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小学2年生のときに家を出ていった父親と再び会ったのは、10年前に成人したときだ。
久しぶりに会った父親は、老いていた。
会うことが決まったときも、実際に会ったときも、怒りは湧いてこなかった。
母親の手ひとつで生活しているにもかかわらず大学まで行けたのも、父親がきちんと養育費や学費を払っていたからだ。
誕生日が来るたびにプレゼントも送ってくれていた。
「美沙の弟がいるんだ」
申し訳なさそうに言う父親の言葉を聞いて、不思議な感じがした。
自分に弟がいるんだ。
会ったことも、これから会うこともない弟が。
私や母親を見捨てて、新しい家庭を築いた父親。
怒りはなかった。けど。
ただ、寂しかった。
「さ……」
彼が何か呟いたような気がした。
私の名前かもしれないし、デパートで見かけたあの女の子の名前かもしれない。
彼にとって、大事なのはどっちなんだろう。
尋ねたらなんて答えるんだろうか。
「美沙のこと、今も大事に思っていることだけは、わかって欲しい」
喫茶店のテーブルにひっつくくらい頭を垂れていた父親の姿を思い出す。
人間って生き物は、他人を愛しても、同時にその他の他人を愛することだってできるんだ。
愛って、一つに絞ることができるものじゃないのかもしれない。
でもね。
与えられた方は、半分じゃ足りないんだよね。
全部欲しいんだ。
何もない平野に風が吹いたかと思うと、乾いた砂埃を巻き上げるように旋風が心の中を埋め尽くしていく。
床に置いてあるバッグのチャックを静かに開け、昨夜会う前に買ったカッターナイフと小さな薬瓶を取り出した。
私だけ。
私だけのものにするには、こうするしかない。
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