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「資料は何も無いよ」
「えっ」
食べ終わった小須戸の返事に、みさをは言葉を失った。
「今、言われている新型コロナっていわゆる風邪のウイルスに似ているって話だけど、正体が全くわかっていないから」
「じゃ、じゃあどないしようもありません……じゃないですか」
思わず立ち上がったみさをは慌てて語尾を標準語に言い換える。
小須戸の顔を見るとマスクを着けていたが、はしっこがさっき食べていたやきそばパンのソースで少し汚れていた。
「どないすればいいんですか」
「自分達で調べればいいんじゃないかな」
「うちら、医者じゃないんですよ?」
「でも会社から言われてるし」
「どないして調べろと」
「じゃあデータを送る」
チャットツールを通じて、文書ファイルがみさをのパソコンに送付されてきた。
みさをがファイルを開くと「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の具体化に向けた見解」と題された文書が表示された。
中身を確認すると、感染者の状況、感染経路、そしてPCR検査などといった、最近耳馴染みのある文言が並び、その詳細が記載されていた。
作成者と思われる部分には「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」と記載されている。
「これは……どないしたんです?」
「今朝、省庁のHPを回ってて、見つけた」
「見つけたって……」
簡単に言ってのける小須戸に、みさをは内心驚いていた。
「とりあえず太字で強調されているところを読むだけでも、だいぶ違うと思う」
小須戸の言葉に、みさをは文書内の太字の部分に視線を移し、読み上げる。
太字で書かれているのは三か所。
「『感染の拡大のスピードを抑制することは可能だと考えられます。そのためには、これから1-2週間が急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際となります。』」
二か所目に視線を移す。
「『これからとるべき対策の最大の目標は、感染の拡大のスピードを抑制し、可能な限り重症者の発生と死亡数を減らすことです。』」
そして、三か所目。
「『このウイルスの特徴として、現在、感染を拡大させるリスクが高いのは、対面で人と人との距離が近い接触(互いに手を伸ばしたら届く距離)が、会話などで一定時間以上続き、多くの人々との間で交わされる環境だと考えられます。我々が最も懸念していることは、こうした環境での感染を通じ、一人の人から多数の人に感染するような事態が、様々な場所で、続けて起きることです。』」
みさをは視線を上げて、小須戸の顔を見る。
「これって……」
みさをは驚いていた。確かにこれらはテレビや新聞でも言われていることである。
だが、それが明確な省庁の書類ではっきりと記載されているのを実際に目の当たりにするとは思ってもいなかった。
てっきり密室の会議でそれが決定し、記者発表を通じて知ることしかできないと思っていたからだ。
「ここの記載を見る限りでは、ある程度明確な方針は出ているみたいだね」
小須戸の視線はパソコンのモニターのままである。
「でもこれ、おかしくないですか。この文書の内容と報道の内容が全然違うやないですか」
「ここに書かれている内容も報道されている内容も、ほとんど一緒じゃないかな。言い方が違うだけで」
「その言い方が問題なんじゃないんですか」
「それをこっちに言われても……」
「だって、今、学校は休校に入ってるし、いろんなイベントも中止になってます。四年に一度の国際大会だって今年、できるかどうかわかりませんのに。こんな書き方されて信用しろ。ってのは無理やないですか。これだと大したことないって、みんな受け取ってしまいます」
「『感染者の状況については、ほとんどが無症状ないし軽症であり、既に回復している人もいます。国内の症例を分析すると、発熱や呼吸器症状が1週間前後持続することが多く、強いだるさ(倦怠感)を覚える人が多いです。しかしながら、一部の症例は、人工呼吸器など集中治療を要する、重篤な肺炎症状を呈しており、季節性インフルエンザよりも入院期間が長くなる事例が報告されています。現時点までの調査では、高齢者・基礎疾患を有する者では重症化するリスクが高いと考えられます。』」
小須戸は文書の感染者の状況と記載されている部分の内容を読み上げる。
「これが、感染者の状況だね」
「いや、状況だね。じゃなくて」
「『これまでに判明している感染経路は、咳やくしゃみなどの飛沫感染と接触感染が主体です。空気感染は起きていないと考えています。ただし、例外的に、至近距離で、相対することにより、咳やくしゃみなどがなくても、感染する可能性が否定できません。』」
「勝手に話を進めないでくださいよ!」
さすがのみさをも、小須戸に抗議の声を上げる。
「でも事実関係はきちんと整理しないと」
「事実と現実が違うじゃないですか」
「たぶん次のところじゃないかな。報道がヒステリックになってる原因」
「そうなんですか?」
「読んでいい?」
「……どうぞ」
納得はしていないが、みさをは小須戸に発言を促す。
「『無症状や軽症の人であっても、他の人に感染を広げる例があるなど、感染力と重症度は必ずしも相関していません。このことが、この感染症への対応を極めて難しくしています。』」
無症状感染者。
それはみさをの耳にも馴染んでいる言葉。
だが、たった数か月前までは全く聞かなかった言葉。
「つまり、どういうことなんですか?」
「子供が無症状感染者だったりしたら、みんなにあっという間に広げるってことじゃないかな。ただでさえ学校は子供同士、触れ合うことが多いし」
冷静な分析だった。
「それで家に持ち帰って家族、おじいさん、おばあさんに感染させる」
おばあちゃん子のみさをには、その先は考えたくはない。
「今、世間を騒がせている新型コロナウイルスに関しては、この書類に書かれている事が全てだと思った方がいいと思う」
「でも、それじゃみんな納得できませんよ……」
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