恋を諦めるまであと

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 僕の隣の席の田柄さんは、今日もバタバタと大忙し。真剣な眼差しでパソコンを睨んでは、はあっと溜息を吐いて、きっと困ったような表情で僕に向き直るんだ。 「ごめーん。宛名書き30枚、君に頼んでも良いかな?」  ほらな、やっぱりそうきたか。  僕は笑顔を取り繕って、 「良いですよ」  田柄さんから30枚の配送伝票を受け取った。 「こっちがお届け主様の住所で、こっちが送り主様の住所ね」 「かしこまりました」 「急いでないから、明日までに終わらせてくれればいいから」 「かしこまりました」 「じゃあ、私はこれから外出するから、終わったら別の社員さんに渡しておいて」 「かしこまりました」  感情を押し殺すのにも、ようやく慣れてきた今日この頃。そう言って、田柄さんは僕の肩に左手を置いた。その中の一つ、薬指がキラリと光る。 「宜しく、アルバイト君」 「・・・かしこまりました」  コートを手に席を立つ田柄さんの背中を、僕は目で追わなかった。そんなことしたら、余計に惨めな気持ちになると思ったからだ。  田柄さんは正社員で、僕はただのアルバイト。立場が違うから、彼女は僕の名前すら呼んではくれない。しかも、僕はまだ大学生。大人な田柄さんと僕には十年のブランクがあるから、まだまだガキの僕なんて、彼女は相手にもしてくれない。  それに、田柄さんは・・・。  共通項を探せば探す程、この会社の同じ部署内で働いていること以外、何もないことに気付いて、僕は自分を情けなく思った。  残りの伝票があと27枚。  せめて字ぐらいは綺麗に書いて、田柄さんにデキるアルバイト君だと思われたい。そんな気持ちが滲み出すぎて、手がガタガタ、汗がじわじわ。今日はもう、彼女には会えないというのに。田柄さんはいつも、外出先から直帰する。一人暮らしの僕とは違って、暖かい光の灯る、優しい旦那の待つ家へ。  残りあと、23枚。  彼女の旦那は動画クリエーターの仕事をしている。そのほとんどが在宅勤務なのだと、バイトを始めたての僕に彼女が昔、嬉しそうに教えてくれた。 「いつ、ご結婚されたんですか?」 「この会社に入ってすぐ」  もし僕があと10年早く生まれていたら、彼女は僕のものになっていたのだろうか。僕の隣で優しく微笑む彼女の姿が、写真立てに収まっていたのだろうか。  いや、多分、それは絶対にない。  残りあと、20枚。  そんなことを考えては、毎回頭を大きく振る僕。田柄さんと旦那は同じ大学の先輩後輩だ。しかも、2人の通っていた大学は、ずば抜けて偏差値の高い国立大学で、しがない私立大学に在学中の僕にとって、そこに入り込む余地はまるでなかった。  認めたくはないけれど、完敗だ。  残りあと、18枚。  田柄さんに好意を持つようになったきっかけは別に大したことじゃない。彼女がお土産を僕にくれた、ただそれだけだった。 「君って青森出身なんでしょ?」 「はい」 「私もそうなの。どの辺に住んでたの?」 「えーっと」  言葉では上手く説明できないから、地図を書いて彼女に見せた。 「この辺りか。私はね、国道をずっと真っ直ぐに行ったとこ」 「へえ」 「近いようで、全然近くないね。ってことで、はい、これ、りんごっ!」  僕は一瞬、戸惑った。 「どうも・・・これ、わざわざ買って」 「ううん、取引先の人から頂いたの。蜜入りって聞いたからお裾分け」  色気のないスーパーの袋にくるまった、大きくて真っ赤な、ちょっと歪な形のりんご。買ってきたんじゃない、と彼女の返事を聞く前に僕は理解した。  にしても、りんごって。  いや、貰えるものはありがたい。けど、りんごって。女子って普通、チョコレートとか焼き菓子とか、可愛らしいものくれるんじゃないのか。 「じゃあね」 「え、あっ」  彼女は長々と話をするわけでもなく、淡々と仕事に戻っていった。  え、これだけ?  残りあと、13枚。  僕は今まで、同じ年代の喋ることに夢中な女子しか知らなかった。話を聞いてほしいのか、共感してほしいのか。どれだけ真面目そうな子でも、ちょっと水を向けると堰を切ったように話し出す。彼女たちの生み出す言葉が、何かしらの化学式で水を生み出すことができたなら、ダムの水が枯れ果てたり、日照りが続いて農作物が上手く育たないなんてこともなくなるのに。止めどなく続くお喋りに、僕はいつだってそう思っていた。無駄話こそが、女子を作る全てなのだと。  残りあと、11枚。  でも、田柄さんは違った。僕の方から呼び止めようかと思ったくらいだ。彼女たちとは違い、やけにあっさりしすぎている。そりゃ断然、色気があって、声をかけやすいのは彼女たちの方だけど、でも、田柄さんは・・・。 「?」  これが、パートナーがいる人の余裕ってやつなのか、それとも大人の余裕ってやつなのか。物静かなわけでもなく、ハキハキと言葉は交わすけれど、ダラダラと後を引かない田柄さん。  もっと知りたいな。  残りあと、6枚。  田柄さんが結婚しているのは知っていた。でも、当時はまだ、今程よこしまな気持ちを抱いていなかった。ただ純粋に、田柄さんを知りたかっただけなのだ。だから、僕は仕事を理由に、田柄さんとラインを交換した。  残りあと、5枚。  聞かなきゃ良かったと、すぐに後悔した。思い知らされる現実が、僕の胸に重くのしかかる。  田柄さんは既婚者で、母親だった。  3人で幸せそうに笑うラインのちっぽけなアイコンに、僕は物凄く嫉妬した。手に入らないもの程、大切に思えてしまう男の心理だ。別に僕だって、こんな短期間で、田柄さんを本気で好きになったわけじゃない。  残りあと、1枚。  でも、どれだけ自分に言い聞かせても、思いがそこに生まれてしまったのは事実だった。後ろ髪を引かれるように、僕は田柄さんのことを目で追うようになってしまった。 「あ」  次の配送伝票を取ろうとして、もう紙がないことに気が付いた。  書き終えた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。窓辺に寄りかかって、人通りの多い交差点を僕は見下ろしていた。  田柄さんは娘さんを迎えに行って、二人で仲良く、旦那の待つ家へ直帰したはずだ。もうこの辺りにはいるはずがないのに。ダークブラウンの長い髪を探す僕の横顔は、いつになく口元がだらけていたに違いない。 「さつき君。どうしたの?」  僕より少し遅れて入社した、アルバイトの白井さんに声をかけられた。聞けば同じ大学で、同じ学部らしいけど、ここで会話をするまで、僕は彼女の存在を知らなかった。 「うん、ちょっとね」  何も言わずに立ち去ろうとする僕。そんな僕の腕を彼女は掴もうとしたから、僕はひょいっと腕を上げた。 「なに?」  どうでもいい女に触れられるのは、どうも苦手だ。引き止められるのも。会話が長引くのだって、物凄く嫌いだ。  でも不思議と、田柄さんなら良いかなと思ってしまう。 「いや、あの、えーっと」  こうなる予感がしていたから、嫌だったのに。結局、食事に誘われたけど、断っておいた。そうしたら、彼女は次の日から職場に来なくなった。  根性のないやつめ。  僕は毎日、カレンダーにバツを付けている。この恋を諦め切った瞬間に、大きな花マルを付けてやる予定だ。でも、それがいつになることやら。まだまだ遠いその日を夢見て、僕はふかふかの毛布を頭から被った。  次の日、田柄さんにまた配送伝票の宛名書きを頼まれた。この前書いたものが丁寧で読みやすかったから、また僕に頼みたいとのことだった。嬉しい気持ち半分、してやった気持ち30%、切ない気持ち2割程度。様々な気持ちを押し殺したまま、僕は笑顔で頷いた。 「かしこまりました」  田柄さんは何事もなく、 「私はこれから出かけるから。できたら別の社員さんに渡しておいてね」 「かしこまりました」 「じゃあ、後は宜しく。アルバイト君」  今日も名前は呼ばれない。僕は振り向くこともないまま、心の片隅で小さく彼女に手を振った。 『いってらっしゃい』  これは、叶う見込みのない恋だ。不毛な恋を僕はしている。でも、もう少しだけ、田柄さんと恋愛要素のこれっぽっちもない会話を繰り広げていたいんだ。  だから、もう少しだけ、せめて、もう少しだけ。  大学を卒業するまでは、彼女の隣に座っていたい。積み重ねられた配送伝票に目をやって、僕は上から1枚目を取った。この配送伝票みたいに、僕の気持ちもいつか消えてなくなればいいのに。カレンダーにバツ印を刻むように、伝票の束がゆっくりと、ゆっくりと減っていく。  そうして、いつか、いつか。  残りが0枚になったとき、僕の気持ちはどうなるんだろうか?  僕がこの恋を諦めるまで、あと、あと──。
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