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≪KK編 01話 -ふたりの始まりは突然に- ≫
とぼとぼ。とオフィスの廊下を歩く彼女の足取りは重い。
彼女の名は刈谷みさを。
入社二年目を終え、もうすぐ三年目を迎えようとしている。
彼女は今、憂鬱だった。
彼女はこのたび、新しい業務を会社から任ぜられた。
業務の内容は、今、世間を騒がしつつある、いわゆる新型コロナと呼称されているウイルス感染症について調査を行うというもの。
それ自体は正直かまわない。
難しい仕事だとは思うが、まだ今の自分は仕事を選べるような立場ではないし、何より会社から期待されていることの現れでもあるのだろう。
しかし、である。
世間では強制的に人流を抑制する緊急事態宣言の発令も視野に入っているとの噂もあった。
そんな未知のウイルスに対して、いったい何をすればよいのか。
さらにいうならば、というかここからが本題なのであるが、この業務を任ぜられたのは彼女一人ではない。
その事実がさらに彼女の肩を重くする。
「刈谷さんも気の毒ね。若い男性社員と二人でこのご時世に変な仕事を任せられちゃって。しかもよりによって、あのヒキガエルですものね」
三十代半ばの化粧の濃い先輩女子社員の言葉である。手の甲をアゴに当ててオホホという笑いつきである。
「あー、彼なのね。彼はちょっとねー。まー、彼ならおかしなことにもならないだろうし。その辺りも考慮しての、人事なのかもねー」
デ……ふくよかあそばされる先輩女子社員はおまんじゅうをつまみながら、遺憾の意をぐふふと笑顔で表明した。
他人事だなと思いつつ、おかしなことにならないというのは、全くもって同意ではあった。
みさをとタッグを組むことになった男性社員というのは、女性社員の間からは令和のヒキガエルという異名で呼ばれていた。
身体は丸く、髪はチリチリ、丸い眼鏡で、毎晩暗い自分の部屋で若いアイドルの動画を見ながらゲコゲコ言って喜んでそう。
それがみさをと仕事をすることになった男性社員の、女性社員一同の評判だった。
世間を歩けばマスク一色。
みさをも朝一番でドラッグストアに並び、三十分待ったあげくにようやく7枚入りのマスクを二百九十八円で手に入れた。
小柄なみさをにはやや大きいぶかぶかのマスクだが、今はそんなことは言ってはいられない。
オフィスの入り口は開放してあった。
そっと入り口から中をのぞき込むと、薄暗いオフィスの中でもそもそと丸い物体がうごめいていた。
思わず、みさをは身を隠す。
「みさを」
京生まれのみさをはおばあちゃん子である。
「女は度胸。胸を張ってきばらんといかんよ」
いつも背筋を立てて着物を着こなし、京女を自負する祖母の言葉に、みさをは前を向いて胸を張る。
小柄なみさをはともすれば中学生にすら見られがち。
しかし、胸囲だけは人並み以上である。
その代償として、肩こりに悩まされる日々ではあるが、その事実はみさをにとって大きな誇りなのだ。
「おはようございます!」
みさをは声を張って、オフィスに入室した。
暗がりのオフィスからぬっと丸い物体がみさをの方に身体を向ける。
丸く光る眼鏡の光。
「……おはようございます。小須戸健児です。はじめまして」
重量感あふれる動きで頭を下げ、挨拶をしてくる小須戸。
向かい合う二人の間に静寂が流れる。
「あの……」
「はっ、はいぃ?」
小須戸からの呼びかけに声がうわずる、みさを。
「電気つけていいよ。俺は早く来てただけだから」
「あ、はい」
みさをは電気のスイッチを入れ、オフィスを明るくし、小須戸に向き直る。
眼鏡の奥のどんよりとした瞳。
丸い鼻、出張った頬、厚い唇、天然パーマがかかった髪。
それはまさにヒキガエルのソレ。
そして、当然のようにマスクをしていなかった。
おもわずたじろぐ、みさを。
「お名前は……」
「あっ、はい。私、刈谷みさを、です。この度はともに業務を行うにあたり、その……あの……」
「……カリヤ?」
「は、はい」
小須戸の眼鏡の光にまたもたじろぐ、みさを。
「ひょっとして、生まれは関西?」
「はい、大学からこっちに下ってきてます」
テレビドラマの登場人物の影響か、この手の話はよく持ちかけられる。
「ちなみに父は刑事じゃありません」
みさをは先手を打った。
小須戸は頬を膨らませる。
そのカエル顔を見て、みさをの肩から力が抜ける。
「よろしくお願いします!」
みさをは頭を下げつつも、勝利の笑みを浮かべるのだった。
「ま、座って。そこが刈谷さんの席だから」
小須戸は席に向き直り、斜向かいの席に座るよう、みさをに促す。
みさをもそれに従い、席に着く。
椅子に座る直前、斜向かいの小須戸がやきそばパンを食べる姿が目に入る。
みさをはうっ、と少したじろぐ。
何も食べながら仕事をしなくてもいいだろうに。
「このパソコンの中にコロナの資料があるんですか?」
みさをはパソコンの電源を入れつつ、問いかける。
「うん?」
小須戸は口をもごもごしていた。
「……あの、食べ終わってからでええですよ」
思わず、地の言葉が出てしまう。
小須戸は紙パックのオレンジジュースでやきそばパンを流し込む。
豪快な食べ方にちょっと、みさをはうらやましい。と思った。
「みさを。京女は常に人の目を意識して、京女たる振る舞いをしないとあかんよ」
ふと、みさをの脳裏に祖母の言葉がよぎった。
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