05.卒業2

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「今日は突然でしたのに、こうして食事までご一緒させて頂いてありがとうございます。」 特別な時には必ずここに来る、ミラージュホテルのイタリアンレストランの個室で空が頭を下げた。突然のあらたまった様子に両親が顔を見合わせて、それから私の方にちょっと身を乗り出した。ううん、私だって知らないよ。びっくりしてるの。空、どうしたの?横を見上げると、頭を上げた空の強い目が降りて来た。行くぞ。確かにそう聞こえた。 「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。実は僕は理沙子さんにプロポーズをして承諾して頂きました。」 えっ。今ここで?今日言うって言ってたっけ?頭のてっぺんからつま先まで血がぐるぐると駆け巡る。心音がもの凄速く大きくなっている。 「そうなの、理沙?」 ママの声がぼやけて聞こえてくる。うん、そう。自分が頷いているのも何だか浮遊した感じだ。そうだ、今日は卒業式だから特別に指輪をはめてるんだった。私は薬指をひと撫でしてから、パパたちから見えるようにテーブルの上に手を出した。 「婚約指輪。空がバイト頑張って買ってくれたの。」 「おいっ、バイトは余計だろ。」 焦ったように言う空が、やっと私の知ってる空に戻ってくれたようで、ちょっとホッとする。 「あら、素敵。ねえ、あなた?」 ママが気遣うような声を出してる。いつもパパを心配する時に出す声だ。 「ん、ああ。」 低い声でそれだけ言うとパパはお水を飲んだ。空も続いて、それでママや私たちも結局お水ばかりゴクゴク飲んだ。 「上郡君、」 ようやくパパの声が聞こえる。 「はい。」 空がとても緊張しているのがよくわかる。緊張するのなんて長い付き合いの中でもほとんど見たことがないけれど、伸びた背筋の先の肩が強張っている。私はそっとその膝に手を置いた。頑張れ、空。 「君のことは理沙や妻からよく聞いてきたよ。高校の時から随分理沙を助けてくれたようだね。命の危険があった時でも本当によく守ってくれたと聞いています。ありがとう。」 今度はパパが頭を下げている。つられて私も頭を下げた。 「いいえ、もとはと言えば僕の責任ですから。あの時は本当に申し訳なかったと思っています。」 あ、空の手がやっと私の手を握ってくれた。あの時みたいに。 「あれは全然あなたの責任なんかじゃないって、私ちゃんとこの人にも理沙の兄にも説明して納得してもらってますからね。」 ママがちょっと小鼻をふくらませている。 「うん、それはちゃんと理解してるよ。でも、結婚となると話はまた別だ。」 パパが口元を引き締めた。えっ。私はぎゅっとまるで雑巾を絞るくらいに空の手を握りしめた。いてえよ。いつもだったら絶対そう言って手を振り放してる、それくらいに。 「君は医者になるんだろう?」 「はい、そのつもりです。」 「卒業まであと二年あるね。」 「はい。」 「でも卒業したからと言ってすぐには結婚なんて出来ないだろう?研修医が多忙を極めるというのはよく聞く話だから。」 「はい、残念ながら初期の二年間はおそらく無理かと思っています。やってみないとわかりませんが。状況次第では二年目で出来ればいいとも希望してはいますが。」 「J大病院でだろう?ずっと離れ離れだな。」 「そこは…実はまだ理沙子さんにも話していないのですが、出来れば聖トマスで研修出来ればと考えています。」 「え、ええっ?」 またしても部屋中にガタンと音を立ててしまった。 「理沙、驚き過ぎよ。お座りなさいな。」 じっと黙っていたママの呆れるような声が聞こえて来てちょっと心が緩んだ。ママはいつものまんまだ。慌てて椅子に座り直すと身体ごと空に向かってその顔を見上げた。だって私聞いてないもの、全然。卒業してもまだまだ一緒にはなれないって、そんなこと考え始めたらキリがないから考えないようにしていたんだよ。空、ほんとに?ほんとに聖トマスに来てくれるの? 「それは、よくわからんが、簡単じゃないんじゃないか?医局とか色々あるだろう。」 「確かにあまり聞きませんが、でも全然ないわけでもないようです。それで今少しずつ先生たちや先輩たちに訊いてみているところです。」 「そうなの?大丈夫なの?だって医局から外されたら空、行くとこなくなっちゃうでしょ?ダメだよ、そんなの。私の為になんて。子どもの頃からずっとドクターになるって、おじいちゃんみたいになるって頑張ってきたじゃない。だったら一番働ける所に行かなきゃ。」 我慢出来ずに口を挟んだ。だってそんなの。私知ってるもの、どれだけ空が頑張ってきたか。見て来たもの、ずっと。 「大丈夫だよ、きちんと調べて決めるから。それに理沙子の為だけじゃない。聖トマスの整形には藤堂先生がいるって言ってただろ?あの人、やっぱりもの凄い人でさ、俺、いや僕も色々学びたいと思って。それでだから。」 焦げ茶色の瞳が心配するなと言ってくれている。優しく温かな光をたたえて。 「そうなの?」 「うん、そう。」 しっかりと頷く顔がとても大人びて見えて、こんな時なのにうっとりしてしまう。
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