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「ねえ、なんでぼくなのさ」
はたと出た疑問だった。ここまで来といて、いまさらなんだけども。
運転席より体一つ分後ろから目をやれば、お兄ちゃんが首ごと流し目をよこした。ハンドルを操作している指が、返答に迷っているかのように動く。
「なんでって、お前。……そりゃあ、まあ、いい感じにとれたからで。特別な意味なんてねえよ……ってか、なに人の勝手に覗いてんだよ」
「……覗く? って、なんのこと? 取れたからって、ぼくは果物じゃないんだよ」
は? と、フロントガラスへ向かって言葉を吐き出し、お兄ちゃんは前のめりになった。
運転中なのに、まだ初心者なのに、さっきから真剣さが窺えなくて、ぼくはちょっとした恐怖を感じた。
少しのあいだ、黙ってみる。
その間も、忙しなく、お兄ちゃんは目をしばたたいている。
「いやいや。そっちこそなんの話だよ。くだもんって」
「もういいから。お兄ちゃんは運転に集中して」
「それは端からしてるだろ」
ぼくへも被せてくるように鋭く返してきた。
しばらく無言になって、外を眺める。車が急に曲がるから、おでこの傍を窓にぶつけてしまった。
さっき、ファミレスでお昼ご飯を食べたとき、お兄ちゃんは、行き先を決めてないって言っていたけど、いまのカーブでわかった。
一時停止で、右のウィンカーを出す。国道の、この交差点からあの道路へ乗るのは、シーサイドラインへの鉄板コースだ。
となり町の商店街の狭い道路を抜け、田んぼに挟まれた道を行く。ローカル線の線路を横断し、山を一つ越えれば、じきに海岸線が見えてくる。
オフシーズンだからスムーズにいっているけど、これが夏になると、いま走っている分水路脇の道路からすでに混む。シーサイドラインへ入るのも一苦労だ。
やがて、正面に海が見えてきた。分水路にかかる橋を通り、海岸線をいく。
ただ、いまは南下しているから、運転席側に海がある。お兄ちゃん越しに見るのもあれな気がして、ぼくはずっと前を向いていた。
「あっ、そういうことか」
お兄ちゃんが大きな声を出した。
「なに?」
「いや、きょうはテンション低いなあって思って」
「そうでもないよ」
「さっきのさ、なんでぼくなの、ってやつ」
蒸し返された。
ぼくは、ドリンクホルダーへ手を伸ばし、途中のコンビニで買ってもらったアイスティーに口をつけた。
「お前、来んのヤだったのかよ」
声のトーンが一段下がった。
アイスティーを戻して、ぼくは手振りでも言う。
「嫌だったわけじゃないよ。ほんとにやなら、ちゃんと断ったし。……そうじゃなくて。なんていうか、ほら。たとえばこの車」
助手席の座面を叩く。
「善之さんのじゃん。お兄ちゃんに貸してあげてるってことは、きょうは善之さんもヒマってことでしょ」
「車使わねえからってヒマってことでもねえだろ」
……それはたしかに言える。
ぼくは、なにを主張したかったのか、もはやわからなくなって、口ごもった。
「ええと」
「これだけははっきり言っとく。俺はだれでもよくて、お前を連れ出したんじゃない」
ゆっくりと横を見た。
前だけを、お兄ちゃんは見つめている。
いまはそれで当然。……なんだけど。
「これまで助手席に乗せたのもお前じゃなきゃだめだったからだ」
ぼくじゃなきゃだめ。
いままでのお兄ちゃんからは想像もつかない言葉で、ぼくはなぜかどきどきが止まらなかった。
膝に置いていた手を握った。
……ていうか、どういう意味を持って、ぼくじゃなきゃだめなんて、お兄ちゃんは口にしたんだろう。
いろいろ都合のいい弟だから? ……それとも、本当に、ぼくじゃなきゃいけなかったから?
「人夢」
「はいっ」
声が裏返ってしまった。
「お前、免許持ってねえだろ」
お兄ちゃんがこっちをちらっと見た。ちょっと口角を上げて、にやっとしている。
「え?」
「免許持ってるやつ、ヘタにとなりに乗せてみろ。ブレーキが遅いだの、急発進だの、妙に口うるさくなるんだよ。自分は棚に上げて」
「……」
「お前だって腹立つだろ? お得意のメシのことで、俺にあれこれ言われんの」
変などきどきはすぐにどこかへいった。
ぼくは首を傾げ、考えてみる。これまでの食卓を思い返してもみる。
でも、いくら考えても、そのたとえは合ってない気がした。
「けど、お兄ちゃん、ご飯のことであれやこれや、ぼくに言ったことないじゃん。むしろ、家の味と違うとか、メニューが淡泊すぎるとか、文句言われないのが不思議なくらい。いつも残さず食べてくれて嬉しいよ。ぼくは」
「はっ」
と、一つ吐き出して、お兄ちゃんはいきなり、ぼくの頭を乱暴に撫でてきた。
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