ーそれぞれの速度

2/4
前へ
/21ページ
次へ
「ねえ、なんでぼくなのさ」  はたと出た疑問だった。ここまで来といて、いまさらなんだけども。  運転席より体一つ分後ろから目をやれば、お兄ちゃんが首ごと流し目をよこした。ハンドルを操作している指が、返答に迷っているかのように動く。 「なんでって、お前。……そりゃあ、まあ、いい感じにとれたからで。特別な意味なんてねえよ……ってか、なに人の勝手に覗いてんだよ」 「……覗く? って、なんのこと? 取れたからって、ぼくは果物じゃないんだよ」  は? と、フロントガラスへ向かって言葉を吐き出し、お兄ちゃんは前のめりになった。  運転中なのに、まだ初心者なのに、さっきから真剣さが窺えなくて、ぼくはちょっとした恐怖を感じた。  少しのあいだ、黙ってみる。  その間も、忙しなく、お兄ちゃんは目をしばたたいている。 「いやいや。そっちこそなんの話だよ。くだもんって」 「もういいから。お兄ちゃんは運転に集中して」 「それは端からしてるだろ」  ぼくへも被せてくるように鋭く返してきた。  しばらく無言になって、外を眺める。車が急に曲がるから、おでこの傍を窓にぶつけてしまった。  さっき、ファミレスでお昼ご飯を食べたとき、お兄ちゃんは、行き先を決めてないって言っていたけど、いまのカーブでわかった。  一時停止で、右のウィンカーを出す。国道の、この交差点からあの道路へ乗るのは、シーサイドラインへの鉄板コースだ。  となり町の商店街の狭い道路を抜け、田んぼに挟まれた道を行く。ローカル線の線路を横断し、山を一つ越えれば、じきに海岸線が見えてくる。  オフシーズンだからスムーズにいっているけど、これが夏になると、いま走っている分水路脇の道路からすでに混む。シーサイドラインへ入るのも一苦労だ。  やがて、正面に海が見えてきた。分水路にかかる橋を通り、海岸線をいく。  ただ、いまは南下しているから、運転席側に海がある。お兄ちゃん越しに見るのもあれな気がして、ぼくはずっと前を向いていた。 「あっ、そういうことか」  お兄ちゃんが大きな声を出した。 「なに?」 「いや、きょうはテンション低いなあって思って」 「そうでもないよ」 「さっきのさ、なんでぼくなの、ってやつ」  蒸し返された。  ぼくは、ドリンクホルダーへ手を伸ばし、途中のコンビニで買ってもらったアイスティーに口をつけた。 「お前、来んのヤだったのかよ」  声のトーンが一段下がった。  アイスティーを戻して、ぼくは手振りでも言う。 「嫌だったわけじゃないよ。ほんとにやなら、ちゃんと断ったし。……そうじゃなくて。なんていうか、ほら。たとえばこの車」  助手席の座面を叩く。 「善之さんのじゃん。お兄ちゃんに貸してあげてるってことは、きょうは善之さんもヒマってことでしょ」 「車使わねえからってヒマってことでもねえだろ」  ……それはたしかに言える。  ぼくは、なにを主張したかったのか、もはやわからなくなって、口ごもった。 「ええと」 「これだけははっきり言っとく。俺はだれでもよくて、お前を連れ出したんじゃない」  ゆっくりと横を見た。  前だけを、お兄ちゃんは見つめている。  いまはそれで当然。……なんだけど。 「これまで助手席に乗せたのもお前じゃなきゃだめだったからだ」  ぼくじゃなきゃだめ。  いままでのお兄ちゃんからは想像もつかない言葉で、ぼくはなぜかどきどきが止まらなかった。  膝に置いていた手を握った。  ……ていうか、どういう意味を持って、ぼくじゃなきゃだめなんて、お兄ちゃんは口にしたんだろう。  いろいろ都合のいい弟だから? ……それとも、本当に、ぼくじゃなきゃいけなかったから? 「人夢」 「はいっ」  声が裏返ってしまった。 「お前、免許持ってねえだろ」  お兄ちゃんがこっちをちらっと見た。ちょっと口角を上げて、にやっとしている。 「え?」 「免許持ってるやつ、ヘタにとなりに乗せてみろ。ブレーキが遅いだの、急発進だの、妙に口うるさくなるんだよ。自分は棚に上げて」 「……」 「お前だって腹立つだろ? お得意のメシのことで、俺にあれこれ言われんの」  変などきどきはすぐにどこかへいった。  ぼくは首を傾げ、考えてみる。これまでの食卓を思い返してもみる。  でも、いくら考えても、そのたとえは合ってない気がした。 「けど、お兄ちゃん、ご飯のことであれやこれや、ぼくに言ったことないじゃん。むしろ、家の味と違うとか、メニューが淡泊すぎるとか、文句言われないのが不思議なくらい。いつも残さず食べてくれて嬉しいよ。ぼくは」 「はっ」  と、一つ吐き出して、お兄ちゃんはいきなり、ぼくの頭を乱暴に撫でてきた。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

65人が本棚に入れています
本棚に追加