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日が落ちて、桜をライトアップするための灯りが点くと、周囲の様相は一変する。
昼間もそれなりに賑わっていたけど、夜のほうが騒がしい気がする。陽がなくなると、空気も沈静化して、人の声をよく通すのかもしれない。桜も心なしか控えめに佇んでいる。
ぼくらのシートも賑やかになっていた。
三時ごろにまず善之さんが来た。缶ビールを詰めたクーラーボックスとともに。
お酒を飲むから、帰りはもちろん運転できない。だからお兄さんたちはみんなバスでやってくる。
となると、帰りの足がないことになるんだけど、お兄さんたちはそこも抜かりない。なんと、小林タクシーを手配済みなんだそう。
次郎さんを迎えに来るついでにみんなを乗っけてってくれるらしい。一度に全員は乗れないから、二往復もしてくれるんだそう。
小林先生は一清さん以上にできた人だと思う。普通なら、一緒に飲んで騒いでをしたいだろうに、送迎係に甘んじる。家人でもないのになあと、いつもぼくは思う。
日暮れが始まったころ一清さんが来て、それぞれのお店を終えた広美さんと次郎さんも来て、宴もたけなわになる。
夜の九時半を過ぎて、もう少しでお開きだとなったとき、ぼくはトイレに立ち上がった。午前からいて場所も知っているし、そう遠くはないから、一人で行こうとこっそり席を外した。
ちょっと離れてから、ぼくらのシートを振り返ってみた。やっぱり気づかれてない。
それにしても、あんなに飲んでいるのに、お兄さんたちはみんないつもと変わらない。となりにいるいかにもな酔っぱらいおじさんと違って、顔は赤くないし、目もどっかにいってない。
ぼくはそんなことを考えながら、露店の裏側に回って、桜の木を縫うようにしてトイレへ向かった。
用を足し、ハンカチで手を拭きながら外へ出る。視線を上げると、見覚えのある背中があった。
シカトしていこうと思ったけど、変ないたずら心に火がついた。ぼくに気づいていないみたいだから、普段の仕返しも兼ねて驚かしてやろうと思った。
忍び足で背後に近づく。
お兄ちゃんはのんきに携帯を見ていた。
メールでも打っているかの確認ぐらいはいいだろうと思って、ぼくは左腕のほうから覗いてみた。
子犬とだれかが映っている。
でも、すぐに画面は真っ暗になったから顔ははっきりしなかった。
お兄ちゃんを驚かそうと構えた格好のまんま、ぼくはしばらくフリーズした。
「お、やっと出てきたか」
お兄ちゃんのその声でぼくはフリーズをとく。それから見上げた目つきの鋭さに両手をさっと下げる。
なにも見てませんというのを悟られないよう、ゆっくりと視線を外した。
せっかくのチャンスを棒に振ったのだけれど、ぼくは顔を上げて笑顔を作った。
「もしかしてお兄ちゃんもトイレ待ち?」
「ちげーよ」
「……じゃ、なにしにこんなとこに」
「兄貴がさ、お前がいねえの気づいて、俺に迎えに行ってこいと」
「えー。小さな子どもじゃないんだから」
「俺もそう言ったよ。ガキじゃねえんだからって。けどお前、すぐ迷子になっから」
意味深げに見下ろし、お兄ちゃんは顔を近づけてきた。
ぼくは顔を背ける。下唇を突き出した。
「だーかーら。あれはお兄ちゃんがずんずん行っちゃうからですぅ」
「いやいや。それだけじゃねえし。高速のサービスエリアだろ、ショッピングモール、博物館、ああ、海水浴場もあった。そうそう、あれが最高傑作だな。迷子お預かりセンターで、中学生がポツンだからな」
ぼくは地団駄ふんだ。
事実だから反論もできない。それがまた悔しくて、ばんばん踏んだ。
「お前、あんま俺を焦らせるなよ」
最後のほうはちょっと小さくなって聞こえた。顔を戻すと、案の定、お兄ちゃんの背中は遠くにあった。
迎えに来たくせにぼくを置いていくのかと慌てて足を出したら、お兄ちゃんがくるっと向きを変えた。
突進してくる。えっとなるぼくに構わず、指先をどこかへ投げた。
「行くぞ」
「え? 待って、そっちじゃ……」
「いいから」
半ば怒ったように言うお兄ちゃんの体の向こう。立ち止まりこっちへ視線を刺してくる集団がいた。
お兄ちゃんがぼくの手を掴んで走り出した。よくわからない展開だったけど、さっきの人たちのほうへ行く勇気もなかったから、ずるずると身を任せた。
あくまでお兄ちゃんは自分の歩幅でいく。ぼくの足がそれについていけるわけもなかった。このままの調子で走らされたらいつか転ぶと思い、ぼくはお兄ちゃんの手を振り払った。
二人して立ち止まる。
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