1人が本棚に入れています
本棚に追加
・4
ふわ、と前髪が揺れる。心地の好い風が吹く、気持ちの良い日だった。
もっとも、天界はいつもそんな感じなのだけれど。それがわたしの沈んだ心を、少しだけ癒してくれた。
――いつでも、この日だまりのような心でいろ。
ゴトウさんの言葉が、ふと頭をよぎる。
つらい気持ちや悲しい気持ちを抱いていいのは、人間だけだ。俺たちは、曲がりなりにも神で、感情の起伏があってはいけない。
生神である以上、負の感情は、殺せ。そして、いつも笑顔で、魂たちに安心を与える存在でなければいけないんだ――と。いつも言っていた。
自分の両頬を指でつついて、にー、と笑ってみせる。それを何度か繰り返して、よし、と気合いを入れる。
そうして、わたしは目の前の小さな建物を仰いだ。
今日話をする予定の魂が待ち合わせ場所として指定してきたのは、このお洒落な喫茶店だった。
今わたしが住んでいる場所からは少し離れており、来た事はなかったけれど、周囲には色とりどりの花が植えられており、とても素敵な雰囲気のお店だった。
時刻は午前10時45分。もうすぐ待ち合わせの時間になるけれど、魂が来そうな気配はまだない。わたしはテラス席に座り、到着を待った。
それから、15分。15分。さらに15分。
もしかして、すっぽかされたのかな――と不安になり始めた頃、ようやくそのヒトは現れた。
小さな魂がゆらりと揺れ、ヒトの姿に変わる。おそらく70は超えているであろう、彫りの深い顔の気品ある男性がひとり、静かに佇んでいた。
わたしは席から立ち上がって、小さく会釈をする。男性もまた、流れるように頭を下げた。
「……本当に、申しわけありません。時間も場所もこちらから指定したのに……遅れてしまって」
「いえ」
眉を下げ、肩を落とす男性に、わたしは首を振った。男性はまた頭を下げて、すーっとわたしの目の前に移動し、席に座る。
わたしも椅子に座ったところで、紅茶が運ばれてきた。ハーブのいい香りが、辺りを包み込んだ。
「……ああ、とても美味しそうだ」
男性は目を閉じて、その紅茶を口に運ぶ。
互いに一息ついたところで、男性は静かに、「実は私、とても方向音痴なんですよ」と照れくさそうに言った。
「ここ……とてもいい場所でしょう」
「ええ。とても」
「私のお気に入りなんですがね、いつも道に迷ってしまって。今日も早めに出てきたんですが、やっぱり迷ってしまって。……本当に、ダメですね。私は」
「いえ、そんな事は――」
「いいんですよ」
男性が、目尻にしわをつくる。とても優しそうな笑顔だった。
「私もね、どういうわけだか、たくさんたくさん生きてしまいましたがね。……悲しいですけれど、やっぱりね、いるんですよね。私みたいな、何をやってもダメな人間っていうのは」
「やめてください。そんな事、おっしゃらないでください」
強い口調で言う。すると男性は静かに紅茶をすすって、ふ、と息を吐いた。
「……ところで、かわいいお嬢さん。お嬢さんは、今まで恋というものをした事がありますか?」
「恋……ですか?」
その言葉に、少しだけ頬が熱くなる。わたしは、かぶりを振って、膝の上でぎゅう、と握りこぶしをつくった。
男性が、小さく笑う。顔を上げ、遠くを見つめる男性は、「遠い昔の話ですが」と唇を動かした。
「私がまだ若かった頃。私は、ひとりの女性と恋に落ちました。彼女はユイという名前で、お嬢さんのように素敵な笑顔で笑うヒトでした。
私は、あの頃から本当に頼りない男で……でも、彼女はそんな私に微笑んで、しっかり手を引っ張ってくれるような……そんなヒトでした。
お互いに手を取り合っていれば、あとはもう、何もいらない。将来、必ず結婚しようと約束した仲でした」
「約束、した……」
その言い回しに、さっと胸の中が冷たくなる。男性は吐息を漏らすように、「ええ」とうなずいた。
「その日は、ふたりで食事に行く予定でした。忘れもしません。彼女は、『今日はとっておきのかわいい服を着ていくから、楽しみにしておいて』と言っていました。ならば私もと、少し頑張って良い服を買って、着ていきました。
でも、待ち合わせ場所に、彼女はもういませんでした。
そこにいたのは、横転した潰れた車と……紅く染まった水玉模様の白いワンピースを着た……彼女でした」
男性の声は、微かに震えていた。わたしは、視界が、ぐわんと揺れた気がした。
「――もう少しだけ」男性の口から、小さな声が漏れた。
「……もう少しだけ、私の到着が早かったら。きっと、あんな事にはならなかったでしょう。
いつもよりもう少しだけ早く歩けば、きっと、あんな事にはならなかったでしょう。
いつもよりもう少しだけ気をつけて、途中で道をひとつ間違えなければ、きっと、あんな事にはならなかったでしょう。
見栄を張っておしゃれなんてせず、いつもよりもう少しだけ早く家を出れていれば、きっとあんな事にはならなかったでしょう。
……どれでもいいから、ほんの少しだけ違っていれば。きっと彼女は私の隣で、ずっと笑ってくれていたでしょう」
男性の目から、一筋の滴が流れ落ちる。わたしは唇を噛んで――それでもまっすぐに、男性の事を見続けた。
「……毎日、とてもつらかった。全身を針で刺されているかのような、そんな痛みの中で、私はずっと生きてきました。
彼女への贖罪のため。そして、彼女の分もしっかり生きるため。
……だから、もういいのです。これ以上は、ないのです。
私はもう、充分生きた。生き過ぎたくらいだ。
私には――もう、これ以上生きる資格も、生き返る権利も、気力もないのです。
お願いです。もう、終わりにさせてください」
その言葉に対して、わたしは。
……わたしは。何か言葉を返す事なんて、出来なかった。
最初のコメントを投稿しよう!