姫君と魔法の眼鏡[前]

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「出てきた。あれがさいごのはずだ……」  隣でささやき声がして、我に返る。見れば壮年の官吏が二人、執務室を退出して、館の外廊下を歩き去っていくところだった。  先に室内をこっそりのぞいて、詰めている人数を調べてある。算術の得意な少女は部屋から人が出てくるたびに引き算をして、残りが一人になるのを待っていたのだ。ムカワ城代は、皆がいなくなった後にしばらく読み物をしてから帰るのが常らしい。つまり今、彼は執務室の中で独り、噂の片眼鏡を使っているはずだ。  茂みから立ち上がった姫が、腰に手を当てて少年を見下ろした。 「じゃあ、たのむぞシュロ」 「え、たのむって、なにを」 「なんでもいいから大きな声で、ムカワ・フモンをおびき出せ。わたしがへやにはいってめがねを見てくるから、その間だけ、引きつけておいてくれればいい」 「そ、そんなこときゅうに言われても、できるわけが……」  小刻みに首を振る乳母子(めのとご)に、アルハ姫はにっこりと笑いかける。人の悪い笑いかただ。恐ろしい予感がした。 「だいじょうぶ、シュロならできるとも」  そう言って姫は、彼の目の前に手を差し出す。その指先からぶら下がっているものを見て、彼は凍りついた。緑色と灰色の複雑に交ざり合う鱗、くねくねと波打つ細長い体躯、口先からちろちろとのぞく裂けた舌──虫とも獣ともつかぬその生きものを、少年は物心のつく前からずっと忌避してきた、のに。  あろうことか姫はを素手でつかんだまま素早く彼の背後に回り、襟口から上衣(うえぎぬ)の中へと放りこんだのだ! 「……ッ‼」  背中の皮膚を撫でるように伝い落ちる、おぞましい感触。  体中の肌という肌が粟立つのと、生まれてから一度も発したことのない甲高い悲鳴が喉から飛び出すのと、反射的に茂みから転がり出るのと、すべてが同時だった。 「ああああ、いやだ、いやだ、だれか、せなか、せなかに……たすけてえ‼」  ぐるぐる走りながら泣き叫ぶ彼を置いて、アルハ姫は素早く姿を消す。と、ほとんど入れ替わりに、苔色の長衣をまとった背の高い男が外廊下に現れた。  少年は救いを求めて男を見上げる。しかし相手は何も言わず、ただ姿勢正しく立っているばかりで、庭に下りてこようとする気配もない。右目を眼帯で覆っているせいか表情もよくわからず、ただ左目を細く開いて、冷ややかな眼差しをこちらに向けていた。 「いやだ、いやだあ……ぁぁ」  ついに膝から地面に崩れ落ちたあたりで、ようやくもう一人、大人が現れた。騒ぎを聞きつけて様子を見に来た番兵だ。 「おい、どうした」  と駆け寄ろうとする兵を、片目の男──ムカワ城代が呼び止めた。二言三言、何かを言いつけたかと思うと、あとは踵を返して去っていく。何と薄情な! あれは噂通り、人の道を外れた呪い師なのかもしれない。涙で砂が貼りついた頬をゆがめて、シュロは内心に毒づいた。  その視界の隅を、何やら細長いものが横切っていく。緑色と灰色の入り交じったおぞましい紐状の……先刻アルハ姫がつまんでいた、そして今は彼の背中にいるはずの蛇が、庭土の上を滑るように這って逃げていく姿だった。
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