満ち満ちて別れ

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 三人掛けのソファの二人分をその細く長い足で占拠して、少女が可愛らしくあくびする。端に浅く腰かけた男へ凭れかかり、肩越しに彼の手元を見つめる。 「先生、もう少しだけ水を注いでほしいの」  甘えた声が卑俗に聞こえないのは美貌の故か。或いは少女という生き物に備わった特質だろうか。先生と呼ばれた男は口元に微笑を浮かべながら囁く。 「いいのかい、君の大切なバレエシューズが水浸しになってしまうよ」 「いいの。それより大事なことなんだから」  少女は自分の首を絞めるように手を回して、肌にまとわりついていた髪を撥ねとばした。ブロンドの巻き毛は空気を含み、ゆっくりと落ちてくる。毛先は男の頬をくすぐるが、彼の方は意に介した風もなく平然と水差しを傾ける。右手には直線の首をした緑色のブリキの水差しが、左手には透明のフラスコが握られている。水がとくとくフラスコへ移っていく。  目を凝らすと、丸いガラス内部にドールハウスの一部屋のようなミニチュアが入れ込まれているのが分かるだろう。花とレースに溢れた空間。小花柄の布団が柔らかな山を頂いたベッドは主人の帰りを待っている。子供用に低めに作られた鏡台には、しかし大人用の化粧品がずらり並んでいる。口紅、マスカラ、パフ、香水瓶……。どれもが金色と薄桃色のパッケージに彩られている。床には数冊のファッション誌が無造作に開かれたまま置かれていて、八頭身のモデルが肢体を惜しげなく晒している。シフォンのリボンで束ねたレースカーテンが入れ物の縁に沿って部屋を包んでいる。  それで少女の気に入りだというバレエシューズはベッドの下の小箱に収められている。最初、ほんの数滴垂らされた液体は、ラヴェンダー色のマットレスに薄い膜を張っていた。そこに続けて水が流れ込んだので、膜は破れ水位が上がっていく。当然、バレエシューズを収めた紙箱などまっさきに水中へ沈み、ふやけて形が柔らかく歪んでいく。色素も水に流れ出て色褪せていく。  水が部屋に沁み込むほどに、流れ出る色と共に芳しい香りが立ちのぼる。何か花の香りと思しき華やかな、少女をよく表す匂いである。少女は自分の香りをかいで陶然とし、またおねだりする。 「あともう少しだけ、入れて先生」  男は微かに眉を上げ、少女の顔に目を走らせる。 「今夜暖かいベッドで寝られなくなってしまうよ」 「構わずやって頂戴よ、ね」  濡れた唇が囁く言葉は、甘い響きの裏に固い意志が覗いている。男は淡い溜息を吐く。本当は肩もすくめたかったかもしれないが、右に水差し、左にフラスコ、迂闊に動かせば少女の部屋が壊れてしまう。そこはぐっと堪えて彼女の言いなりに水を足す。水面はベッドの足を飲み込み椅子の座面に接し、鏡台の天板に達する。化粧品がぷかぷか浮かび上がって踊り始める。  男はそろそろ良いだろうとガラスの容器をローテーブルに置こうとする。その手を押さえて、 「もうほんの少し、これで終わりよお願いよ」  少女が囀る。そうして男の手に重ねた自分の手に力を込め、水差しを傾けさせる。水は滑らかに出てくる。フラスコの中で、あらゆるものが壊れていったり浮かび上がったりしている。繊維は解け、木は膨張する。 「これではもう君は部屋に帰れない」 「もう少しだけ必要なの」 「おいおい、これ以上やったら溢れてしまうよ」  男がそう言うが早いか、容器の口から水があふれた。その瞬間、少女は勝ち誇ったように立ち上がる。 「いらないんだもの。自由になりたいのよ」  かつて少女が住んでいた部屋は完全に水没した。少女が少女であるために必要なものは、全て消え失せてしまったのだ。じゃあね、ともはや少女ではない一人の人間は、スカートを翻し去っていく。やれやれ。残された男はようやく解放された両手で大きく伸びをする。
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