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「んだよ。もう疲れたのか。情けねえな」
「……うるさい。お兄ちゃんとは元が違うの。ちょっとは考えて走ってよ。ていうか、なに。あの人たち、お兄ちゃんの知り合い?」
「どうせなら、その口も疲れりゃいいのに」
腹の立つ返しだったけど、肝心のお兄ちゃんの姿がなかった。
いや、話しているあいだは見えていた。若干、薄暗かったけれど。
声がなくなった途端、姿も見えなくなったのだ。捜そうと目を凝らしても闇が邪魔する。
段々と不安になってきて、お兄ちゃんを呼ぼうとしたら、視界の端になにかが見えた。
桜だった。
ちょっと遠くに立っていて、ぼくらがいたところと同じようにライトアップされている。
お兄ちゃん捜しもそこそこに、ぼくは桜へと走った。暗闇から早く出たかったし、桜をもっと近くで見たかった。
とにかく大きい木だった。先の先まで見ようと首をそらすと、後ろへ倒れそうになる。
はらはらと、ぼくの目元へ舞い落ちてくる一枚があった。つまもうとしたら、ようやくお兄ちゃんの声がした。
「でかっ。こんなデカい木……すげえな」
口を開けっ放しで見上げている。お兄ちゃんはそのままの格好でぼくのそばに立った。
「この桜の木、伊藤さんが言ってたのだよ。きっと」
「あ? 大志?」
「伊藤さんが昼間に教えてくれたんだ。普通のやつの三倍はある桜がどこかに生えてるらしいって」
ぼくも桜を見上げた。
そこに絶えず落ちてくるひとひら。その中の一枚を追うようにお兄ちゃんのあごが下りてきた。
ぼくの髪で止まった花びらをお兄ちゃんが取る。
「なんでもう散ってんだよ。俺たちの周りの木、散ってるやつあったか」
どうだったかなと、ぼくは首を傾げた。
「バカ。走るぞ」
そう言ってお兄ちゃんはまた駆け出した。今度は一人でさっさと行く。
また走るのかと、ぼくは渋々足を出した。
でも、途中で立ち止まった。あの桜は写真に収めときたい。ポケットの携帯を探った。
「人夢! 早く来い!」
お兄ちゃんの怒声が飛んできた。
どうしようかともたもたしていたら、またお兄ちゃんに手を取られ、引きずられるようにして走らされた。
クラクションが近くで聞こえた。お兄ちゃんもいきなり足を止めるから、ぼくは体当たりをかましそうになった。
歩道を行き交う人の姿が見える。桜もたくさん見えて、露店の賑やかな灯りも目に飛び込んできた。
ぼくは歩きながらはたと振り返った。
それほど長いあいだ走った感じはしないのに、ライトアップされた普通の桜しか見えない。
観桜会のぼんぼりも目に入る。
顔を戻したとき、お兄ちゃんからまだ手を引かれていたのに気づいた。大きな手が力任せにぼくの手を握っている。汗をかいてるのか、こっちにまでしっとりが伝わってくる。
「やっば。まじか」
こめかみにもうっすら汗がにじんでいる。
「あれがウワサのボーレイか」
お兄ちゃんは頭を掻き毟り、きょとんとするしかないぼくを強く見下ろした。
「もう少しでさらわれるとこだったんだぞ」
「え?」
「だから、さっきのデカい桜」
「うん」
「あれはボーレイ。ほんとは存在してねえんだよ。意味、わかってるか?」
そんなことより、いい加減この手をどうにかしてほしくてぐいと引いてみた。
けれども、水泳のお陰でお兄ちゃんの肩は柔らかいから、あまり効き目がない。ぼくは足を踏ん張り、両手を使って引いた。
ようやくお兄ちゃんは立ち止まる。
「いってぇな」
「なにが痛いのさ。それはこっちのセリフだからっ」
もはや鉄の塊と化している手。その人さし指を、ぼくは掴んだ。
さすがにお兄ちゃんは気づいて、ぱっと手を放した。
「お兄ちゃん、動揺がひどいよ。すごい汗だし」
「うっせ」
汗を拭うように手のひらをパーカーに擦りつけている。ぼくも自分の手を見て、それに便乗させてもらった。
お兄ちゃんから睨まれたことは気にしない。
「お前な……。てか、怖くなかったのかよ」
「怖いもなにも、とりあえずきれいだったし。それに、ボーレイなんかじゃないと思うよ。暗いからそう見えただけで、案外、昼間は普通に存在してんじゃない?」
本当はちょっと怖かったけど、ここぞとばかりに強がってみた。お兄ちゃんが弱まっているいまこそ、怖がりなだけのぼくじゃないんだと示すチャンスなのだ。
珍しく、お兄ちゃんは素直に納得したようだった。言い返すこともせず、頭を下げると首根っこを掻きながら、「カッコ悪ぃ」と呟いた。
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