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 古ぼけた駅だった。  駅名があったはずの表札は錆び、表面が削れ落ちていた。煉瓦造りの壁も、所々が砕けて奥の石肌を露出していた。  大きく開いた入り口。改札は駅の内側で待っている。  黴びた空気に混じった、線香のような匂い。寺や神社を連想した。しかし、この場所には草木が無かった。ここの大気に森林のような清々しさは無い。全ての空気がここに流れ込んで、ただじっと停滞しているようだった。  入り口のすぐ右にはカウンターがあった。高さは女性の腰ほど。白く傷ついたコンクリートの表面に、辛うじて一面タイルが貼られていた。  肌色、橙色、灰色、白。全て泥や皮脂で黄ばんでいて、白色のタイルは火葬後の人骨に似ていた。  置いてあったのは公衆電話だろうか。一番手前の壁近くには、四角い痕があった。赤茶色い線の内側は、他より少し淡い色をしていた。  痕の近くに老婆が立っていた。 とても背の低い老婆だった。背中が曲がり、首を前に突き出していた。白髪の混じった汚い銀髪を団子にまとめ、赤い紐で縛っていた。紐の先には親指の爪ほどの大きさの飾りが二つついていた。木の実のような、濡れた赤色の表面。老婆の動きに合わせて、コツンと乾いた音を立てた。木製のようだ。  老婆の後ろ、四角い痕の隣には、古びた綿菓子機が設置されていた。  金属の器には飴がこびりつき、長年の耳垢のように積み上がっていた。器から伸びるオレンジ色のアクリルも飴の粕とかすり傷で汚れていて、年季が入っているようだった。地元の夏祭り。実家近くの花火大会。かつてこの綿菓子機に群がったであろう子供を想像して、温かい気分になった。  老婆は私の顔を見ると、そそくさと私に背を向け、綿菓子機の中で箸を回し始めた。今思うと、どこから箸を取り出したのか、いつの間に飴を注いだのかは 分からないが、老婆は慣れた手つきで人1人の顔の 大きさ程の綿飴を拵えた。老婆は無言のまま私に 向かって綿飴を差し出した。手に取ると、箸にはまだ老婆の温もりと湿り気が残っていた。  淡い桃色の綿菓子を少しかじって、舌の上で転がしてみた。綿菓子が頰や上顎に触れて、口内の水分を 吸い取った。柔らかな甘さが広がり、同時に飴が塊に 収束していくのを感じた。舌の中央に乗った飴の塊を、上顎に押し付けて水分を出してみた。染み出した液は、ただ重苦しい砂糖の味がした。  「飲み込んじゃいけないよ」  老婆は突然口を開いた。掠れていたが、丸まった背中からは想像のできない張りのある声だった。口の先から直接私の耳に入ってきたような、反響の無い音だ。  「口の中の飴が溶けきる前に、全部終わらせなきゃいけない」  私は再び綿菓子を頬張った。今度は飴がすぐ溶けきらないように、口いっぱいに詰め込んだ。  綿菓子を片手に、駅の奥へと進む。この日、私は手持ちの中で一番高い革靴を履いていた。綺麗に鞣された靴底が、駅構内の冷たい地面にぶつかって濡れた反響を生んでいた。私はこの靴の足音が好きだ。  三つの改札の手前には、石の台座があった。これも また、女性の腰ほどの高さ。中央には二股の水道。銅色の表面にはカルキが付着していた。年季が入っていたのだろうか、関節部が所々錆びていた。  左側の蛇口を捻った。片手は綿菓子で塞がっていたので、ひとつずつしか開けられなかった。吹き出した水には、何か映像が映し出されていた。ゆっくりと蛇口を閉めてみると、徐々に水面が落ち着いて、映像が鮮明化されていった。幼少期の自分。自分の背中が見える点を除いて、それは確かに私の記憶を映し出して いた。  右側の蛇口も捻った。同じように水に映像が映し出されていて、水の放出量を調節して解像度を上げた。綿菓子が全て飴に変わる前に、左右の映像を一致させなければならない。舌の上で湿りゆくそれに急かされて、手先が震えた。 間も無く電車がまいります。  アナウンスの数秒後、わずかに改札から冷たい空気が流れ出した。かすかに聞こえる車輪の音。駅に電車が近づいていた。温度、舌触り、音。多方面から突きつけられる制限に、呼吸を奪われた。心拍数が上がっていた。  ようやく左右の映像がほぼ一致した。残りは右側の微調整のみ。  すでに静まった息を殺して右手の指先に集中した。蛇口に手をかけた。  錆び。  丁寧な調整も、精神の圧迫も虚しく、右の蛇口は 開ききってしまった。電車の車体とレールが擦れる 金属音。もう間に合わないだろう。飴もほぼ舌の上の砂利と化していた。視界がぼやけ、白んでいった。瞼を閉じる気力は失われていた。薄暗い部屋を満たす朝日の光。私は瞳を開いた。
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