ーそれぞれの速度

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「だったら早くあそこ渡って、帰ろう」 「ちょ、待てよ。てか、俺が納得いってねえのはそこじゃねえ」  構わず、ぼくは重い背中を押した。周りの人がこっちへ目をやる。  すると、お兄ちゃんは急に足を止め、もっと体重をかけてきた。 「ちょっ、なにしてんの。早く、歩いて」 「いいから押せよ。さっさとすませてえんだろ」  ぼくはもう、体ごとぶつかるようにして、大きな背中を押した。 「おら、ぜんぜん進んでねえぞ」 「それは……っ、お兄ちゃんっ、次第、じゃん……っ」  ぐいぐい押してもびくともしない。  ぼくが情けないというか、お兄ちゃんが大人げないというか。  バカらしくなって、ぼくは手をどけた。 「なんだ、終わりかよ」 「いいよ、もう。ゆっくり行こう。その代わり、何時になっても、ご飯は家で食べるからね」  お兄ちゃんはきょとんとしてから、ああと、小刻みに首を動かした。 「メシのこと気にしてたのか」 「お兄ちゃん、一清さんに遅くなるって連絡するとき、ご飯は家で食べるからって言って」 「わかったよ。なに。もしかして、俺の財布事情でも心配してくれてんの」 「財布事情……というか」  ぼくは途中で言葉を切った。  貸し借りの問題だと言ったところで、中学生がなにいきがってんだと笑い飛ばされるだけで、無理やり外ご飯につき合わされるかもしれない。 「そういやあ、お前、ハチコウ狙うことにしたんだって?」  遊歩道の真ん中辺りまでいったとき、前後もなく、お兄ちゃんが切り出してきた。 「え、え?」  と、ぼくはしどろもどろになってしまった。  こんなところで言われると思っていなかったし、そもそも、具体的な「志望校」の話は、お兄ちゃんにはしていなかった。  けど、ごまかす理由はない。ぼくは唇を結んで頷いた。 「まあ、がんばれよ。俺でよければアドバイスもするし」  ほくには意想外な返しで、目をぱちぱちさせた。  お兄ちゃんが、「あ?」と、眉をひそめる。  その細くなった視線をかわすように、ぼくは空を仰いだ。 「なんで上見る」 「なんか降ってくるかなあ、と」 「お前さ。俺をなんだと思ってんだよ。がんばれぐらい、普通に言うだろ」  もともと差のあるコンパスを、お兄ちゃんは早めた。自動的に、ぼくは小走りにさせる。  階段のところから眺めていた先端へ着いた。円を描くように、人々が欄干にひっついている。  ちょっと空いた隙間へぼくらもはまり込んだ。 「けど、惜しかったよなあ」  覗いていた海面へ落とすような声だった。  横を見ると、肩を縮こませているお兄ちゃんがいて、なんかおかしかった。  あんなふうに遠慮しているのを、もちろん、家では見たことがない。「俺を中心にセカイは回っている」みたいな振る舞いが、外でも多くて、それなのに、いまはちゃんと周りに気を使っていて、妙に可笑しかった。 「んだよ」  見つめていたら、目が合っていた。 「べ、べつに」  ぼくは目線を下げる。 「もう一年……」 「え?」  また横を見たけど、お兄ちゃんは口を閉ざしてしまった。  視線は遠くへいっている。  その線を辿って、海面と空との境へ、ぼくも目を向けた。上目使いをちょっとやれば、視界へ入るまでに、太陽はやってきていた。 「ねえ、さすがにもう帰らないとやばいよ」  お兄ちゃんは大きく息を吐いてから、渋々といった感じで歩き出した。  ぼくも後ろからいく。  もしかしたら、お兄ちゃんは夕陽が沈むまでいたかったのかもしれない。  目の前の背中が残念そうにしているようにも見えた。 「お兄ちゃん」  横に並んで、歩きながらとなりを見上げた。 「あ?」 「将来、競泳以外にやりたいことあるって、前に言ってたの覚えてる?」  お兄ちゃんはゆっくりと首を傾げた。 「覚えてないの?」 「言ったか?」 「言ったよ」 「……覚えてねえ」  明らかにお兄ちゃんは早歩きに変えた。  さっきから振り回されっぱなしだとわかっていても、ぼくは負けじとついていく。  それを楽しんでいるぼくも、どこかにはいるんだ。 「それは置いといて、ねえ。将来のこと、ほんとはどう思ってるの? 大学は、善之さんと同じところへ行くんでしょ」 「ああ」 「なにを学ぶの? 善之さんはたしか──」 「考古学な。院へ進むらしいけど、最終的にはどっかの博物館で働きたいらしい」 「じゃあ、お兄ちゃんは?」 「俺はスポーツ科学」  初めて聞く分野だった。  スポーツの科学──。 「って、どんなもの?」  科学というからには、体を動かすだけの勉強じゃなくて座学もあるのかな。 「俺は教育方面へいくつもりだから、まあ、その筋のもんを勉強するんだろ」  ……やっぱり大学は違う。より専門的なことを学ぶんだ。  高校へ上がるのだって、大きな壁を乗り越えなきゃならない。そしてその先には、さらなる壁と、いくつもの道がある。  これという道を、お兄ちゃんが見つけて進んだら、とんでもなく遠いヒトになってしまう気がする。  けど、生活環境はそんなに変わらないはずだ。善之さんだって、大学には、ウチから通っている。 「そのスポーツ科学? 教育方面って、なにになりたい人たちが入るの?」 「体育の先生とか。あとは、まあ、どっかの施設でインストラクターとか」 「……先生?」  このお兄ちゃんが?  天地がひっくり返っても、その選択はないと思っていたから、あまりにびっくりして足が止まりそうだった。  お兄ちゃんはどんどん進んでいく。  離されないよう、ぼくも歩みを早めた。 「まだちゃんとは決めてねえよ。子どもに泳ぎを教えんのもいいなと思ってるし」 「ええ! こ、子ども?」 「いちいちリアクションがでけえよ、お前。早く帰るんだろ。さっさと歩け」  頭の上から怒鳴られた。  周りの目もまだある。ぼくは、身も口も小さくして、一歩後ろを歩いた。  お兄ちゃんは、意外と子ども好きなのかもしれない。……ぜんぜんぴんとこないけど。  いろんな意味で、ぼくは衝撃を受けていた。  ぼくは、ハチコウに合格する目標で満足していたけど、それは決してゴールじゃない。合格できたとしても、もっともっと先がある。  本当にやりたいことまでは見えてないんだ。
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