姫君と魔法の眼鏡[後]

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 次の瞬間、ほうきの柄が彼の手に押しつけられ、一陣の風が横を吹き抜けていった。振り返ると、長い髪をなびかせた少女の、城館の外廊下へと駆け寄っていく後ろ姿が見えた。 「ムカワ・フモン!」  まさに廊下を行き過ぎようとしていた長身の人影が、静かに立ち止まる。姫は欄干のすぐ下まで行くと、首をほとんど真上に向けるほどに振り仰いで、「ムカワじょうだい」と呼び直した。 「じょうだいというのは、じょうしゅのといういみだときいた」  男はゆっくりと振り返り、少女の眼差しを片方だけの目で受け止める。 「もう、もどってこない人の……わたしの母のかわりを、ずっと?」 「見えざるものを見んとするに、眼鏡も呪いも無用」  質問にまるで噛み合わないように思える返事を、唐突に男は口にする。 「鏡が一つ、あればよろしい」 「かがみ?」 「さよう。鏡の中をのぞき見れば、現し世にはすでになきものの影をご覧になることもできましょう。ただし」  そこで男は、言葉を切る。姫は先を促すように黙っている。シュロはほうきの柄を握ったまま、二人の顔を見比べるばかりだ。 「ただし、見えたところで、代わりにはなりますまい」 「……」 「あのかたの代わりは、何ものにも務まらぬ。私にも、御身にも。ただ、己が務めを為すよりほかは」 「おのがつとめ……」  少女は鸚鵡返しにつぶやいて、足元に視線を落とした。が、すぐに、くつくつと小さな笑い声を立て始める。シュロが訝しく思って横顔をのぞきこむのと同時に、あはははっ、と軽やかな哄笑が弾けた。 「じょうだいの話は、おもしろいな。なあ、シュロ、そう思わぬか?」 「えっ、いや……ぼくには、その、ちょっとむつかしいというか」 「うん、わたしにも、よくはわからぬ。わからぬが、きっとそれが、わたしの知りたい答えなのだ。そんな気がする」 「はあ……」  ああ、まただ、と少年は思う。呪い眼鏡の噂を聞いたときと同じ、爛々と輝く瞳。恐れ知らずの好奇心の塊が、また新たな標的を見つけたのだ。 「ムカワ・フモン。またなにか知りたいことができたら、そなたにたずねる。答えてくれるか?」 「私の存じていることであれば、何なりと」 「よし、やくそくだ!」  そう言うと少女は廊下に駆け上がり、城代の筋張った左手を取って、小さな両手のひらで包みこむように握りしめた。 「ずっと、ずぅっと……わたしが大人になっても、どんなにえらくなっても。よいな!」  一方的にそう言いつけて、手を放す。それからすぐにまた庭へ飛び降りて、呆気に取られているシュロの手からほうきを奪い取り、 「シュロ、行くぞ! つぎは、前にわのそうじだっ」  言うが早いか、(まり)の弾むように駆けていく。  「ちょ、ちょっと、アルハさまっ」  少年は慌てて後を追おうとしたが、城代に挨拶をしなければと思い直し、館のほうを振り返った。  ムカワ・フモンはまだ外廊下に立っていた。苔色の長衣の裾が微風に揺れているが、本人はまるで人形のようにぴくりとも動かない。アルハ姫の駆け去った方角を片目だけで眺めやる顔は相変わらずの鉄面皮で、何を思っているものか見当もつかなかった。  ただ、彼の筋張った左手は懐のあたりに押し当てられて、きれいに整えられた衣服のそこだけに皺が寄っている。手の下にはきっと、あの片眼鏡があるのだろうと、シュロは思った。 - 了 -
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