05.卒業2

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この人に。この人と。高潔で優しい手に全てを明け渡す。初めて触れられること、キスされること。 「震えてんのか。大丈夫?」 どろりとした瞳なのに器用に心配も示してくる。 「わかんない。怖いかもしれない。」 「怖い?」 慌てたように身を離される。私の頬の横に両手をついて見下ろすその瞳に縋る。 「だってわかんない。どうなっちゃうのか。」 「俺だってわかんねえよ。初めては同じなんだぜ?」 いつだって自信満々な瞳が揺らいでいる。そうか。え、空だって? 「初めて?」 「当たり前だろうが。俺を何だと思ってんだよ。」 「だっていっぱい一緒だった子たちいたから。」 「ああ?」 空がごろんと横になった。手を伸ばして髪に触れる。思っていたよりはごわごわしていない、寝癖はつくけれど、多分持ち主よりずっと素直な髪の毛に。 「モテるから、空は。」 言った端から悲しく情けなくなった。私なんて経験何にもなくて、土壇場でこんな風になっちゃって。そっと手が抱き取られた。そうとしか言い様のない優しさで空の手にくるまれている。 「もう一度言わなくちゃなんねえの?」 「…」 「俺が初めて好きになったのも、初めて告白したのも理沙子だぞ?それなのに何で他をあたんなきゃなんねえのかサッパリわかんないんだけど。」 ぞんざいな物言いとは正反対な手つきで今度は私の髪の毛が触れられる。ゆっくりと上から下に撫でられる。 「怖いならやめるか?いいぞ、それでも。」 深い焦げ茶色の瞳になった空が覗き込んでくる。でも。 「大好きなの、空が。」 「うん、サンキュ。」 その胸に顔を埋めた。大好き、愛してる。だって空は私のたましいだもの。 「私にも空しかいないの。」 「おう…ってお前、この状況で煽ってどうすんだよ。」 情けなさそうな声を出す空がおかしくなって笑った。 「おい、そこで笑うなよ。くすぐったいだろ。」 でも言われれば言われるほど止まらなくなる。そのうち空も笑い出した。クックッと。ひとしきり笑ったら何だかスッキリした。だって大好きなんだもの。怖くてもどうなっちゃうかわからなくても、一緒に進むしかない。この、いつの日か私の夫になる人と。 ずっとくるまれていた手に力を込める。 「もう大丈夫。一緒に笑ったら元気になった。空、しよう。」 「しようってお前…」 タジタジしている。だから、はい、そう言って握っていた手を胸にそっと置いた。 「おい。」 「ん?」 「いいのか?」 「うん。」 「イヤだったらいつでも言えよ?」 「わかったから。」 そう言って空の首を引き寄せてすぐさま舌を絡めた。ちょっと驚いたように唇が離れかけたけど、力を込めて押し当てた。 大丈夫だよ、空、いつも気に懸けてくれてありがとね。いつものようにきっと自分の気持ちや欲望は横にどけている。本当に大切にされている。だから、今度こそ私の全てを明け渡す。空にゆだねる。 「そら、」 「うん。」 「そら、愛してる。」 「俺も。」 吐息と汗と流れ出る全ての中で、私たちはようやく一つになった。 整わない息の中、ゆったりと抱かれている。 「なんか、成し遂げた感が凄くする。」 そう言うと、空の胸が揺れて、だから私も揺れた。 「大騒ぎだったもんな。」 クックと笑われている。いや、だって。照れていたら笑い声が収まって、そのかわり顔を覗き込まれた。 「なあ、一つ訊いていい?」 「ん?」 「理沙子が、『や』って言う時、あれイヤって意味?あーゆー時のイヤとかって、やっぱ字面通りなもん?」 「ええっ。」 いきなり自分の声が蘇ってもの凄く恥ずかしくなってきた。慌てて手で顔を覆う。そう言えば散々口にした気がする。 「照れんなって。純粋に知りたいだけなんだから。だってわかんねえだろ、こっちは。それで無理強いとかありえねえし。」 そう言えば、私が声を上げる度に空は固まっていた。だから余計に全てに時間がかかり、大仕事になったのだ。 「え…と、」 「うん。」 「あれはその―」 一体何て説明すれば言いわけ?そういうことは雑誌とか色々で勝手に知っておいて欲しいのに。 「何だよ?やっぱイヤなわけ?」 心配そうに眉根が顰められた。仕方ない、言うしかないか、この朴念仁には。 「あの、ね、私限定で言えばだよ、」 「おう。」 「気持ち良くなった時に出ちゃうの。他の出してる声と同じ。ただそれ以上されると、」 「うん。」 「どうかなっちゃいそうで、どうしようって思ってるかな。」 ああ、死ぬほど恥ずかしい。火が出ている顔を空に押し付けた。 「へ、えー。」 なのにこいつは心底驚いている。 「何で?」 「え?」 「何で気持ちいいのに否定形?」 「ええっ?」 「紛らわしいからさ、次からは肯定形にしてくんねえ?じゃないと俺いまいち集中出来なくなっちゃうから。」 「肯定?え、いい、とか?」 「うん。あと気持ちいいとか。そうしてくれればわかるじゃん。その方がこっちも聞いてて嬉しいし。」 「え、ああ、はい。」 何だか毒気を抜かれたというか、ストンと納得した。確か前にもこういうことがあった。あれはプロポーズの後で私が空に触れたくてたまらなくなった時だった。空は淡々と自分もそうだし当たり前だと言ってくれて、その言葉で私は妙に落ち着いたんだった。 「というわけで、忘れる前におさらいしとこうぜ。」 「おさらい?」 空が覆いかぶさってくる。 「今度は肯定形でな。行くぞ、いいか?」 かけっこじゃないんだから。その号令は何?おかしくなって笑いながら頷いた。 空は空だ。15歳の時から変わらない。きっとこれからも根っこのところは変わらないだろう。覚悟があって優しくて堂々とした大男のまま年を取って行くに違いない。そんな人の隣で一生を過ごせる幸せを噛みしめる。 肯定形で噛みしめ続ける。
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