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「ねえ、卒業してからって言ったから式に来てくれたの?」
カットソーの肩を滑る手に吐息が漏れそうになる。
「そうじゃねえよ。ただ理沙子が頑張ってたの、知ってたから、」
首筋に息が触れる。そこで話されるとつらいって知ってるはずなのに。もしかして知ってるから?
「知ってたから、なに?」
「ん?」
温かな唇がゆっくりと首に押し当てられる。
「ねえ、」
全然答えが聞こえてこない。代わりに首筋が燃えるように熱くなってくる。今じゃあ、いつだって自分のものみたいに自由に扱われる首、耳、胸元が空の手と口になぞられる。
「だから卒業式に来てくれた、の?私が…頑張って…た、か、ら?」
言葉を繋ぐのが難しい。とても訊きたいことなのに。吐息の方がどんどん多くなる。
「まだ喋れんの?余裕だね。」
黒く光っている瞳が覗きこむ。その頬を両手で包み込んだ。
「ねえ、答えて。だからなの?」
鼻で浅く笑って、
「何でそんなに訊きたいかねえ。でも、そうだよ。頑張ってた理沙子の大学での最後の姿、見ようと思って行った。」
そう言ってまた唇が近づいてくるのを抑え込んだ。
「は?何だよ?」
「待って、まだ訊きたい。」
盛大な溜息を浴びせられる。
「んだよ?」
「だって本当に驚いたんだもん。それにとっても嬉しかったから。両親に言ってくれたことも。スーツも全部。」
「スーツ?」
笑われる。
「うん。あんなに似合うなんてなあ、予想外。ああもっと心配になっちゃう。」
「もっと?」
「うん。大学時代だってずっと心配してたのに、この先、空がスーツを着る機会が増えるでしょ。」
「何を心配するって?」
ご機嫌そうに口角が上がって、目が嬉しそうに光っている。
「言わない。」
「言えよ。」
「言いまっせんー。」
「言えって。」
ベッドの上を転がって逃げたのにあっという間に抱きすくめられた。パリッとしたリネンがひんやりと背中に当たっている。
「え、もったいないでしょ?」
「何でだよ。」
「だって泊まれないんだよ?」
「んなのわかってるよ。」
「じゃあ、ほら、ええとソレ用の場所とか。」
卒業式に空が両親に挨拶をしてくれた日から一週間、春休みも終盤の土曜日、私たちはミラージュとまではいかないけれど、十分高級なシティホテルの前で言い合いをしていた。
「ソレ用の場所とか、言うな。」
空の頬っぺたが少し赤くなっている。それを見た私の頬もきっと赤くなっている。
「だって…」
「大丈夫だから。ちゃんと金あるし。」
「でもそれ、空が一生懸命バイトしたお金じゃない。指輪にも使ってくれたし、もうほとんどないでしょ?」
「いいって。そんなこと心配すんな。」
「でも…」
「あのな、」
溜息とともに声が降ってきた。俯いていた顔を上げて空の瞳を見る。困ったような宥めるような焦げ茶色の瞳を。
「俺たちの初めてだろ?それだったらきちんとした所がいいだろうが。俺はそうしたい。」
うん、それは勿論私だって。きっと一生思い出すもの。その時にどうしたって場所も思い出す。
「う、ん。でもほんとに良いの?」
「良いって言ってんだろ?よし、行くぞ。」
握り直された手が熱さを伝えてきた。
「うん、ありがとね。嬉しい。」
小さく言うと、フッと空気が揺れて、
「素直なのはよろしい。」
と偉そうに言われた。
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