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「もう少しだけちょーだい」
能天気な顔で言う妹の言葉に、またか、と湊はげんなりした。
持っていたクッキーを半分に割ってしぶしぶ片方を妹にやり、せめてもの抵抗として口をへの字に曲げる。おれはあげたくてあげたんじゃないぞ、と言いたいのである。
「偉いねー、さすがお兄ちゃんね」
母は嬉しそうに湊の頭を撫でてくれる。最初のうちはこれでだいぶ満足できたが、今となっては苛立ちが増すばかりだった。
だいたい、お兄ちゃんといったって、妹とは二歳しか違わないのだ。立花湊、九歳、小学五年生。立花泉、七歳、小学三年生。湊が早生まれで泉が遅生まれなので、学年から見ると離れているようだが、実際はそこまでではない。
それなのに両親は揃って湊に泉の面倒を見させようとし、泉は湊に甘えきって我儘を言うのだった。
湊だって、もっと小さい頃は、やたらと自分の後をついてくる泉が可愛かったし、「おれと手繋いどくんだよ。そうしないと迷子になっちゃうよ」などと兄ぶってみせたこともあった。素直にぎゅっと手を握り締めてくる小さな手がいじらしくて、おれが守るんだ、と胸に誓ったものだった。
だが、最近の泉はまったく可愛いと思えない。妹だからと甘やかされるのをいいことに、湊の物をやたらと欲しがるし、湊がゲームをしていると体当たりして邪魔してくる。そして湊がそれに怒ると、「ごめんね」と言って、にへ、と笑うのだった。
何を考えているのかさっぱりわからない。謝っているのに何故笑うのか。本当に悪いと思っているのか。いや、思っていないのだ。この傍若無人な妹は、自分の行動で湊が困ったり怒ったりすることなんて、ちっとも気にしていないに違いない。
今だって、泉は湊の不機嫌など気にもせず、貰ったクッキーを満足げに頬張っている。以前なら、おいしそうで良かったな、そんなにクッキー好きなんだな、と微笑ましく眺めていただろうが、幾度となく「もう少しだけちょーだい」を食らったあとの湊は、そんな寛容な心境にはなれなかった。
「ほら湊、もう少しでドラマ始まるよ」
機嫌を取るように、母親がテレビを指さす。木曜日の夜に放送される、人気ティーンアイドルが出ているコメディドラマは、家族みんなで楽しんでいて、湊も毎回観ていた。しかし今はどうしても泉の近くにいるのが嫌だった。
「……おれ、部屋にいるから」
湊は俯いて家族に背を向け、自分の部屋に入った。ベッドに身体を投げ出し、もやもやした感情を抱えたまま、目を瞑る。
お兄ちゃんなのにこんな子どもっぽく拗ねるなんて、と情けなく思う気持ちもあるのだが、それより泉に対する腹立ちの方が上回っていた。
――なんであんな図々しいんだろう。おれがいつだって我慢しなきゃいけないのはおかしい。
それでも、自分が泉を拒否したら、きっと親に怒られるであろうことはわかっていた。湊はぐっと奥歯を噛みしめ、虚空を睨みあげた。理不尽だ。
気持ちをぶつけるように、傍らの抱き枕をぎゅっと抱きしめて丸まる。サメ型の枕の頭部は湊の腕に押しつぶされ、間抜けな顔を晒していた。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光と共に目覚める。あのあと、いつのまにか寝入ってしまったらしい。一晩寝たら、苛立ちは消えてすっきりしていた。
考えてみれば、泉だって悪気があるわけではないのだ。初めての女の子で末っ子だからと甘やかされてきて、限度がわかっていないだけだ。
今度何かねだられたら、きっぱり断ろう。そうすれば泉も諦めるだろう。
決意して、湊はダイニングに向かう。食卓の上にはトーストとハムエッグ、スープと牛乳とヨーグルトいういつもの朝食が並び、泉は既に椅子に座って食べ始めていた。
「おはよ、お兄ちゃん」
ハムエッグにフォークを突き立てながら、泉が言う。
「おはよう」
湊も席について、自分の分を食べ始める。
少しすると、泉は先に食べ終わった。だがスプーンを持ったまま、湊の分のヨーグルトに視線をやる。
「お兄ちゃん、あたしもう少し欲しいなぁ」
きた、と湊は思った。ここだ。ここでばしっと断ればいい。
「お兄ちゃんの、ちょっとちょーだい?」
無邪気な顔で見上げてくる妹に、湊はすげなく告げる。
「ヤだ」
「……え?」
ぽかん、と泉は口を開けた。まさかそんなこと言われるとは思ってもみなかったという顔だ。
「あれ、湊、そんなにヨーグルト好きだったっけ?」
向かいに座っている母は呑気にそんなことを言うが、そういう問題ではない。これは湊の尊厳の問題なのだった。頼まれればなんでも譲ってやる人間だと思われるのは困るのだ。
「泉、最近いつもおれのもの欲しがるけど、おれだって食べたいんだから、あげらんない」
きっぱりと言うと、泉は、みるみるうちに瞳を潤ませ、泣きそうに顔を歪めた。
「な、なんで……少しでいいのに」
「嫌だ」
「湊、少しならいいじゃない。今度好きなお菓子買ってあげるから」
母が口出ししてくるのを無視して、湊は泉をじっと見下ろす。いつもぽやっとしている顔が引きつって辛そうで、可哀想だ。可哀想だけど、ざまぁみろとも、思った。湊だって苦しんだのだ。そのストレスを泉も味わうべきだ。
「おれは、泉に、少しでもなにかあげたいしない。絶対に」
湊の言葉に、さすがに異変を感じた母が立ち上がる。
「湊! そんな意地悪な言い方しないの! お兄ちゃんでしょ!」
「お兄ちゃんとか関係ないよ」
湊は動じなかった。
「泉だって我慢しなきゃいけないときがあるんだ。少しだからいいなんて思うなよ」
冷たく跳ねつけるように言うと、全身を固くして泣くのを堪えていた泉は、とうとう泣き出してしまった。
母親は、慌てて泉に駆け寄り、ティッシュで顔を拭ってやる。
「あぁもう、朝の忙しいときに! 湊、いくらヨーグルトが好きだからって、妹にそんなキツいこと言っちゃだめ! 泉も、自分の分は食べたんだから少し我慢して。飴ならあるよ? 食べる?」
「いらない……」
泉はしゃくりあげながら言った。
「おに、お兄ちゃんが、お兄ちゃんの、ぐす、ふっ……」
「おれ、もう学校行くね」
「あっ、湊! 泉と一緒に……もう! 反抗期なの!?」
嘆くような母親の声を背に、湊は靴を履き、玄関に用意しておいたランドセルを背負って家を出る。
空は青く澄み渡り、太陽はさんさんと暖かい陽気を振りまいている。まるで湊の決断を祝福してくれているかのようだ。
いつにない爽快感に満たされ、湊はスキップしながら通学路の坂を下って行った。
湊が泉のおねだりを断ってから、一週間が過ぎた。
最初は一時的な湊の気まぐれか不機嫌だと思っていた母親も、どうやらもっと強固な意志からくる拒絶なのだとわかり、対応に困り果てていた。
もう湊には「お兄ちゃんでしょ」は通用しない。それに、確かになんでもかんでも湊に譲らせるのも可哀想である。ならば泉の分を少し多めにあげたり、我慢することを覚えさせたりすればいいだろう、と母は考え直した。ところが、その方法はちっとも事態を解決しなかったのだ。
最初から多めのお菓子をもらっても、あとから追加のお菓子をもらっても、泉は満足しなかった。「我慢しなさい」と言われれば仕方なく我慢したが、明るく天真爛漫な様子は鳴りを潜め、悲しそうに俯いて、口数も少なくなってしまった。
「泉、どうしたの。何か欲しい? それともどこか痛かったりする? 言わないとわからないよ」
根気強く話しかけても、黙って首を振るばかりで、最終的には逃げてしまう。普段は忙しくてあまり会えない父親が帰ってきたときは顔を出すが、それでも笑顔は見せず、今までの子どもらしい騒がしさが嘘のように静かに生活している。
「湊、泉と仲直りしてくれない? 多分あの子、お兄ちゃんに嫌われたと思ってるのよ。おねだりは叶えてあげなくていいから、ちょっと優しくしてあげるとか、ね?」
頼み込む母親に頷きはしなかったが、湊も泉が異様におとなしくなってしまったことは気になっていた。泉の明るい性格からして、多少冷たくしたところでそれほど落ち込まないと思っていたのだ。
泉のおねだりに応じないという方針を変えるつもりはないが、このままだとなんだか罪悪感が残ってしまう。
どうしようかと学校で考えていた時に、体操着が泉と入れ替わっていることに気づいた。袋には『五年三組 立花湊』と書いてあるが、中身の体操着には泉の名札がついている。
せっかくだから、取り替えがてら学校での泉の様子を見てこようと、湊は昼休みになってから泉の教室に向かった。
泉の教室は三年一組。幸い、泉はすぐにみつかった。教室の入り口のところで、何人かの友達と固まって喋っていたのだ。家とは違い、楽しそうに笑っている。
――なんだ、普通じゃん。
ほっとして声をかけようとした湊は、しかし次の瞬間、泉の顔に妙な違和感を覚えた。笑っている。笑ってはいるが、どこか不自然なような……?
逡巡している間に、泉の目の前にいる少女が、自慢げに何かを周囲の子たちに見せる。
「ねぇ、これルピルピのシール。可愛いでしょ」
「かわい~!」
「めっちゃいいじゃん!」
「ほんとにくれるの?」
「うん、いいよ~。みんな友達だもん!」
少女は手に持ったシールを次々と配っていく。最後に泉の番になり、泉はおずおずと手を差し出した。少女はシールらしきものを泉の手に押し付ける。
「あ、ありが……」
「あんたにはあーげないっ!」
さっ、と少女はシールを掴み上げ、身を翻してにんまりと笑った
「え……」
「泉ちゃんが嫌いなわけじゃないんだよ? でも泉ちゃんって、ルピルピとかあんまり興味なさそうだし。そうでしょ?」
少女は笑顔で泉をみつめる。泉は少女と、ほかの女子たちの顔の間で目線を彷徨わせ、弱弱しく言った。
「そ、そうかも……」
「だよねっ。泉ちゃんって、あんまり物とか欲しがらないもんね。給食のデザートだってあたしたちにくれるし。優しい泉ちゃん好きだなぁ」
少女は、ぎゅ、と泉の腕を掴み、教室に戻った。ほかの女子たちも、それに合わせて戻っていく。
湊は呆然とその場に立ちすくんでいた。
あれは――今のは、なんだ?
会話さえ聞かなければ、仲のいい友達とじゃれているだけに見えた。だがその内容は、とても友達同士のものとは思えない。
いや、友達ということになってはいるのだろうが、泉が浮かべているのは本物の笑顔ではなかった。裏に透ける戸惑いと恐怖と媚びに、湊は胸がしめつけられるような思いだった。
思い返せば、泉がやたらと湊に物をねだるようになったのは、三年生になってからではなかったか。お菓子をねだったり、湊のゲームをやりたがったり、湊の服を借りたがったり。ちょっとしたことをねだって、湊が譲ってやると嬉しそうにしていた。
おそらく、泉はあの女子たちと同じクラスになってから、ずっとアレをやられていたのだ。
「あんたにはあーげないっ!」
残酷に告げられる少女の言葉に、傷ついた目をする泉。
それを癒せるのは自分だけだったのに、自分まで泉を拒絶してしまった。
湊は昼休み終了のチャイムが鳴るまで、その場に立ち尽くしていた。
五時間目と六時間目の授業は、ろくに頭に入らなかった。湊はずっと泉のことを考え続け、下校中も考え、帰宅してからも考え、風呂に入りながらも考えた。
「今日はね、サブスクにおもしろい映画が入ったの。一緒に見よう」
母に誘われて、ダイニングのソファに座る。隣に座った泉は、相変わらず暗く俯いていた。学校でしていた作り笑いの欠片もない。でもこの方がまだましだ、と湊は思った。
母が大皿にいもけんぴをいれてローテーブルの上に置く。最初から分けないことにしたらしい。
映画が始まったが、泉はぼんやりと虚ろな瞳で虚空をみつめ、心ここにあらぬ様子だ。
湊は泉の脇をつついて注意を引くと、いもけんぴを何本かつまみ、手渡した。
泉は目を見開いて湊を見る。
「少しだけ、やるよ」
湊はぶっきらぼうに言った。
泉は受け取ったいもけんぴをおそるおそる口に運び、かり、と齧る。目のふちからじわりと水分が沸き上がる。潤んだ瞳は、しかししっかりと湊を写している。
「お、お兄ちゃん……」
発せられた声は震えていた。
「もう少し、欲しい」
湊はまたいもけんぴを取ってやった。噛みしめるようにいもけんぴを齧る妹に、なるべく軽い調子で聞こえるように言う。
「おれも食べたいな。ちょーだい」
泉は一瞬固まったあと、持っているいもけんぴを湊に差し出し、涙目ではにかんだ。
その笑顔、久しぶりに目にした妹の本当の無邪気な笑顔を見て、湊はじんわりと脳が痺れるような喜びを感じ、おれが守るんだ、と胸に誓ったのだった。
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