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あと少しだけ。
あともう少しだけ待て、自分。
あと一時間……いや、三十分。
じゃないと、また駄目になる。
「重い」。「メンヘラ」。
どれだけ言われたら懲りるんだ。
だから待て。少し待て。少しだけでいいから。
待て。待て。待て。待て。
待てってば!!
『メッセージしつこすぎて怒ってる?』
そう思うなら、そうやって送るなよ。脳みその中の全世界からそう集中砲火を喰らった荻島風花(おぎしまふうか)は、枕に顔面を撃沈させた。
しかし、今度こそ返事が来るのではと謎のタフさですぐに顔を上げ、スマートフォンを睨む。手に乗せた液晶には右側ばかりに吹き出しが延々連なり、典型的な重い女の画面レイアウトとなっていた。
でも、知りたい。なぜ休日であるはずの土曜日だというのに、彼は返事をくれないのか。
知らないうちに彼を怒らせたのだろうか?
急な仕事が入っただけだろうか?
他の誰かと一緒にいて、返信を送れずにいるのだろうか?
他の誰か?それは、友達?
男友達?女友達?
まさか、ほかに好きな人できた?
そんなんじゃなくても、私に飽きた?
むしろ嫌いになった?
しつこいから?重いから?
もしかして、自然消滅させようとしてる?
駄目だ駄目だと思いつつ、風花の指先は動き出していた。だって、知りたい。
何考えてるの?
私のこと、どう思ってるの?
風花がいよいよ取り返しのつかなくなりそうなメッセージを送信する直前に、玄関チャイムが鳴った。
風花は玄関に向かい覗き窓で外を確認した後、ドアを開けた。来訪者は、まだ風花の彼氏であるはずの吉川陽太(よしかわはるた)だった。
「うーっす」
「うす…」
ダウンジャケット姿の陽太は、レジ袋を持ち上げた。
「お昼、もう食べた?牛丼食べれそう?」
そう言った陽太の息は白い。部屋着の風花は流れ込んできた外気の冷たさに、思わず腕を組んだ。
「まだ食べてないけど、え?うちで食べんの?」
「そりゃ、こうやって持ち帰りにしちゃったし。不味かった?」
「不味くはないけど…」
人の家に来たかったら、しかもそこで持ち帰りの食事を食べたかったら、来てもいいかどうか家の主に事前に連絡入れるものだろう、普通。内心でぼやきつつ、風花は「ちょっと待って」と一旦ドアを閉め方向転換すると、急いで部屋の床に放置していた洗濯済みの衣類を掻き集め、それをクローゼットに放り込んだ。それから、ぐるりと狭い部屋を見回した。彼氏に見られて困るものは特に見当たらなかった。
「お待たせ」
風花は再びドアを開けると、陽太を部屋の中に招き入れた。靴を脱いだ陽太に洗面台を使っていいか訊かれた風花は、また彼を足止めし、今度はユニットバスの中を確認した。洗面台回りは様々な化粧品と洗剤とで溢れ返っていたが特別問題はないと判断し、陽太を上げた。
陽太に洗面台を貸している間に、風花は食卓がわりに使っているローテーブルの上を片付けた。ただ載っていたものをベッドの上に移動しただけではあった。
上着を脱ぎ、テーブルを中心に風花の斜め横の位置に胡坐をかいた陽太は、いそいそとレジ袋から二人前の牛丼と割り箸を出し、テーブルにセッティングした。
「いただきます」
ひとことだけ言って、陽太はさっさとひとり牛丼を食べ始めた。
食べ物を美味しそうに食べる人だと、風花は陽太と食事をするといつも思う。傍から見ていて本当に気持ちがいい。とても結構なことだと思う。思うのだ。思うのだけど……。
陽太が風花の前にある、まだ蓋も開けていない牛丼の容器を見た。
「食べないの?もしかして、お腹空いてない?」
「食べるよ」
割り箸で牛丼の具と白飯とを口に運んだ時、風花は気が付いた。そういえば、陽太からの返事がこないのが気になって、朝からインスタントコーヒー一杯しか口にしていなかった。そんなことに気付いてしまうと、やはり訊かずにはいられなかった。
「あのさ」
「ん?なに?」
「今日、今まで何してたの?」
「何って、なにも」
「だったら…」
どうしてメッセージ返してくれなかったの?より直接的な質問を飲み込み、風花は言葉を変えた。
「何もってこと、ないんじゃない?もうとっくにお昼過ぎてるし」
「いやほんと、爆睡してたわ。ここんとこ残業続きで寝不足だったから」
「……スマホの音に気付かないくらい、ぐっすり寝てたんだ」
「……」
陽太の箸の動きが止まった。彼は床に置いていた自分の上着のポケットを漁り、取り出したスマートフォンの画面を見た。
「あ」
ちらりと彼は風花を上目遣いに見た。
「また充電切れてたんでしょ」
「違う。電源切りっぱなしだった」
「なんでスマホの電源なんて切ってるの?」
もしかして、私からの連絡がしつこいから?
「週末にへんな時間に来るメールあるんだよ。配信停止すればいいんだけど、面倒で放置してて…」
うつむき、電源を入れたスマートフォンの画面を二撫でした陽太は、黙り込んだ。
……あの画面、見たんだ。風花は自分が執拗にメッセージを送れば、相手の画面がどんな状態になるかは知っていた。知ってはいたが、それを見た相手の感情と言動及び行動まではじゅうぶん想像できてなかった。
「風花ちゃん…」
陽太が顔上げ、風花を見た。その見開かれた瞳の中にあるものは、嫌悪?軽蔑?当惑?幻滅?戦慄?拒絶?憐憫?
どれ?どれでも、どうせもう終わりだけど。
陽太はスマートフォンをローテーブルの上に置いた。
「暇か」
彼は食事を再開させた。すでに陽太は現代社会に必須の魔法の機械より、目の前の食事の方に夢中だった。
それでも、平静を装っているだけではと風花は陽太をじっくり観察した。だが、スマートフォンを見る前と見た後とで、彼の様子は全く変わりなく見えた。彼は良くも悪くも自分の感情を隠せない男だ。風花は早々に陽太の気持ちを勘繰ることをやめたが、陽太の淡泊過ぎる反応に安心を通り越して物足りなさを感じた。
それでいいのか?自分の彼女が恋愛依存と思われる行為に及んでいるというのに、「暇か」の一言だけで終わらせていいのか?それって、自分の彼女に興味がないということではないか?
「あ…」
顔を上げた陽太になにか蒸し返されるのではと、風花はいっそ期待した。
「なんか、あったかいものない?インスタントの味噌汁とか緑茶とか、白湯でも全然いいんだけど」
「……ある。インスタント味噌汁」
肩透かしを食らった風花が床から立ち上がると、陽太も腰を上げかけた。
「いい、いい、場所教えてくれたら俺やるから」
「いい。食べてて」
台所で薬缶に水を入れ、それを火にかけ、風花は後ろを振り返った。
風花の彼氏は、ついさっき人の手を煩わせたくないような素振りを見せておきながら、今はこちらを気遣う様子も全くなく、ひたむきに牛丼と向き合っていた。
陽太を風花に紹介したのは、風花の小学生の頃からの幼馴染だった。悲惨な失恋を繰り返す親友の姿を長い間見守ってくれていた彼女が、「きっと風花に合うよ」と自分の彼氏の友人と風花を出会わせた。
恋愛依存傾向にある自分に、自分を良く知る親友が紹介してくるくらいだ。相手も余程重い男なのだろうと風花は思っていた。だが、紹介された吉川陽太という男性は、口数は多くないものの影の気配のない人物だった。
それもきっと、ただの表面的な姿なのだろう、隠し持っている暗い部分が絶対にある筈だと、風花なりに彼との会話の中で探りを入れてもみたが、手応えは全く得られなかった。彼はただただ、ネアカな男だった。
彼は、自分とは違う世界の人間だ。数回陽太と会った時点でそう判断を下した風花は、陽太との連絡を断とうと考えていることを親友に仄めかしたが、なぜか親友はそれを強く止めた。風花がどんな問題のある男と付き合おうと、慰め心配しこそすれ意見はしてこなかった彼女には珍しいことだった。
結局、風花は親友への義理からその後も陽太と会い続け、今に至っている。
「なんか、この部屋暗くない?」
牛丼と味噌汁を完食した陽太はおもむろに立ち上がり、まだ食事中の風花が座る横を通って窓を覆っていたレースカーテンを開けた。
「やだ、閉めてよ!日焼けしちゃうじゃん!」
風花は牛丼とともに日陰に移動しながら、陽太に抗議した。
「日焼けって、夏じゃないんだから」
「紫外線に夏も冬もないからっ」
陽太は風花の美容的見地からの意見を受け入れるどころか、カーテンの奥の窓まで開け放った。
「寒っ!ちょっと何勝手に…」
風花は急いでベッドの上に掛けていたブランケットを取り、それで体を覆った。
「換気、換気」
窓側から逃げ出した風花に代わって、彼女がさっきまで居た場所に陽太が腰を下ろした。
陽太の背中から差す、眩しい陽の光。いやだいやだと風花は思った。自分は薄暗い空間、暖かい淀んだ空気の中に居たいというのに。勝手に冬の澄んだ外光と外気を取り込んだ陽太が忌々しかった。
一方、それだけのことをしてくれた張本人は何をするでもなく、食事を摂る風花をただ見ていた。風花は居心地の悪さを感じた。
「そんなふうに見られてると食べにくいんだけど」
「そう?でも、他に見るものないから」
「だったら、せめてなんか話してよ」
「『なんか』?んー…」
陽太は顎を掻いた後、ぐいっと背筋を伸ばした。
「それ食べ終わったら、出掛けない?」
「どこに?」
「別に。ただの散歩」
陽太は床の上着に手を伸ばし掴んで膝に引き寄せた。風花の返事を待つまでもなく、彼の中で次の予定はもう決まっているようだった。
「行きたくない。寒い」
「もう家の中も外と同じくらい寒くなっちゃったじゃん」
「誰のせいで…」
まさか、陽太はその理屈を通すために敢えて窓を開けたのではと風花は思いかけたが、やめた。彼はそういう手際の良い人間ではない。
「途中のコンビニでアイス買ってあげるから」
「こんな季節にアイス食べたくないし」
「……」
陽太は説得の材料を探し始めたのか、天井を見上げた。しかし、そうしているのも僅かな間のことだった。
「いいじゃん。一緒に散歩行こうよ。風花ちゃんと散歩したい」
そこでちょうど、風花は牛丼を食べ終えてしまった。味噌汁を入れていた椀もすでに空だった。
「わかったよ」
風花は牛丼の容器と汁椀それぞれ二人分を持って立ち上がり、台所に向かった。
「準備するから、ちょっと待ってて」
シンクに昼食の名残りを放り込んだ風花は、身支度のためにユニットバスに籠った。洗面台の前で歯磨きをしている途中で、ふと、鏡に映った自分と目が合った。
どう見ても、機嫌が良い。風花は居た堪れなくなり、鏡から目を逸らした。
一緒に散歩したいから、誘う。
一緒に牛丼を食べたいから、来る。
見るものが他にないから、見る。
彼は、それだけなんだ。お互いしかいないから、いつも身近に存在を感じていないと不安だから、そういうことではないんだ。陽太の動機は軽く、考えも単純だ。でも、それでいいんだろう。
風花は歯磨きの泡を洗面ボウルに吐き出した。蛇口で泡を流した後、両手で冷たい水を掬って顔に押し付けた。
何人かの男性と付き合い、邪険にされ、ふられ。その経験から、風花は自分が「重い女」であることを悟った。
だから、自分と同じような男性と思い思われる仲になることを願った。依存し合って、互いを縛り合って、二人だけの世界を作り上げる。それが風花が理想とする恋愛となった。
だというのに風花の今彼ときたら、連絡はろくに返さない。そのわりに、自分勝気に気紛れに家にやって来る。平日には殆ど音信不通な上に、休日でも彼女を放っておいて、しょっちゅう一人で出掛ける。それなのに、一緒に散歩したいなんて言い出す。
全然、風花を安心させてくれない。それなのに、会ってその暢気な顔を見せられると、それまで抱えてきた不安や疑いの気持ちが、いつの間にかどこか遥か遠くに吹き飛んでいってしまうのだ。
風花は濡れた顔をタオルに埋めた。タオルにはいつだったかの日向の香りがまだ残っている気がした。
「暇か」か。「重い」ではなく。そう言われたのがそれはそれで悔しく、世間の多くの人のように新しく推しか趣味かを作ろうと、風花は心密かに決意した。
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