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 車窓の向こうを流れていく街並みを見るともなしに見ている久世(くぜ)春海(はるみ)の隣で、彼の秘書である(あららぎ)芽衣(めい)は手元のタブレットでスケジュールを開いた。 「これからホテル・グランツの五階、ラヴェンデルホールでカワハラ電機工業の会長、川原進氏のお誕生日会です。プレゼントとお花は手配して、今朝配達完了の連絡が来ております」 「川原氏は何歳だったかな」 「八十六歳です」 「分かった」  春海が頷いたところで、都心に優美に建つ高級ホテルの車寄せに滑り込む。  ドアマンがにこやかに近づき、後部座席のドアを開ける。  先に反対側から降りた芽衣は、そのドアマンの側に立った。  開いたドアから降りてきた春海は、派手さはないが仕立てのいいスリーピースを着こなし、足元はしっかり磨かれたクロケット&ジョーンズのオードリー。スーツの袖から覗く時計はジャガー・ルクルトのグランド・レベルソ。  顔立ちにも立ち居振る舞いにも品があり、折しもエントランスへ入ろうしていた別の客の目を集めた。  ドアマンに目で挨拶をした春海は、颯爽とした足取りでエントランスに向かう。  その一歩分後ろを芽衣が続いた。  エレベーターに乗り込み、芽衣は手元のタブレットに目を落として口を開く。 「本日の招待客の中に、河井エレクトロニクスの黒田様と(うしお)酒造の夏木様がいらっしゃいます」 「……酒癖が悪いと評判の二人がそろっているのか……。あまり近づかないでおこう」 「それが賢明かと」  ポン、と柔らかなベル音と共に浮遊感が止まり、エレベーターのドアが音もなく開く。  絨毯敷きの廊下を進み、毛筆で「川原進氏誕生会会場」と書きつけられたプレートを横目に、受付の前に立った。  かっちりとしたタイトスカートのスーツに控えめなコサージュをつけた年配の女性が、にっこりと会釈をした。 「KUZEマテリアルの久世春海です」  芽衣が招待状を差し出しながら告げると、女性はそれを受け取って頷き、横の箱に並べられた名前入りのコサージュを一つ取り上げた。 「こちらを胸ポケットにお差しください」 「ありがとうございます」  安全ピンタイプではなく、胸ポケットにクリップで挟むタイプ。  服に穴を開けない細かい配慮に感心しながら、春海の胸ポケットに「失礼します」と断って差し込む。  扉を開け放されたホールに足を踏み入れると、ドアの側に待機していたホテルスタッフが恭しく頭を下げ、さっ、と春海のコサージュに目を走らせると、にこやかに口を開いた。 「KUZEマテリアルの久世様。お待ちしておりました。お飲み物はいかがいたしましょう」 「ペリエを。君はどうする」  振り返った春海に問われ、「同じものを」と答える。 「ペリエをお二つですね。すぐにお持ちいたします」  にこやかに応じてドリンク類の並んだテーブルへと向かうスタッフを見送り、春海と芽衣は人が集まっている方へと足を進めた。  近づいてくる春海を認めて、一人が道を開けるように下がると、それにつられるようにその場にいた人々が一歩引き、自然と道ができる。  まるでモーセのようにそこを進んだ春海は、塊の中央にいた老人の前に立った。 「お誕生日おめでとうございます、川原会長。このたびはお招きいただきありがとうございます」  アルカイックスマイルで告げた春海を見返し、川原は目を細めた。 「おお、KUZEマテリアルの。お父上はお元気かな」 「はい。おかげさまで隠居生活を楽しんでいるようです」  能面のような笑みをちら、と見やった芽衣は、内心でそっと息を吐く。  それとなく目だけで周囲を見回すと、それぞれに談笑を楽しんでいるように見せて、こちらの会話に耳をそばだてている様子が窺えて、漏れそうになった溜息を吞み込んだ。  春海は世間的に見て「イケメン」だ。  経済誌関連のみならず、女性誌からもインタビューのオファーが引きをきらないのだが、悪目立ちすることを嫌う彼は、そのすべてを断っている。  加えて愛想を振りまくということをしない。  常にその表情の変化は最低限。  いつも女性がちらちらと浮足立った視線を向けてくるが、ものともしない。そこに見えない壁でもあるのかと思うほど。  この一年で仕事をする上での癖や好みは把握したと自負しているが、プライベートな部分はまったくと言っていいほど知らなかった。  独身であることは確か。  でも、イケメンで仕事もできる男が、多少愛想に欠けるくらいで結婚できないなんてことがあるだろうか。  KUZEマテリアルは日本でも有数の大企業、久世グループのトップに君臨する会社。  その会社の社長を務める春海は若いとはいえ三十九歳。  企業の社長ともなれば、パーティや催しにパートナー同伴で出席を求められることも少なくない。  若いうちなら秘書で事足りるだろうが、ある程度の年齢になってくるとそうもいかなくなってくる。  案の定、川原が水を向ける。 「君もそろそろ身を固めて、お父上を安心させないと」  その瞬間、春海の目の奥が、すう、と冷めるのを見た。 「生憎ご縁もありませんし、結婚する気もありませんので」 「おや、それはいかんな。お父上に孫の顔を見せないつもりかね。跡継ぎはどうする」 「跡継ぎなんて、社内には有能な社員がたくさんいます。血縁者にこだわる必要もないでしょう」  アルカイックスマイルを崩さずに答える春海に、川原はやや鼻白んだ。 「お父上も同じ考えならそれでも……」 「あくまでも私の考えであって、父は関係ありません」  はっきりとした口調で言い放った春海を驚いたように見返した川原は、やれやれと言いたげに緩く首を振った。 「君にもそのうちに分かるだろう。家の大切さというものがね」  苦々しく呟いた川原に小さく頭を下げて、春海は「失礼します」と輪を抜け出した。
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