平気な人ですか」  そろりと訊ねると目を瞬かせて首を傾げた春海が、芽衣とメニューを見比べて察してくれる。 「カニクリームコロッケを別に一皿な」 「ありがとうございます」  これで両方食べられる、と満面の笑みを浮かべた芽衣に、春海が小さく笑った。  それが酷く自然な笑みで、芽衣はつい見入ってしまう。  笑った。  初めて見た。  いや、笑うよね、人間なんだから。  心の中で忙しなく呟き、大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着ける。  そうか。あんな風に笑うのか。  もっと、笑ったらいいのに。もったいない。  そんなことを考えている芽衣を余所に、春海は軽く手を上げて店員を呼ぶ。 「ナポリタンのセットを二つとカニクリームコロッケを一つ」 「かしこまりました」  端末ではなくメモに取って、にこやかに去っていった店員は、厨房に向かってオーダーを口にしている。  店内はほどなく満席になって、ガラス越しに外を窺えば、列ができ始めていた。 「大通りから逸れてるし、目に入りづらい立地なのに、人気なんですね」 「ここは長いからな。古い馴染みの常連客が多い」 「社長もですか?」  水のグラスを持ち上げる春海に目を移して問うと、頷いた。 「社長になってからだから、六年になるな。昔ながらの洋食屋で懐かしい味がする」 「おふくろの味、ってことですか」 「いや……まあ、そうかな」  否定しかけて吞み込み、グラスに目を落として曖昧に頷く。  芽衣は目を瞬かせて春海の様子を窺った。 「社長のお母さまって、どんな方ですか」  注文したものが届くまでの、他愛のない話のつもりだった。  けれど、春海は警戒するような光を載せた目を芽衣に向け、「どうして」とやや硬い声で問う。思わぬ反応に、芽衣は一瞬息を詰めるが、小さく首を振って答えた。 「久世グループの会長の奥様って、どんな方なのかと思って」  僅かな間の後、春海はそっと息を吐いてグラスの縁を指で撫でながら口を開く。 「――――― 自分中心の人だよ。周りのことなんて見えてない。気分の赴くままに生きてるような人」  酷く冷ややかな、突き放すような言い様に、芽衣は言葉を失って春海を見つめた。 「わがままで、思い通りにならないと癇癪を起こす子供みたいな人」  水のグラスに目を落として、ひそりと続けた声は、先ほどまでの冷ややかさはなかったけれど、それでもやはりそこに愛情らしきものは感じられない。 「あの……すみません、変なことを聞いて」  そこで我に返ったように目を瞬かせた春海は、思い出したように芽衣を見た。 「いや、俺の方こそすまない。忘れてくれ」 「はい……」  折り合いが良くない、ということはわかる。  けれど、母親をこんな風に言うなんて。  この人は他人どころか、家族にすら興味がないのだろうか。
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